第50話『レクイエム』
吹き荒れる風の中、大破した車が、鉄くずのように転がっていた。
血とオイルの匂いが夜を満たし、ヘッドライトは割れて点滅している。
その中で、フリムは立ち尽くしていた。
唇から漏れた声は、自分でも気づかぬほど小さい。
「……バニーさん?……ライドさん?」
足元に広がる血溜まりの中、バニーの髪が風に揺れる。
彼女の瞳は、まだ空を見ていた。
その光景を見た瞬間、フリムの頭の奥で何かが弾ける。
──鮮やかな記憶が蘇った。
笑い声、潮の匂い、三人で走った夕暮れの海。
ライドが先を走り、バニーが後ろで呼んでいる。
「フリム、早く!」
いつも二人の背中を追いかけて、彼女は誓う。
(私がバニーさんとライドさんを守るんだ!)
しかし、今――この手で、壊してしまった。
「あぁ……わたし……なんてことを……」
膝から地面に崩れ落ちる。
両手で顔を覆い、そのまま指が頬を裂いた。
皮膚が破れ、血が滲む。
痛みが欲しかったが、痛みでは足りなかった。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
喉の奥が焼けるほど叫び続け、嗚咽が込み上げ、吐いてしまう。
胃液と涙と血が混ざって地面に滴る。
「なんで……なんでこんなことに!」
髪を掴み、頭を打ちつける。
何度も、何度も。
壊したいのは自分の存在そのものだった。
(わたしが……全部壊した。 愛してた人たちを……全部……)
腕を抱きしめるようにつかみ、うずくまる。
その時だった。
吹き荒れる海風の中、背後から低い靴音が響いた。
橙色の髪を夜風になびかせ、長身の男が現れる。
薄汚れたモッズコートの裾が、血の匂いを巻き込んで揺れた。
「お前が選んだ結果だろうが。時間は巻き戻せない」
フリムは震える唇で何かを言おうとしたが、その前に男が歩み寄り、フリムの唇が塞がれる。
男の舌が絡みつき、逃げ場を失った。
フリムの手が彼の胸を突き飛ばす。
二人の唇が離れると、唾液の糸がだらりと垂れ、フリムはクロノスを怪訝そうな顔で見た。
「クロノス……やめて。今、そんな気分じゃないの」
吐息まじりの声。
突き飛ばされたクロノスは冷たく乾いた声で言う。
「記憶が戻ったのか。いつもなら“抱いて”とせがんでたのにな」
フリムは息を呑み、断片的な記憶が、胸の奥を焼いた。
記憶を失っていた間――この男の腕の中で、自分がどんな顔をしていたのか。
「うるさい! あれは……あれは、わたしじゃない!」
クロノスはその叫びを嘲るように、黒髪を指先ですくい上げる。
湿った髪の感触を確かめながら、囁いた。
「俺にとっては、それがお前だよ。それに、モロス様に抱かれたいんだろ?」
その名前を出され、フリムの体がぴくりと震える。
顔を背け、唇を噛み、何も言えなくなった。
否定したくても、心のどこかで逃げられない鎖がある。
クロノスはため息をつき、距離を取ると、フリムの顔をまっすぐ見つめて言った。
「裏切ったら、どうなるか……そいつらを見ればわかるだろ?」
言葉は氷のように突き刺さる。
「お前は裏切るな。――“必要”だからな」
クロノスはフリムの額にゆっくりと口づけをした。
額に唇が触れた瞬間、フリムの背筋がびくりと震える。
「フラーケンも死んだ。裏切り者たちも消えた。だが、計画は順調だ。あと少しで、モロス様が描く世界が始まるんだ。俺は次の任務に行く。……お前もこいつらを処理して次の任務へ行け」
淡々と告げると、クロノスは闇に消えた。
フリムはその場に膝をつき、崩れるように地面に手をつく。
「私、これからどうしたらいいの」
声は小さく震え、涙がぽとりと落ち、血に混ざり吸い込まれていった。
風の流れも、血の匂いも、遠くで軋む鉄の音さえも――何もかもが遠のいていく。
翌日
風のない朝、雲一つない青空の下、三人は静かに並んでいた。
かつて基地があった場所の中心に、白い花束が置かれる。
サイラス、リリア、キール――三人は胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
「ティアーラ、みんな」
サイラスの声はかすかに震えていた。
(お前たちがいてくれたから、俺は今まで生きてこれた)
目を閉じると、まぶたの裏にティアーラの笑顔が浮かぶ。
あの透き通るような笑い声、差し出してくれた手の温かさ。
そして、仲間たちと囲んだ夕食、くだらない冗談、終わらない夜。
もう二度と戻らない。
そうわかっていても、胸の奥で確かに生きている。
ひとすじ、涙が頬を伝った。
それは悲しみだけの涙ではなく、どこか温かさを感じるもの。
風が頬を撫で、どこかで小鳥の声がする。
遠くの空に流れる雲が、まるで彼らの笑顔のように見えた。
サイラスは小さく息を吸い、空を見上げる。
「ありがとな、お前ら。改めて礼を言わせてくれ」
リリアとキールは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「僕らの方こそ」
「私たちの方こそ」
サイラスは二人の肩を抱き寄せ、にっと笑う。
「今日からキーレストは俺の弟で、リリアは俺の姪っ子な!」
キールは照れくさそうに微笑む。
「いいですよ!」
リリアは目を丸くして言った。
「なんで私、姪っ子なの!?」
三人の笑い声が、風に乗って空へ溶けていく。
その笑いはどこまでも穏やかで、まるでティアーラへの手向けの歌のようにやさしく響いた。
一瞬だけ雲が流れ、陽が差し込み三人の背を照らす。
「それじゃ、飛行場に向かうか」
その声は晴れやかで、少しだけ懐かしさを含んでいた。
リリアは少しだけ立ち止まり、キールの袖を引く。
「キール、わたし……行きたいところがあるの」
彼女の瞳には、迷いのない光が宿っていた。
キールは静かに頷き、言葉を待つ。
朝の光が差し込み、花束の上に虹のような反射が広がっていた。
それはまるで――過去と未来をつなぐ“祈り”のように。
墓地
小高い丘の上に白い墓石が並ぶ一角に、三つの名前が刻まれていた。
エミリー・ジェフ・ケント。
木漏れ日が石碑の文字をやわらかく照らしている。
潮風に混じって、どこか懐かしい花の香りが漂っていた。
キールは花束を置き、静かに言う。
「この前、ケントの遺体をここに移したんです。三人とも……ゆっくり休めていると思います」
彼の声は穏やかだったが、どこか遠くを見つめていた。
リリアはそっと手を合わせ、深く頭を下げる。
「日本スタイルですか?」
キールが尋ねると、リリアは微笑んだ。
「うん。みんなが安らかに眠れるように……」
キールもその隣で手を合わせ、目を閉じる。
風が止まり、世界が一瞬だけ静止したように感じられた。
リリアの祈りは優しく、真剣だった。
(ケントさん、エミリーさん、ジェフさん。どうか安らかに眠ってください。
キールのことは……私が守ります)
そしてキールもまた、心の中で語りかける。
(ケント、君は最高の友達だったよ。
ジェフ……君の明るさにはいつも助けられた。
エミリー……君といるだけで生きてていいと思えたんだ。ありがとう。
いつまでも僕の大切な人だよ)
静かな時間が流れた。
祈りを終えたキールはリリアの方へ視線を向ける。
(でも、もう君たちはいない。それでも――僕の中には、ちゃんといる。
寂しいけど、それでもリリアさんがそばにいてくれる。
だから大丈夫。僕は、もう一人じゃないんだ)
ぽたり、と頬に涙が落ちる。
それは止めようのない涙だったが、不思議と温かかった。
キールは、泣きながらも穏やかな笑みを浮かべていた。
「キール……」
リリアは思わずその手を取る。
「私がいるからね。乗り越えよう」
キールは涙を拭き、少し笑った。
「ありがとう、リリアさん。でも僕――乗り越えたくはないんです」
リリアは驚いて顔を上げる。
「どうして?」
キールはしばらく空を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「死を“乗り越える”って言葉、あまり好きじゃないんです。
まるで、その人を置いていくみたいで。
僕は……忘れたくない。悲しいままでいいんです」
「……」
「人を想って泣くのは、それくらい大切で覚えておきたい人たちだから。
思い出すたびにまた泣きたい。そのたびに、僕の中で生きてくれるんです」
リリアは、胸の奥がじんと熱くなる。
彼の言葉は、悲しみの中に確かな希望を灯していた。
「なんか、キールらしいね」
少し照れ笑いをしながら言ったあと、冗談めかして続ける。
「じゃあさ、私が死んだ時もそうしてね」
キールはリリアの手を握り返した。
「やです!リリアさんはずっといてください!」
そのまっすぐな言葉に、リリアの心臓が跳ねる。
胸の奥から熱がこみ上げ、頬がかすかに赤くなった。
「もう!」
リリアは手を離して、顔を隠す。
その後、空を見上げて深呼吸をした。
その横で、キールはきょとんとした顔をしている。
「リリアさん昨日といい、一人でなにやってるんですか?」
リリアは半目でキールを見て言った。
「誰のせいだと思ってんのよ!」
空気は澄んでいて、風が草をやさしく揺らしていた。
墓標の前に置かれた花が、リリアの声に呼応するように静かに揺れる。
それは悲しみの終わりではなく、歩き出すための始まりだった。




