第55話『大切な記憶』
フリムの体が壁を滑り落ち、水滴が彼女の頬を伝い、床に静かに落ちる。
キールは息を整えながら、ゆっくりとフリムのもとへ歩み寄った。
膝をつき、手を差し出す。
「立てますか?」
その手を見つめ、フリムはかすかに笑った。
「自分で攻撃しておいて、あんたバカなの?」
キールは何も言えず、ただ静かにその場に佇む。
フリムはうつむきながら、ぽつりと呟いた。
「私も……これで使えない部下ね。きっと、殺されるんだわ……」
その横顔は、絶望の中に奇妙な安堵が浮かんでいる。
まるで、ようやくすべての重荷を下ろせるとでも言うように。
キールはそんな彼女をまっすぐに見つめ、静かに言った。
「死ねば、何もかも楽ですよ……」
フリムの目がわずかに揺れる。
「死んでしまったら、大切な人たちとの記憶が消えてしまう。
そんなの、寂しいじゃないですか」
キールの言葉に、ふとフリムの記憶が蘇った。
4年前 フリム16歳
3人は焚火をつけて、フリムがバニーとライドにスープを分けていた。
夜風がやわらかく吹き、炎の灯りが3人の顔を照らしている。
笑い声と波の音が、遠くで溶け合っていた。
そしてフリムは、いつものようにバニーとライドと話をしている。
「そういえば、バニーさんとライドさんって、たまに夜な夜な出歩いてますよね。何してるんですか?」
その言葉に、汁を飲んでいたバニーは少し吹き出し、ライドは思い切り咳き込んだ。
二人の慌てた姿に、フリムはきょとんと首をかしげる。
「フ、フリム、気づいてたの??」
バニーは顔を真っ赤にし、フリムは無邪気な笑顔で言う。
「もちろん!!」
ライドは付け足すように聞いた。
「いつから?」
「それは二人と出会って3日後ぐらいですよ!!」
フリムはニコニコしながら言うと、バニーは顔を隠して、耳まで真っ赤にしている。
ライドは下を見てから、顔を上げられない。
フリムはきょとんとしながら聞いた。
「二人ともどうしたんですか? 今度、私も混ぜてくださいよ!」
その瞬間、二人は焦った顔で大声を出す。
「絶対だめだ!!」
「絶対だめ!!」
焚火の音が止まったように感じるほど、二人の声はそろっていた。
フリムは唇を震わせ、今にも泣きそうな顔になる。
「なんでですか? 私だけのけ者なんてひどい!」
涙のにじんだ声に、バニーとライドは顔を見合わせて、同時にため息をついた。
ライドが頷くと、バニーが少し身を寄せてフリムの耳元でささやく。
「フリム、あのね。私たちは……」
フリムはその続きを聞くと、顔を真っ赤にして口を押さえた。
「え??? バ、バニーさんとライドさんが……でも、それって結婚した男女だけができるんじゃ?」
フリムのあまりの純粋さに、二人はたまらず吹き出した。
「そんなこと誰に教わったんだよ」
「ほんとっ、フリムは可愛いわね! 私は大切だと思う人ならしてもいいと思うけどね」
焚火の光に照らされた二人の笑顔は、どこか優しくて、大人びて見えた。
フリムは頬を染めながら、しばらく考えてから言う。
「じゃ、私は――」
立ち上がり、胸を張る。
「大切なお二人としたいです!!」
バニーとライドは目を丸くして固まった。
沈黙が流れ、やがて二人の口から同時に吹き出すような笑い声が溢れる。
「プハハハッハハ!! 世紀のドアホがここにいるぞ!!」
「フリムったらもうやめてよ!! 嬉しいけどそれはさすがに……!」
二人の笑い声は夜の海へと響き、焚火の火花がぱっと舞い上がった。
フリムは頬をぷくっと膨らませ、背を向ける。
「もういいです! 二人とも嫌い!」
それでも、バニーは笑い泣きしながら言った。
「ごめんなさい。でも、フリム、今日のことは私一生忘れない気がする」
ライドも少し照れながら続ける。
「そうだな。せっかくフリムが俺たちを大切だと思ってくれてるんだ。それに応えないとな」
フリムは驚いたように目を輝かせた。
「え? ほんとうに??」
バニーとライドは同時に優しく微笑む。
「忘れられない夜にしてあげる」
「一生忘れるなよ、今日のこと」
その言葉に、フリムは包まれるように微笑んだ。
焚火の光が彼女の頬を優しく照らしている。
「絶対忘れませんよ。大切なお二人と過ごす夜なんですから……」
三人の笑顔が重なり、静かな夜風がそっと揺れた。
現在
フリムは焚火の炎の残像のように、あの夜を思い出していた。
炎の色も、二人の笑い声も、もう触れられない。
頬を伝う涙は温かく、けれどその奥にはどうしようもない痛みがあった。
それでも――微笑みがこぼれる。
「そうよね……あなたの言う通り。私だけが覚えていられるのに、私が死んだら意味ないものね」
ゆっくりと、フリムはキールの手を取った。
しかし、その指先が触れた瞬間、彼女の表情が変わった。
微笑は消え、瞳の奥に深い絶望と決意が宿る。
「……だからこそ、終わらせなきゃ」
そのまま、フリムの手がキールの首へと伸びる。
細い腕が、ためらいもなく喉を締め上げた。
「なんで!」
キールが必死に叫ぶ。
フリムは泣きながら、それでも笑った。
「あなたは人を信じすぎよ」
言葉と一緒に、腕の力が強くなる。
「大切だから、忘れたいの!! どれだけ生きても、記憶しか残らない……そんなの、虚しいだけじゃない!」
キールの視界が揺れ、酸素が奪われていく。
「死んだほうがましよ」
涙がフリムの頬を流れた。
その顔には、苦しみと救いが同居している。
「ありがとう……あなたのおかげで、踏ん切りがついたわ」
喉を締めつけられながらも、キールはかすれた声で言葉を返す。
「今が……辛くても……きっと……助けてくれる誰かが……現れますよ……」
その言葉が、刃のようにフリムの胸を貫く。
彼女の瞳が揺らぎ、息が止まった。
「やめてよ……そんなこと言わないで」
腕の力が抜けてキールの体が崩れ落ち、フリムもその場に座り込んむ。
押し寄せる沈黙の中で、彼女の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
――もう、生きてもいい理由なんてないはずだった。
でも、どうして胸がこんなに痛むのだろう。
「どうしてあなたは……そんなこと言うの」
フリムの叫びは、崩れゆく壁に反響し、こだまのように夜の空気へと消えていく。
彼女の心は砕け散り、それでも、どこかで微かに光を求めているようだった。




