第57話『解放』
2010年・フルア革命から5年間。
フルアからのオリチームの供給が減少し、世界はレアマシーに頼らずとも立ち行くようになる。
それを機に、アメリカをはじめとする各国が一斉に非難を浴びせ、2015年にレアマシーの歴史からようやく“奴隷”という言葉が消えた。
ニュースでは連日報道される。
「レアマシーは変わりました。あらゆる人種に人権が認められ、もう奴隷制度は存在しません」
街では拍手と涙があふれ、解放された人々が喜びあっていた。
フリムはテレビの前で、その光景を見つめながら小さく、笑う。
「やっと……変わるんだ」
確かに国のほとんどは徐々に変わっていく。
しかし、ルタース家では笑顔が続くことはなかった。
時は流れ、フリム13歳
あの年、確かに奴隷制度はなくなった。
でも、この家では依然として何も変わらない。
彼女の家では、奴隷を「家政婦」「奉仕者」と名を変えて囲っている。
奴隷制が消えたのではなく、言葉だけが着替えただけだった。
「まぁーーーフリムちゃん、偉いわねぇ!」
母・クスラは上機嫌に声を上げる。
「テストで100点! 名門校に通って、将来はゴロモス家のご子息と結婚して……ふふ、完璧だわ」
扇子を仰ぎながら、まるで優秀な商品を褒めるような声だった。
(おとなしくしていれば、叩かれない。従っていれば、自由がある。)
フリムという存在は、ルタース家にとって“娘”ではなかった。
名門の象徴であり、家の評判を飾る人形で、彼女の存在価値は、数字と評判だけで決まる空気のようなもの。
偽りの自分を演じて空気を読んでも、誰もフリムそのものを見てはいなかった。
鏡の前に立つフリムは、そっと制服のリボンを整える。
日本から取り寄せたその制服は、彼女の憧れそのものだった。
深い紺のジャケット、柔らかく揺れるプリーツスカート。
どこか軽やかで、自由な空気をまとっている。
「やっぱり、好きだな。最高」
長身の体に服を合わせながら、鏡の中の自分を見つめた。
少し背筋を伸ばすだけで、裾が風をはらんだようにふわりと広がる。
その動きに、フリムの頬がわずかに赤くなる。
自分の姿を、嫌いじゃないと思えたのは初めてだった。
その瞬間だけ、ルタース家の娘でも、母の期待の象徴でもない。
“自分”という存在が確かに息をしている気がした。
ドアが開く音がして、現実に引き戻される。
「何なのこれ!」
母・クスラの声が、氷の刃のように響いた。
「違うの! 文化祭の出し物の案で少し着てみただけ!」
必死に言葉を並べても、母の表情は変わらなかった。
「そうだとしてもね、フリムちゃん。私が選んだ服以外、着ちゃダメって言ったでしょ?そんな品のない服、似合わないわ」
クスラは冷たく吐き捨て、制服を乱暴に掴み取る。
次の瞬間、布が裂ける音。
クスラが去った後、部屋に残ったのは静寂だけ。
床に落ちる破片のような制服を、フリムはただ見つめていた。
「なんで、これすら許されないの?」
フリムは、破れた布の切れ端を胸に抱き、静かに涙を流す。
十五歳になったある日、フリムは息を呑んだ。
「なに、これ?」
森の奥。裸の人々が何十人も並ばされている。
怯えた目、震える肩、鎖の擦れる音。
父コミッスは葉巻をくゆらせ、満足げに笑った。
「お前が十五になったら参加させようと思ってたんだ。これが我が家の“伝統”だ」
母クスラがうっとりとした声で続ける。
「これはね、私たちが厳選した“生きのいい奴隷”や、国家を乱す反逆者を集めて一斉に“清掃”する儀式。代々、正義をもってこの国を独自に浄化してきたの」
兄ソテフが嬉々として猟銃を構える。
「俺と撃つぞ、フリム!」
母が背中を押した。
「フリムちゃんなら、きっと立派にできるわ」
父が無理やり彼女の手に機関銃を握らせる。
「い、いやだ」
「怖がるな。撃てば楽になる」
その手が重なり、引き金が動いた。
轟音が鳴り響く。
空気が裂け、群衆の中に悲鳴が走った。
フリムはただ呆然と立ち尽くす。
「お前ならやれると思ったぞ」
父の声が遠くで響き、母と兄が拍手し、笑っていた。
――何かが壊れる音がした。
「あ……あぁぁぁぁぁぁ!!!!」
フリムの喉から叫びが漏れ、世界がぐにゃりと歪む。
(私、人を殺した……? 嘘、そんなはずない)
全身が震え、心臓の音が痛いほど響いた。
フリムは自分の流れている血にとてつもない嫌悪感を覚える。
そして、自分が隠してきた心が完全に崩れた。
「もう、我慢も偽るのもやめだ......」
フリムは小さな声で呟くと、ゆっくりと機関銃を構える。
母が気づいて首をかしげた。
「どうしたのかしら、フリムちゃん?」
銃声が鳴り響き、跳ねるように倒れる肉の塊。
フリムだけが機関銃を握ったまま、息を吐いた。
「もう、あなたたちには何も感じない」
ネオンが滲む街角。
家電屋のウィンドウに映るテレビの光が、彼女の顔を照らす。
『現在、フルアでは若者を中心とした暴動が拡大しています。
バニー&ライド――腐敗した警官を断罪した男女の2人組なんですよ』
フリムは思わず立ち止まった。
画面の中――ピンクのショートヘアの少女が、銃を掲げて叫んでいた。
隣には、紫の髪のパーマの青年。
二人の瞳には、誰よりも自由で生き生きとしている。
世界を変えられると信じている目。
フリムは吸い込まれるように画面を見つめた。
「綺麗」
急いで家に帰り、クローゼットの奥から取り出したのは――
かつて破られた、日本の女子高生の制服。
縫い直し、少しだけ丈を短くした。
胸元にリボンを結び、スカートの裾を整える。
鏡の中の少女は、優しくて素直だったフリムとは違う顔。
けれど――残酷な現実の中で、彼女は別のかたちの優しさと、痛みの先にある自由を見つけた。
「似合ってるでしょ?」
独り言のように言って、くすっと笑う。
その笑みには、もう怯えも絶望もなかった。
代わりにあったのは――新しい熱。
「待っててね、バニーさん、ライドさん……」
新しい自分としての一歩を、フリムはフルアの風の中に踏み出した。
もう過去には戻らない――そう胸の奥で静かに呟きながら。




