第60話『フリーダム』
フリムの心は、もはや「壊れた」では足りなかった。
すべてが混ざり合い、罪と愛と死への衝動が一つになってぐちゃぐちゃに煮えたぎっている。
(もう……死にたい。でも、できない)
視界の端で、床に倒れたままのキールがかすかに息をしていた。
その胸の上下が、フリムの中の何かを無理やり現実に引き戻す。
(何で、あなたは私に優しくするの??
私はあなたの大切な友達を殺したのに……)
フリムを繋ぎ止めていたのはキールの言葉だった。
涙がこぼれそうになり、歯を食いしばる。
フリムの脳裏で、あの声が何度も響いた。
――『でも……あなたが今も持っている、大切な人たちとの記憶が消えてしまう。
そんなの、寂しいじゃないですか』
――『今が……辛くてもきっと……助けてくれる誰かが現れますよ……』
キールの声は、優しすぎて、毒のようだった。
闇の中で何度も光を見つけては、そのたびに自分の手で壊してきた。
(バニーさんも、ライドさんも……クロノスも……モロス様も。
全部、私が見つけて自分で壊した。もうこれ以上私に光を見せないで。
ただ、辛くなるだけなの)
胸の奥で、優しさと罪悪感が絡まり合い、息ができない。
それでも、思考のどこかで囁く。
(そうだ、憎まれればいい。憎まれて、殺されれば楽になれる)
フリムの目が冷たく光を宿し、キールの頬を強く叩いた。
「……ッ!」
何度も、何度も。
怒りでも憎しみでもない、どうしようもない衝動で叩き続ける。
そのたびに、フリムの中で何かが切れていく。
やがて、キールが目を開けた。
視界の端が滲み、立ち上がったフリムは、笑っている。
「あなたの友達の断末魔は、とても愉快だったわ!!」
キールは眉間に深いしわが寄り、手の中で水が震えた。
「モロス様を裏切るのが悪いのよ! あいつなんて最初から欠陥品だった。いずれは処分される運命だったのよ!」
キールの目が細くなる。唇を噛みしめ、喉の奥で何かが焼けつく。
フリムはそれを見て、さらに笑った。
「ざまぁないわね。ロクデモナイ人生だったんでしょう?
あんたも同じよ、ねぇ? 無様に、喚いて、死ねばいいんだわ」
キールは、静かに水を集め、右手に刀を形づくる。
透明な刃が光を反射し、空気を裂いた。
「……それ以上、ケントを侮辱しないでください」
声は震えていなかったが、震えよりも深い怒りと悲しみが滲んでいる。
その目の奥には、友を想う確かな火があった。
フリムはその瞳を見た瞬間、胸が締めつけられる。
しかし、その痛みがし嬉しかった。
「友達はあなたのことを、さぞ憎んでるでしょうね!」
フリムの声が震える。
「助けもできない……役立たずだもの!! 死んだお友達がかわいそうだわ!!」
その瞬間、キールの感情が弾けた。
「うわあああああああああ!!!!」
フリムはその場に立ち尽くし、涙を浮かべながら笑っている。
笑顔なのに、頬を伝う涙は止まらない。
そして——キールの水の刃が、彼女の眼前で止まった。
刃先が、フリムの涙に触れた瞬間、キールの腕が震える。
目の焦点は定まらず、ただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
「なんで……?」
キールは何も言わず、水の刀を静かに降ろす。
フリムは目を見開いたまま、キールの肩を両手で掴んだ。
そして、涙を流しながら叫ぶ。
「どうして!! どうして私を殺してくれないの!!」
その声は、悲鳴でも懇願でもなく、まるで“生かされること”への恐怖を吐き出すようだった。
キールはゆっくりと視線を落とし、深く息を吸う。
「やっぱり、あの時の僕にそっくりだ」
「え??」
キールは穏やかに微笑んだ。
「この残酷な世界で、生きる理由なんて見つからないですよね」
フリムの瞳が、わずかに揺れる。
胸の奥を、誰にも触れられなかった部分を、今キールの声がそっと撫でていた。
「生きてて何の意味があるんだろう、って。
この命に、何の価値があるのかって。……僕もそう思ってました」
キールは一歩、フリムに近づく。
その手をそっと取り、震える指を包んだ。
「正直、意味なんて……ないと思います」
淡々とした声。けれど、その言葉には嘘がなかった。
「僕たちは、ちっぽけで、消えていく。でも——」
キールは、顔を上げ、フリムの瞳をまっすぐに見る。
「あなたを好きでいてくれた人。そばにいてくれた人。
……そして、今もあなたを見てくれる人がいるなら。
その人たちのために必死に生きて、幸せな物語を作るのも一つの生き方じゃないですか?」
フリムの喉が詰まる。
言葉にできない何かが、胸の奥で渦を巻いていた。
「あなたは……そうやって、生きてきたの?」
キールは少しだけ目を伏せ、照れたように笑う。
「それは、わかりません。
でも……少なくとも、そう“したい”とは思ってます」
フリムは、かすかに震える指先で、自分の胸を押さえる。
キールの言葉は、あたたかいのに、どこか痛かった。
「私、あなたの友達を殺してるんだよ。憎くないの?」
フリムの質問にキールは驚きながらも、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「正直に言うと、憎いですよ……」
その一言に、フリムの肩がびくりと跳ねた。
まるで自分の存在そのものが否定されたように、彼女の全身が強張る。
だが、キールの声は続いた。
「でも、ケントも…誰かの大切な人を殺している。
僕ひとりが“正しい”なんて言える問題じゃない」
その言葉には、怒りでも赦しでもない、ただ人間としての“痛み”があった。
フリムはその表情を見て、息を飲む。
「ケントもそのことで苦しんでいた。だから、そばにいたいと思ったんです。
憎くても、あなたもきっと苦しんでる」
キールの声は静かで、どこか壊れそうなほど優しかった。
フリムの頬を、一筋の涙が伝う。
「……私を助けてくれる人は、あなたじゃないの?」
キールはその言葉に目を伏せ、唇を噤んだ。
少しの沈黙。
「きっと、それは僕じゃないです」
はっきりと告げられたその言葉に、フリムは一瞬呆然としたあと、
ふっと笑みをこぼす。
「そうだよね。あなたを見てると、罪悪感で、息ができなくなるもの」
キールの胸が、ぎゅっと痛んだ。
それでも、彼はフリムの前で目をそらさずに言葉を続ける。
その言葉はまるで嘘を吐き出すようだった。
「僕があなたを殺さないのは、あなたに苦しんで生きてほしいからです。
でも、どうか“生きる”ことで、彼らを思い出してください」
フリムは息を詰まらせる。
「……生きることで?」
「はい......。ケントのことを、あなたが殺してしまった人たちのことを……思って。
その罪と一緒に、それでも前に進んでください。そして――」
キールは穏やかに微笑む。
「あなたも、“幸せになっていい”んですよ」
フリムは言葉を失った。
何かを言おうとして、声にならない。
ただ、涙だけがこぼれていく。
痛みでもなく、赦しでもない――けれど確かに“救い”だった。
キールは立ち上がり、二人の影は証明に淡く照らされていた。
「あなたが、いつか自分でその答えを見つけられると信じてます」
それだけを言い残し、キールは静かに背を向ける。
「待って!!」
廊下の静寂を切り裂くように、フリムの声が響いた。
キールの足が止まり、ゆっくりと振り返る。
フリムは震える手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
その目はまだ涙が滲み、確かな光が宿っている。
「あなたのことは……見逃してあげる」
声は震えていたが、その瞳だけはまっすぐにキールを見ていた。
「でも、まだ味方とかじゃないから」
そう言って、息を吸い込む。
「あなたの言葉は忘れない。……私は、私の道を行く。
もし――また、どこかで出会えるように……」
フリムは勇気を振り絞って、声を上げた。
「名前を教えて!!」
キールは一瞬だけ目を見開いた後、ゆっくりと微笑む。
「キーレスト・ウォルターズです」
柔らかい声だった。けれど、その奥には、どこか儚い響きがあった。
「あなたは?」
フリムは驚いたように目を瞬かせ、ふいに笑う。
涙で濡れた頬のまま、どこか誇らしげに胸を張って。
「フリム!!――フリーダムのフリム!!」
キールは一瞬だけ息を呑み、深く頷いた。
「……フリーダムのフリムさん。また、どこかで――」
二人の視線が交わる。
そこには敵でも味方でもない、“生きる者同士”の確かな約束があった。
キールは背を向け、歩き出す。
その背中を、フリムはまるで何かを焼き付けるように見つめる。
「キーレスト・ウォルターズ……絶対、忘れないから」
それでも、彼女の心には確かに“希望”が残っていた。
もう二度と戻れない過去を抱えながらも、フリムは――やっと自分の足で立とうとしていた。




