第48話『The Tide Will Rise』
キールが鼻血を出したせいで、すでに17時半を回っていた。
南国の風は少し涼しくなり、通りは夕焼けの光で金色に染まっている。
「どうぞ! パナナスカッシュフルートとワイルドゥパッションね!」
店員が陽気に声をかけた。
「ありがとうございます! はいっ、キール!」
リリアがトロピカルジュースを2つ受け取り、笑顔で渡す。
2人は並んで、ストローをくわえた。
「うわっ! すっごく美味しい! この甘さたまらないな〜」
リリアは頬を緩ませて嬉しそうに言う。
「こっちも美味しいです! パッションフルーツなのかな。甘酸っぱいけど、あとからくる甘味がいいです。リリアさん、飲んでみます?」
「へ?」
リリアは目を丸くした。
「いいの?」
「はい」
キールはいつもの調子で淡々と頷く。
(待って、これ、間接キスじゃん……!)
リリアの頭の中が一瞬で真っ白になった。
「どうぞ、リリアさん」
「ありがとう……」
少し震える声で受け取ると、リリアはストローをまじまじと見つめる。
「ストローに何かありますか?」
不思議そうに尋ねるキール。
リリアは赤くなって目を逸らした。
「な、ないよ。でも、ちょっと待って……」
(キールが飲んだやつ……私、飲んじゃうの? どうしよ……!)
覚悟を決めるように、リリアは目をぎゅっと瞑ってストローをくわえる。
口に広がる甘酸っぱさと、ほんの少しのドキドキ。
「美味しっ!」
リリアは照れを振り払うように声を上げた。
「美味しいですよね! リリアさんのもください」
「えっ?」
反応する間もなく、キールはリリアの手をそっと引き寄せ、自分の口で飲む。
「ちょっ! キール!」
リリアは固まった。
(何の躊躇もないの!? もう!!)
キールは屈託のない笑顔で言う。
「リリアさんのも美味しいですね!」
リリアは顔を真っ赤にしながらそっぽを向いた。
「リリアさん? どうしたんですか?」
「あんたといると、心臓持たない」
キールが不安そうな顔をしていると、店員さんが笑って声をかける。
「フフ、店の前でいちゃつかれちゃ、ご馳走様だね。はい、これお二人さんにサービス」
差し出されたのは、甘い香りの漂うパイ。
「それ、うちの新作のパインパイね。二人でゆっくり食べてね!」
店員の明るい笑顔に、リリアとキールは同時に真っ赤になる。
店員さんの微笑みに、二人はいちゃついてないことを否定したかったが、照れて何も言えなかった。
それでも――見つめ合って、つい笑ってしまう。
その夜、街は熱気に包まれていた。
海沿いのテラスにはランタンが並び、遠くのステージからはギターの音が溶けて流れてくる。
南国の潮風に混じって、砂糖と果物の甘い匂い。
フェスのざわめきが、夜空を染めている。
パインパイを食べ終えたキールとリリアは、浜辺へ歩いていた。
「うわぁ……すごい人」
リリアは人混みを見て目を丸くする。
リリアはキールに楽しんでもらいたくてここに来たが、少し引けていた。
(これさすがに浴衣だと、動きづらいよね)
彼女の浴衣の裾が風に揺れ、花の模様が夜の光に照らしている。
「あの中だとリリアさんが足を怪我しちゃうから、ここから見ましょう」
キールの穏やかな声に、リリアの胸が温かくなった。
「うん……いつもありがとう」
二人はベンチに座り、リリアはそっとキールの肩に頭を預ける。
その体温が心地よくて、世界の喧騒が遠ざかる気がした。
(ずっと……こうしていたいな)
その時、通りすがりのギターを持った青年が声を上げる。
「君たち! そんなとこで座ってる場合じゃないぞ! ホンテイシは魂で踊らなきゃ!」
そう言うと、青年は砂の上でギターをかき鳴らし始めた。
最初はゆるやかで、心臓に触れるようなコード。
やがて、それは波のリズムに乗って広がっていく。
"The Tide Will Rise"
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He stood in the wreckage, ashes in his hands
瓦礫の中に立ち、灰を掴んでいた
She came with the dawn, like the sea to the sand
彼女は夜明けとともに現れた、砂に寄せる波のように
He had buried his heart with a friend long gone
彼は心を埋めた、すでにいない友と共に
But she whispered his name, and the tide rolled on
けれど彼女が名を呼ぶと、潮は再び満ち始めた
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静かで、聴いていて居心地のいい音楽。
やがてアップテンポになり、通りすがりの人が手拍子を加え始めた。
波と光と笑い声。空気が少しずつ熱を帯びていく。
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The long night is over
暗い日々はもう終わった
The wounds still ache, but the sun’s getting closer
傷はまだ痛むけど、太陽は近づいている
Run fast for the ones you lost
失くした人たちのために走って
Run strong for the love that cost
代償を払っても欲しかった愛のために
You can’t change the past, but the light still burns
過去は変えられなくても、光はまだ燃えている
The tide will rise, and so will you
潮はまた満ちる、あなたもきっと
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「さぁ、二人とも踊って!」
青年が笑って言う。
音楽はすでにテンポの良い軽快なリズムで、優しさが混ざったメロディと健在。
弾いている青年を含めて、軽いダンスで踊る人たちが増えていく。
そして、キールも少しノリノリになり始めた。
「キール!? なに踊って」
キールがリリアに手を差し出す。
「ほら! リリアさんも!」
リリアは目を見開き、すぐに笑顔になってその手を取った。
波打ち際で、二人は音に乗る。
砂が舞い、灯りが跳ね、世界が“今”を祝福しているようだった。
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She danced in the fire, with tears on her cheek
彼女は涙を頬に、炎の中で踊った
He reached for her hand, though his voice was weak
彼は手を伸ばした、声は震えていたけれど
Two shadows meeting, where sorrow had grown
悲しみの根に、二つの影が重なり合う
And love, that fragile thing, became their home
そして、儚い愛が二人の帰る場所になった
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キールが一歩前に出て、笑った。
「あっちに行きましょう!」
人々の輪の中へ。二人はリズムに身を委ねて跳ねた。
砂の上で弾む足音、笑い声、歓声。
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Let go of the ghosts that held you tight
あなたを締めつけていた幽霊を手放して
Let the water wash your fight
水がすべての戦いを洗い流すように
Even broken hearts still beat in time
壊れた心でもまだリズムを刻んでいる
And every scar still shines
すべての傷はまだ輝いている
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キールの手がリリアの指を掴んだ。
リリアはくるりと回り、浴衣の裾が夜風に舞う。
周囲の観客が手拍子を合わせ、音と笑顔が混じり合う。
キールの瞳に映る光。
その中に、かつての悲しみも、リリアの笑顔も、全部があった。
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The long night is over
暗い日々は終わった
The storm still calls, but you’re stronger than ever
嵐はまだ呼んでいる、でもあなたはもう強い
Run fast for the ones you love
愛する人たちのために走って
Run far for the sky above
あの空の彼方まで駆け抜けて
You can’t take the pain, but you can choose to heal
痛みは抱えたままでも、癒すことは選べる
The tide will rise, and so will you
潮はまた満ちる、あなたもきっと
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リリアがくるりと回り、キールが笑いながら両手を広げる。
二人を囲んで手拍子が重なり、誰かが叫んだ。
「もっと踊れー!」
「アゲテケーー!!!」
笑い声と歓声が混じり、空にはいくつものランタンが浮かび上がる。
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And when the drums begin to sound
太鼓の音が響きだしたら
She’ll take his hand, they’ll spin around
彼女は彼の手を取り、くるりと回る
Under lanterns, under stars
灯りの下、星の下で
They’ll dance for the ones they are
二人は踊る、「今」を生きるために
The tide will rise… and so will you.
潮はまた満ちる、そしてあなたも。
――――――――――――――――――――――――
「フォーーー!!!」
「イエェーーーイ!!」
リリアとキールも手を繋いで跳ねる。
ただ無心に笑って、叫んで、息を合わせて。
その瞬間、過去も痛みもすべてが溶けていくようだった。
音が静まり、群衆が散っていく。
ギターの青年が笑いながら近づいた。
「いいね、二人とも。最初は恥ずかしそうだったけど、最高だったよ!」
その言葉でようやく、キールとリリアは“まだ手を繋いでいる”ことに気づく。
二人は同時に赤面して、慌てて手を離した。
「ご、ごめん……」
「いえ、僕こそ。でも、楽しかったです」
リリアは頬を赤くしたまま微笑む。
「うん! “The Tide Will Rise”って、いい曲だね! 何回も聴こーっと!」
「でもリリアさん、英語わからないのに何度聴いても――」
「うるさいなぁ! 雰囲気で感じるの! 少しイギリスいたくらいで調子乗らないでよね!」
「それ関係ないですよ」
「はいはい、Mr.英語ペラペラさん」
二人は顔を見合わせ、吹き出した。
笑いが潮風に溶け、夜空へ昇っていく。
波が寄せ、灯りが瞬き、そして――どこかでまだ、あのメロディが流れていた。
The tide will rise and so will you.
かけがえのない時間、それは何よりリリアにとってもキールにとっても忘れられない時間になった。
祭りの賑やかさが少し遠くに感じる高台。
潮の匂いとランタンの明かりが混じる中、キールとリリアは並んで歩いていた。
背後から感じる視線が、二人の空気を微妙にざわつかせる。
「あの人たち、いつまでついてくるんですかね」
キールが小声で言うと、リリアはきょろきょろと振り返るが、人影はない。
そして、視線の先――街灯の陰。
そこに、見慣れた2人のシルエットがあった。
「イオラさん!? サイラスさん!?」
リリアの声に、2人はビクッと動く。
「やべっ……!」
サイラスが焦る。
「違うの! ちょっと様子を……」
イオラが言い訳しようとするが、リリアがため息をついた。
「尾行は悪趣味ですよ。イオラさん、サイラスさん」
「わりぃ……」と、完全に小さくなるサイラス。
イオラは慌てて話題を変える。
「そ、そうだ! せっかくだし写真撮りましょう! 2人とも、記念に!」
「えっ……写真……?」
リリアは一瞬固まった。
(ツーショット……撮ったことないかも)
イオラはカメラを構え、嬉しそうに言う。
「もっと近づいて、2人とも! そうそう!」
キールとリリアはぎこちない動きで距離を詰める。
横目でちらちら見合っては、同時に顔を逸らしていた。
「さっきまであんなに近かったのに、どうした?」
サイラスが茶々を入れる。
「うるさいです!」
リリアが冷たい声で返し、サイラスは肩をすくめてしょんぼりした。
「……もうこのくらいでいいですか?」
肩が触れ合うほど近くリリアの心臓が跳ね、息をするたびに彼の体温がわかる距離。
「リリア! 腕組んで!」
イオラが声を上げる。
「もうっ! イオラさん、私で遊ばないで!」
そう言いながらも、リリアは頬を赤くしながら、そっとキールの腕に自分の腕を絡ませた。
言葉はなかったが、互いの鼓動の速さだけがわかる。
「……」
キールは動けず、二人は密着する。
リリアの腕は細く、それでも包み込むような優しさがあった。
視線を合わせたら壊れてしまいそうで、でもこの時間を失いたくなかった。
「はい、撮るわよー! ハイチーズ!」
パシャッ。
シャッターの音が鳴る。
イオラはスマホを見て、微笑む。
リリアとキールはお互いに照れた顔でピースをしていた。
「ふふっ……いい写真」
隣でサイラスも頷いた。
「うん、いいな。もうカップルだ」
「もうっ! 二人とも意地悪!」
リリアがぷくっと頬を膨らませ、ぷんぷんしながら振り向く。
キールはそっぽを向きながら頬を指で掻いた。
イオラは写真を撮ったスマホをリリアに返す。
「はい、スマホ」
画面に映る、自分とキール。
腕を組んで、笑って、少しぎこちなくて――でも、確かに“ふたり”だった。
リリアは思わず、スマホを胸に当てる。
「初めてのツーショット……」
その言葉は風にかき消されたけれど、彼女の顔は、幸せそのものだった。
キールはその横顔を見て、ふと微笑む。
(やっぱり、リリアさんの笑顔は――)
言葉にならない想いが、喉の奥で溶けた。
リリアは目をつむるとキールの顔が浮かぶ。
(あぁ……私、認めたくなかっただけなんだ。
こんなに、キールのこと――)
リリアの胸の奥に、ゆっくりと波のような熱が広がっていく。
抗ってきた気持ちが、優しくほどけていくようだった。
リリアはゆっくりとキールの歩み寄っていく。
リリアは自然と、キールの背中に頭を預けた。
静かな夜風の中で、かすかに聞こえる心臓の鼓動。
風が頬を撫で、彼の髪がふわりと揺れる。
その一瞬が、どうしようもなく愛しくて。
――リリアは唇を動かした。
「キール......好きだよ」
風の音に紛れる小さな声だった。
頬を背中に押しつけ赤い耳を隠すようにして、その温もりの中で息を潜める。
「リリアさん? 今、なんて言いました?」
キールが振り返ろうとした瞬間、リリアは慌てて離れ真っ赤な顔で笑う。
「なんでもないよー! べー!!」
あっかんべーをするリリア。
キールは戸惑った顔をする。
「えぇ......」
遠くで祭りの音が、まだ続いていた。
そして――
時計の針が19時半を指した時、ある時間が、静かに近づいていく。
彼らとの“約束の夜”が迫っていた。




