第49話『約束の夜、そして』
あと10分で、時計の針が20時を指そうとしていた。
潮の満ちていく音が、静かな入り江に優しく響いている。
キールとリリアは、月明かりの下に並んで立っていた。
水面に映る満月がゆらゆらと揺れ、まるで二人を包み込むように輝いている。
「来るかな……バニーさんとライドさん」
リリアは浴衣の裾を指でつまみながら、小さく呟いた。
指先は落ち着かず、視線は揺れている。
その横でキールは穏やかに空を見上げた。
「来ますよ。それに――」
風が、二人の間を抜ける。
「月がとてもきれいですね」
「ひゃっ……!?」
リリアの体が一瞬びくっと跳ねた。
肩が小さく震え、顔は見る見るうちに赤くなっていく。
「???」
キールは首を傾げ、何がいけなかったのか理解できていない様子。
リリアは胸を押さえて、深呼吸をした。
(だ、だめだって……そういうのは反則だよ……)
少し冷静になろうと、わざと落ち着いた声で返す。
「キール、その意味、わかって言ってる??」
「どういうことですか?」
心底不思議そうな顔で返事をするキール。
リリアはどっと力が抜ける。
「ううん、なんでもない」
そう言って月を見上げるが、頬の熱はまったく冷めなかった。
(なんとなく、キールのことわかってきたかも)
リリアは自分でも驚くほど穏やかに笑う。
(これでキュン死は、避けられるはず)
けれど、次にキールがリリアの方を見て微笑んだ瞬間、その「はず」は、月の光の中であっけなく溶けて消えた。
夜の海に、花火がきらめく。
金と群青の光が静かに水面を染め、波がかすかに揺れる。
「始まりましたね。ホンテイシの間は、毎晩こうして花火が上がるそうですよ」
リリアはキールの横顔を見つめながら、小さく笑った。
「昨日の今頃、私たち喧嘩してたよね」
その言葉に、キールはわずかに肩を動かし、目を伏せる。
「ほんと……人生って、一日で変わっちゃうんだね」
夜風に髪がなびき、リリアの声はどこか遠くを見ているように優しかった。
キールは少し間を置いて、静かに言葉を落とす。
「僕、リリアさんがいなかったら……生きようなんて思えませんでした」
その一言が、花火の音よりも強く、胸に響いた。
「リリアさんがいてくれたら、もうどんなことでも大丈夫な気がします」
その言葉に、心がやさしく震えた。
リリアは微笑んで、少し照れたように胸を張る。
「私はキールよりお姉さんだからね。ちゃんと守ってあげるんだから!」
リリアは冗談半分で言うと、キールは微笑みながら言った。
「頼りにしてます」
花火が一段と高く上がる。
光が二人の頬を照らし、影を淡く重なった。
(そうだよね...もう今までとは違う。キールと私の間にもう壁はないんだ。
私も覚悟を決めて言わないと)
リリアはゆっくりと息を吸い、月を見上げた。
「あのね...キール。今まで言ってなかったことがあるの。私――」
言葉の途中、夜空が破裂する。
色とりどりの花火が一斉に広がり、彼女の声は光の中に消えた。
「リリアさん? 今、なんて言いました?」
リリアは花火の音のせいでもなく、言うことをやめてしまう。
キールにはまだ打ち明ける勇気がなかった。
「……ううん、なんでもない」
リリアは小さく視線を落とす。
夜風が彼女の髪をさらい、言えなかった言葉を遠くへ運んでいった。
――もうすぐ、20時になる。
海面に映る月の輪郭が、少しずつ揺れていた。
5時間前
古びた天井のファンが、ゆっくりと回っていた。
蛍光灯がチカチカとひかり、ネオンが薄いピンクの光を壁に散らしている。
空気は熱を含み、汗と煙草と体の匂いが重く沈んでいた。
ベッドの上で、バニーは裸のまま足をばたつかせている。
シーツはくしゃくしゃに乱れ、何度も繰り返した呼吸と衝突の跡が、まだ部屋の中に漂っていた。
「はぁーーー……ライド、加減ってものを知らないの? 箱の中でもそうだったし」
ライドは裸のまま、ベッドの縁に腰をかけてタバコに火をつける。
煙がゆらめいて、汗の光に混ざり、笑うように短く言った。
「エロいのが悪い」
それだけ言って煙を吐く。
その一言に、バニーは頬を赤く染めた。
「なぁっ!!」
ライドは振り返り、いたずらっ子のように目を細める。
その笑みの奥に、さっきまでの激しさの残り火がちらついていた。
「ライドのバカ」
そう言いながらも、声はどこか嬉しそうだった。
やがて、二人は無言のまま服を身につける。
体に貼りついた汗の熱だけが、まだ残っていた。
「さてと、いつまでもこうしてる暇はないけど――」
ライドが振り切れたようにすがすがしく言う。
「今したいことをしたいからな」
ライドが言うと、バニーは髪をかき上げて返す。
「逃げるよりエッチなの?」
「そりゃそうだろ」
「短絡的なんじゃないの?」
バニーがきょとんとすると、ライドはため息をついた。
「俺ら、考え方逆になってないか??」
軽い笑い声とともに、二人はモーテルを出る。
エンジンの音が夜の空気を裂き、車はゆっくりと街を走り出した。
服屋「ユタ」
古いスピーカーからレトロなジャズが流れている。
扇風機がうなる店内で、バニーは鏡の前をくるくると回っていた。
「ねぇ、ライド!!これどう?」
着ていたのは南国にぴったりのノースリーブの白いワンピース。
肩のあたりで切りそろえたピンクの髪をハーフアップにまとめ、耳と舌のピアスが光を跳ね返している。
ライドは無言で煙草を咥え、じっと見ていた。
「ピアスにワンピースは少し……」
そう言いかけた瞬間――
「店員さん!これください!」
バニーは迷いはゼロで笑顔で現金を出す。
「なんで聞いたんだよ」
ライドは硬直したまま、煙を吐いた。
その吐息に混じって、かすかな笑いが溢れる。
アライアス・ビーチに二人は向かい、日は傾いており、砂浜は金色に染まっていた。
観光客の笑い声とスチールドラムの音が、潮風に混ざる。
「うわぁ、何この人の多さ...」
バニーは肩をすくめ、目を細めた。
その横で、ライドは何も言わずにバニーの手を取る。
強くもなく、でも離さないように。
人の波を抜けると、岩場にぶつかる荒い波の音が聞こえた。
「なんでこんなところ知ってるの??」
バニーが尋ねると、ライドは無造作に答える。
「そんなこといいから遊ぼうぜ……」
ライドが笑って砂を掴んだ。
その無邪気さに、バニーは思わず目を瞬かせたあと、ぷっと吹き出す。
「ねぇ、ほんと子どもみたい」
「うるさいな! どんな歳でも砂遊びしていいだろ!」
そう言いながら、ライドは両手で砂をすくい上げ、勢いよく積み上げる。
バニーも黙ってしゃがみ込み、真剣な顔で城を作り始めた。
「見てて、私の方が絶対速いから!」
「は? 俺の方がデザインセンスあるし」
「センスって何よ!? ただの山でしょそれ!」
二人は笑いながら、何度も砂を崩しては積み直す。
ライドがこっそりバニーの城に砂をかければ、バニーも負けじと水をすくって仕返しをした。
「おい、それ反則だろ!」
「戦場にルールなんてないの!」
そんな時、波が押し寄せて、二人の城を一瞬で飲み込んでいく。
「うわぁ……」
「マジかよ」
声を揃えて呆然としたあと、ふたりは顔を見合わせて笑い出す。
決着はつかなかったけれど、勝ち負けがどうでもよくなるくらい二人は幸せな気分になった。
壊れた砂の城のあとに残ったのは、笑い合う自由な二人の笑顔だった。
二人はビーチを後にして、時刻はすでに19時50分を回っていた。
入江まで15分の距離の古びたアパートの階段を降りながら、バニーは肩にバッグをかける。
「これで全部、かな」
ドアを閉める音だけが、やけに響き、ライドは何も言わず、エンジンをかけた。
街を離れるたびに、空の色が深くなっていく。
助手席の窓の外、バニーは波の光を見ていた。
頭の中で、キールの声が蘇る。
——『今日の夜八時に、あの入り江で二人で待ってますから!!』
その声は、ずっと頭の中で鳴り響いていた。
「ねぇ、ライド……」
バニーの視線は海に落ちたまま、言葉を漏らす。
ライドは一瞬だけ横目で見て、短く答えた。
「お前もか」
二人は視線を合わせて微笑む。
言葉よりも静かで、触れ合うよりも近い――そんな一瞬を、夜がやさしく包み込んでいた。
ゆっくりと車をUターンさせようとした――その瞬間。
バァァァァァァァン!!
鈍い衝撃音が夜の海辺を切り裂く。
金属がねじれ、ガラスが砕け、車体が横倒しになった。
バニーは血の混じった前髪をかき上げ、息を荒げながらドアを押し開ける。
足元がふらつき、砂に膝をつきながら這い出た。
「……ライド」
運転席のライドは、シートにもたれかかるように動かない。
頬を伝う血が、月明かりに濡れて光っていた。
「嘘でしょ……ライド!!」
震える声が夜に響く。
「ライド!!」
呼びかけても返事はない。
カツ、カツ、と一定のリズムで月明かりの下、少女の影がゆっくりと伸びる。
「あぁ〜〜、なんで一発で死なないの?」
その声は甘く、どこか楽しげで、ぞっとするほど冷たい。
制服の裾を揺らしながら、長身の女子高生がこちらへ歩いてくる。
腰をくねらせるたびに、夜の光がその体のラインをかすめた。
バニーはその顔を見て息を呑む。
「フリム……?」
かすれる声で名を呼ぶと、少女は首を傾げて笑った。
「なんで私の名前、知ってるの?」
バニーは息を荒げながら、それでも微笑もうとする。
「……よかった。生きてたんだね」
その一言に、フリムの笑顔がほんの少しだけ歪んだ。
「さっきから、何言ってるのか分かんないんだけど」
瞳の奥に、感情の色が消えている。
潮風が吹く中、フリムはふと顔を上げて呟いた。
「あなたたち、オルフェウスとエウリュディケね。
振り返らなければ、生きられたかもしれないのに」
その言葉に、バニーは震える唇で言う。
「……やっぱりフリム。覚えてるじゃない……ライドの好きな神話」
フリムの表情が一瞬だけ揺れた。
視界がゆっくりと滲んでいく。
耳の奥で、潮の音が遠ざかっていった。
コンクリートに滴る血が、静かに円を描きながら黒く染みていく。
まるで夜の底に咲く、誰にも触れられない花のようだった。
(もっと……この世界が、少しでも生きやすかったら。
私に、もう少し未来を選ぶ力があったなら……何か、変えられたのかな)
思考は、痛みの中で泡のように弾けては消える。
脳裏には、確かにあった温もりが浮かんだ。
――ライドとの自由を駆け巡った日々。
――フリムとライドと3人で過ごした楽しかった時間。
――キールとリリアの、優しい眼差し。
どれも、手を伸ばせば届きそうなのに、もう指先は動かない。
時間の隙間に落ちていくような感覚。
その中で、ふと、唇が動いた。
「あぁ……明日が、恋しいな……」
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン
夜空を覆うように、花火が咲き誇る。
赤、青、金、紫。
入り江の岩の上で、リリアとキールは肩を並べて座っていた。
潮風が二人の髪を撫で、花火の光がその横顔を淡く染める。
「綺麗だね、キール!」
リリアが小さく笑いながら言った。
キールは少しだけ息を吸い、静かに頷く。
「はい。ずっと見てられますね」
二人の瞳に、花火の光が映った。
ただ夜がゆっくりと流れ、時間だけがすべてを均等に削り取っていく。
それから二人は何時間も入り江にいたが、誰も来ることはなかった。
「来なかったね」
リリアは小さく呟き、視線を落とす。
そんなリリアを見て、キールは優しく微笑んだ。
「二人は……きっと、自分たちの道を歩いてるんですよ。今ごろどこかで笑ってます」
その穏やかな声に、リリアはゆっくり顔を上げる。
月明かりに照らされたキールの横顔は、どこか安心させるようだった。
「そうだね。二人が幸せでいてくれたら、わたしも嬉しい」
リリアの頬に、ようやく微笑みが戻る。
風が吹き、二人の髪をそっと揺らした。
祭りの音も、潮騒も、ただの“昨日の名残”に変わっていった。
夜が終わるたびに、世界は少しずつ昨日忘れていく。
誰しも、朝は来ると信じている。
でも――それは、当たり前ではない。
儚い想い、約束、人の触れ合いと思い出。
世界は、その全てがなかったかのように、次の朝へと進んでいった。




