第59話『狂信の果て』
彼女は自分の名前が呼ばれ、それだけが自分を示すものだった。
(私って……フリムっていうんだ。でも、それ以外は何も思い出せない)
薄い白衣を着せられたまま、兵士に腕をつかまれて歩かされる。
辿り着いた先で、フリムの瞳が一瞬にして凍りついた。
切り開かれた腹部、頭に電極を刺され、叫び続ける人々。
薬の入ったタンクに浮かぶ、もう動かない人影。
「なに、ここ……?」
その言葉に、白衣の男が淡々と答える。
「これからお前たちは実験対象だ。使えなければ、処分する。」
フリムの背筋が凍り、足が動かなくなった。
そして、その日から地獄の日々が始まった。
兵士が彼女の髪を乱暴につかみ、無理やり台に押し倒される。
「お願い……やめて……!」
腕と脚が金属の拘束具で固定され、逃げる余地はなかった。
冷たい針が、肌を貫く。
透明な液体が流れ込み、体の中を灼くような熱が走る。
「や……だ……っ!!」
喉が裂けるほど叫び、世界が裏返った。
「いやぁぁぁぁぁ!!!!」
体の内側から炎が上がるように熱くなり、皮膚が焼ける感覚。
次の瞬間には氷点下の中に放り込まれたような冷たさが全身を襲う。
視界は滲み、耳鳴りが鳴り止まない。
何度も注射され、何度も目を覚まされ、何度も倒れた。
気づけば身体は痣だらけで、皮膚のあちこちが針の跡で埋め尽くされている。
「こいつ、叫ぶ割には処分されずにいるな」
「丈夫なもんだ。まだ使える」
フリムは投げ捨てられるように床に落ち、冷たい鉄の上に転がる。
自分が何者なのかもわからずに、体をもてあそばれ、誰からも人として扱われず、フリムは絶望の淵に沈んでいた。
「私は……いったい誰なの? もう、人間ですらないの……?」
うずくまった膝の間で、か細い声が震える。
――そんな時だった。
「おい、こんなところで泣いてるな。処分されるぞ」
顔を上げると、橙色の髪をした青年がしゃがみ込み、真っ直ぐこちらを見つめていた。
フリムは怯えたように身をすくめながら、泣き顔で呟く。
「もう……私、自分が誰だかもわからないの。誰も、私のことなんて見てくれない。きっと、空気と一緒。私が死んでも、誰も気にしない」
その言葉に、男は目を見開いた。
しばらく何も言わず、ただ彼女の顔を見ていた。
「お前もそうなのか」
そして彼はゆっくりと手を伸ばし、フリムの震える手をそっと取った。
次の瞬間、彼はその手の甲にキスをする。
「な、なにするの!」
フリムは慌てて手を引っ込め、男は優しい声で言う。
「もしお前が“人間”じゃないなら、この感触はわからないはずだ。でも分かるだろう? それなら、お前はちゃんと生きてる人間だよ」
その一言が、フリムの胸の奥に響き、涙がこぼれ、止まらなかった。
「俺はクロノス・ウォルターズ。十八歳だ。何か辛いことがあるなら、話してみろ」
フリムはこの実験場での苦しみを全て吐き出すように、泣きながら話した。
クロノスは一言も遮らずに聞いてくれた。
「実験はつらいよな。俺も最初はそうだった。でもな――“力”が得られたら、何もかも変わる」
その言葉に、フリムの瞳がわずかに揺れる。
「力?」
クロノスは頷く。
「そうだ。モロス様の御心に選ばれれば、お前もこの世界の“役立たず”じゃなくなる。
あの方は、この腐った世界を終わらせてくれる。不公平も、苦しみも、全部だ。
俺たちは、その理想の世界を築く手となるんだ」
クロノスは誰も認めてくれなかった“自分”という存在を、初めて肯定してくれた。
その瞬間、フリムの胸の奥で何かが再び灯る。
「私……モロス様のために頑張る」
フリムは涙を拭い、まっすぐにクロノスを見つめた。
「そのためなら、実験なんてへっちゃら!」
その笑顔は痛々しいほど眩しかった。
バニーとライドを初めて見たあのときのように、瞳に希望の色が戻っていた。
それからの日々、フリムは自ら進んで訓練に志願し、薬を打ち、身体を酷使する。
すべてはモロスのため。自分を人間と呼んでくれたクロノスのために。
血が滲む手を握りしめながら、彼女は心の奥で何度も呟く。
(誰かの“役に立てる”。そして、私を必要としてくれる人がいる!)
それが、フリムという少女が再び“生きる”と決めた瞬間だった。
そして、二年の歳月が過ぎ、フリムは十八歳になっていた。
実験室の白い光の下、彼女の身体はもう痛みに慣れていた。
「肌に触れている空気を操る能力、だな」
その言葉を聞いた瞬間、フリムの表情が弾ける。
「やったぁぁぁ!! これでモロス様に会える!!」
研究員が鼻で笑い、冷ややかに言い放った。
「誰だ、それは。“モロス様”だと?」
「私をここに導いてくれた方よ!」
フリムの声は純粋だったが、男は冷笑を浮かべたまま答える。
「導く? これからお前の能力を調べる。逃げようなんて思うなよ」
その言葉に、フリムの顔から血の気が引いた。
「でも、能力さえ発現すれば、ここから出られるって……クロノスが言ってたの」
男はあざけるように笑う。
「夢を見すぎだな。お前は一生、ここで暮らすんだよ。
人間じゃない、ただの“実験体”だ」
視界が揺れ、彼女は膝から崩れ落ちた。
「クロノス。あなた、嘘ついたの?」
涙が滲み、握りしめた拳が床を叩く。
「許さない……」
その瞬間――背後から、柔らかい声がした。
「誰を許さないって?」
振り返ると、そこにはクロノスがいた。
クロノスはためらいなく研究員の胸ぐらをつかみ、轟音とともに男の身体が壁に叩きつけられる。
フリムは驚きと安堵の入り混じった声を漏らした。
「クロノス……!」
クロノスは彼女の前にしゃがみ込み、腕を回して抱き上げる。
フリムは震える声で呟いた。
「どうして来てくれたの?」
クロノスの笑顔は、あの日と変わらない温かさを持ちながら、どこか底の見えない闇と光が混じっていた。
「モロス様が呼んでる。よかったな」
そして、フリムはモロスと話すために部屋に入る。
その場にはモロスはおらず、声だけが聞こえた。
「君が、フリムか?」
低く、それでいてどこか優しい声。
姿勢を正し、まるで聖女のように手を胸に当てる。
「はい! 私がフリムです!!」
「クロノスから聞いた。君は、私のために最善を尽くすと」
「はい! モロス様が描く世界こそ、私の希望です!! どんなことでもしてみせます!」
静かに響く“拍手”の音。
「なんて、すばらしい子だ。君は私にとって必要不可欠だ。その力を、存分に使ってくれ」
音もなく、涙が頬を伝う。
誰も自分を人間として扱ってくれない奴隷のような日々、今ようやく報われた気がした。
涙が止まらず、フリムは笑顔になっている。
「ありがとうございます。 私は、モロス様に全てを捧げます!」
初めて“生きていていい”と感じその笑みは、崇拝と幸福の境目を見失った少女のものだった。
「期待しているぞ」
フリムは涙の跡を拭い、扉を開けて外に出ると、クロノスがいた。
「どうだった?」
フリムはクロノスの胸に飛び込み、強く抱きしめる。
「ありがとう、クロノス。あなたのおかげで生きててよかったって思う!」
クロノスは息を呑み、腕の中のフリムを見つめた。
「クロノス? どうしたの?」
クロノスは一拍おいて、笑うように息を吐く。
「悪い。人に感謝されるのも、抱きしめられるのも初めてだったから……」
フリムは涙を浮かべたまま、くすりと笑った。
「それは、私もだよ」
その笑顔を見た瞬間、クロノスの胸の奥で何かが弾け、そっと彼女の髪に触れる。
「なぁ、フリム……。俺と」
フリムは言葉を遮り、クロノスの耳元で囁いた。
「ふふ、言わなくてもいいよ」
二人はゆっくりと顔を寄せ、唇を重ねた。
最初は震えていた。だが、すぐに熱が混じり、激しさが増していく。
その夜、フリムはクロノスと火花のような熱をぶつけあう。
クロノスの温もりが、まるで“生まれ変わった自分”を証明してくれるようだった。
それから1年が過ぎた。
「あぁーーーーー!! モロス様♡」
薄暗い部屋の中で、フリムは短い制服の裾を指で摘み、くるりと回った。
鏡に映る自分を見つめ、恍惚とした笑みを浮かべる。
頬は赤く染まり、瞳の奥には熱と狂気が混じっていた。
その言葉を背に、クロノスは窓際で双眼鏡を覗き、低くため息をつく。
「フリム。いつもうるさいぞ。任務に集中しろ」
フリムは振り返り、笑顔でクロノスの背中に体を預けた。
「あんな素晴らしい方と夜を共に過ごせるなんて、ロマンチックだと思わない?」
耳元にかかる声は甘く、しかしどこか壊れていた。
クロノスは肩越しに振り返り、冷たく言う。
「こんな簡単な任務で、一緒に寝れるわけないだろ」
フリムは唇をとがらせ、軽く彼の背中を叩く。
「じゃあ、その時はクロノスで我慢してあげる。」
彼女はもう、かつてのフリムではなかった。
優しさも恐れもすべて削ぎ落とされ、残ったのは“信仰”と“快楽”が溶け合ったような笑み。
人を殺すときも、その表情は変わらない。
フリムはうっとりと呟いた。
「モロス様、今日も世界が浄化されますね」
どんな時も、隣にはクロノスがいた。
互いが互いを必要とし、求め合い、支え合いながらも、その関係には名前をつけることができない。
ただ一つ言えるのは、2人の間には、言葉よりも強い“熱”があった。
感情が昂るたび、フリムはクロノスに触れ、クロノスもまた無言でそれを受け入れた。
優しさではなく、生存のためでもなく――それはまるで、お互いの“存在を確かめる”儀式のように。
なによりフリムは、モロスという存在を、まるで“太陽”のように崇めていた。
そんな日々が続いたある日、フリムは記憶を取り戻す。
その瞬間は、あまりにも残酷だった。
「……バニーさん? ライドさん?」
返事を待っても、沈黙しか返ってこない。
現実が、じわりと彼女の中に染み込んでいく。
「うそ、でしょ」
涙が溢れた瞬間、記憶が戻る。
笑い合った夜、焚火を囲んで話した夢。
制服のスカートをめぐってふざけた日々、そして、クロノスの手の温もり。
モロスの声。父と母、兄、血と支配、あの腐った屋敷の記憶――。
全てが、怒涛のように押し寄せる。
(全部……思い出した……)
膝が折れ、地面が遠のいた。
耳の奥で鼓動が爆ぜ、世界の音がすべて歪んでいく。
「いや……いやぁぁぁぁ!!!」
喉を裂く叫びは、張り詰めていた糸が切れるように、胸の奥からあふれ出た。
心の奥で何かが千切れ、理性が粉になって散る。
自分の両手を見つめる。爪の隙間には、まだ乾ききらない赤黒い血がこびりついていた。
それを拭おうとしても、落ちない。
震える指先が空を掻き、ただ痛みだけが残った。
「やだ……いや……お願い、返して……!」
嗚咽と呼吸が絡まり、息をするたび胸が裂けるように痛む。
もうどこにも帰る場所はなかった。
求めていた“自由”は、いつの間にか鎖に変わっていた。
どんなに手を伸ばしても、触れるのは闇ばかり。
涙が頬を伝い、笑い声のような嗚咽が漏れる。
「はは……やっぱり、私はルタース家のクズだ……」
その言葉を吐いた瞬間、自分の声が他人のものに聞こえた。
目の奥に浮かぶのは、二人の笑顔。
自分を“人間”として見てくれた、優しくて強くて、どこまでもまぶしかった人たち。
その光を、壊したのは自分だとわかってしまった。
「バニーさん……ライドさん……ごめんなさい……」
言葉が震え、唇がうまく動かない。
それでも、どうしても伝えたかった。
指先が空を掴むように伸びる。
もう一度だけ、二人と手をつなぎたくて。
「二人に……会いたいよ……」
その手は、何も掴めないまま宙に止まった。
夜の静寂が、フリムの嗚咽を飲み込む。
涙が一滴、頬から落ちて地面に吸い込まれる。
その瞬間、彼女の中で何かが静かに完全に終わった。
世界は何も言わず、ただ彼女を包むように静かだった。




