第47話『二人だけの時間』
祭りの喧騒が、窓の外からかすかに届いていた。
部屋では、リリアが鏡の前に座り、イオラはルンルンで髪を巻いている。
熱気の中、リリアのショートボブが柔らかく波打ち、光を受けてさらりと揺れた。
「イオラさん、この格好、絶対浮きますよね」
リリアは頬を染めながら、落ち着きがない様子だった。
「何言ってるの。キールに見せるんでしょ? そのために準備したんじゃない」
イオラがいたずらっぽく笑うと、リリアの口元がふにゃりと緩む。
その様子にイオラは声を立てて笑った。
「できた!」
最後の毛先を軽く整えると、鏡の中のリリアはふわりとした髪に、少し大人びた表情を浮かべている。
イオラは思わず息をのんだ。
「本当に綺麗よ、リリア」
リリアは視線を逸らしながらも、唇の端が上がっている。
「ありがとう、イオラさん。目立つ格好で人前に出るの久しぶりで照れちゃうな。それに前髪、大丈夫ですよね」
「大丈夫。完璧よ」
イオラは親指を立て、笑顔で背中を押した。
「いってらっしゃい。楽しんできなさい!」
リリアは深呼吸をひとつして、扉の前でくるりと振り返る。
「行ってきます!」
軽やかな足音が廊下に響いた。
外の風はあたたかく、灯りがまたたいていた。
――今夜は、特別な夜になる。
一方、キールはサイラスと一緒にいた。
「どんだけ服に無頓着なんだよ」
サイラスは両手で頭を抱える。
キールが試着室から出てくるたびに、センスのない服装が更新されていく。
シャツの柄は派手すぎ、パンツは丈が中途半端、靴は色が合っていない。
もはや“迷子の才能”といっても過言ではなかった。
キールは何も言い返せずサイラスはため息をつきながらも、キールの背中を押す。
「俺が選んでやるからもう黙って着ろ。いろいろレクチャーしてやるから、今後のためにも」
「はい...」
サイラスは勢いよく店の中を歩き回り、ラックから服を引っ張り出していく。
サイラスはシャツ、パンツ、ジャケット、アクセサリーを山のように腕に抱え、いろんな服を着せた。
「お前、素材がいいから何でも似合うな」
キールはいろんな服を着せられ、疲れていた。
「サイラスさんもうこれ五十着目ですよ。どういう服着ればいいかなんとなくわかったのでもういいですか?」
「そうか!じゃあ、どれも良すぎるから自分で選んでくれ」
サイラスはケラケラ笑い、キールはショックそうな顔をする。
「えぇ……」
そして、キールの選んだ服をサイラスが見る。
「おっ、いいじゃねぇか!」
サイラスが満足げに親指を立てた。
「二時間前の惨状が嘘みたいだな!」
キールは白のオーバーサイズTシャツに、ゆるく落ちるデニムを合わせていた。
腰には黒いベルト、ワイドなデニムは足首まで流れるように広がり、裾が軽くスニーカーの上にかかる。
靴は厚底のスニーカー。白と黒の切り替えが、足元にリズムを添えている。
「惨状って言わないでください!あれでも頑張ったんですから」
キールは不貞腐れたように口を尖らせた。
「まぁまぁ、あとはヘアスタイルだな」
サイラスが笑みを浮かべ、近づいてくる。
「俺に任せろ、ちょっと整えるだけで見違えるぞ」
「ちょっ、待ってください!髪は自分で……!」
「どうせセンスねぇだろ」
サイラスがワシャワシャと手を伸ばす。
キールは必死に逃げ回るが、最終的に捕まって鏡の前に座らされた。
「じっとしてろ、子どもか」
「子ども扱いしないでください!」
そんなやりとりが続くうち、二人の間に自然と笑いがこぼれる。
待ち合わせ時間の17時。
街はもう、夏の熱気で溶けそうだった。
カーニバルの音楽が波のように響き、ビーチではフェスが盛り上がり、テラスでは人々が色とりどりのカクテルを片手に笑っている。
街道にはキッチンカーが並び、スパイスの匂いと甘いトロピカルの香りが風に混じっていた。
待ち合わせ場所に立つキールは、後ろから感じる視線に小さく眉をひそめる。
イオラとサイラスが、物陰から覗いていた。
(あの人たち、何してんだろ)
心の中でそう思った、その時だった。
「キール! ごめん、人多すぎて迷っちゃった!」
その声に振り返った瞬間、キールの時間は、止まった。
通り過ぎる人全員が彼女に目を奪われていく。
リリアが、まるで輝いているように立っていた。
ショートボブの髪は濃い黄緑色。
肩に触れるか触れないかの短さで切りそろえられ、光を受けて柔らかな束がふわりと外に跳ねる。
首筋のラインを見せるようにまとめたうなじは、ほんのり汗で輝き、涼しげで、どこか艶やかだった。
後ろ髪をねじって、水色のヘアクリップで留めている。
ハイビスカスとヤブランの柄が映える南国の浴衣を纏っていた。
メイクはいつもより少しだけ濃く、頬の赤らめが照れなのか熱のせいなのか、分からないほど可愛らしい。
キールは完全に固まっていた。
間抜けなほど目を見開き、脳が「リリアだ」と理解するのに、しばらく時間がかかった。
「ごめん、待った?」
「い、いいえ」
「そっか、よかった」
リリアは安堵して、少し微笑んだ。
その笑顔がまた可愛くて、キールはさらにフリーズする。
「キール、今日の服と髪型、かっこいいね。よく似合ってるし……らしいね」
「ありがとうございます」
キールはロボットのように返答した。
リリアは恥ずかしいのか、早口で続ける。
「浴衣なんて、この国じゃ浮いちゃうよね。実際すごい見られてるし……やっぱり違うのにすればよかったかなぁ」
キールはまだ反応しない。
リリアは気まずそうに視線を泳がせ、思い切って聞く。
「キール? あのさ、私の浴衣……どう?」
リリアは上目遣いで、照れくさそうに言った。
それでもキールは動かない。
まるで魂が抜けたように、彼女を見つめている。
(やっぱり、浴衣とか好きじゃなかったのかな。頑張ったのに……)
リリアの胸の奥が、すっと沈んでいった。
屋台の光が彼女の瞳に反射して、その一瞬だけ、寂しそうな光が滲む。
その瞬間――
ブシャーー!!
「うぇっ!! キール!?」
リリアが驚いて声を上げる。
キールは意味の分からないほど、鼻血を噴き出した。
真っ白なTシャツに、真っ赤な染み。
服が台無しになっても、まだぼーっとしている。
「ちょっ……ちょっと!? 大丈夫!? 戦いの後遺症とかじゃないよね!?」
慌てたリリアはティッシュを取り出して、キールの顔に当てた。
「いえ……その……リリアさんをずっと見てたら、なんか鼻血が……」
「えっ?」
その一言で、リリアの心臓が一瞬で跳ね上がり、視界が真っ白になった。
「なにも考えられなくなって……頭がショートしたみたいで……」
リリアはキールに何があったのか、すぐに察した。
胸の奥が一気に熱くなり、飛び跳ねたくなるほど心が躍る。
頬が熱を帯び、思わずしゃがみ込みんで両手で顔を覆う。
そのままうずくまり、耳まで真っ赤になって声も出せなかった。
「リ、リリアさん!? だ、大丈夫ですか!?」
慌てたキールの声がすぐそばで響く。
「う、うん……だ、大丈夫……」
声が震える。
(キールが……私で鼻血!? なにそれ……そんなの……!)
心臓がうるさいほど跳ね、恥ずかしさと嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざって、思わず声が漏れた。
「んーーーーっ!!!」
キールは完全に混乱していた。
リリアの頬は真っ赤で、まるで湯気が出そうだった。
キールが鼻を押さえながら、さっきの話を思い出す。
「あの……リリアさん。さっきの浴衣のことなんですけど、とても——」
言いかけた瞬間、リリアが反射的に立ち上がり、両手でキールの口を塞ぐ。
「もういいから! これ以上は……死んじゃう!!」
声が裏返り、ますます顔が真っ赤になる。
しばらくの沈黙。
リリアはそっぽを向きながらも、どうしても唇が緩んでしまう。
そして、少しだけ顔を上げて言った。
「でも……嬉しい! ありがと!」
満開の笑顔。
花火のように弾けるその笑みを見て、キールは何が起こっているのか分からないまま、それでもなぜか、胸の奥があたたかくなる。
リリアが手を離し、鼻を指差して言った。
「キール、鼻血まだついてるよ! ほら、新しい服買いに行こ!」
「いえ、別に僕はこれでも……」
「私が嫌だよ! なんかもう、事件現場の人みたいじゃん!」
リリアのその一言で、キールは観念して服屋へ連れていかれる。
その様子を遠くから眺めるイオラとサイラス。
「あの二人、しまらないな」
「ふふ……でも、あの子たちらしいわね」
二人は笑いながら、祭りの喧騒の中に消えていった。
新しい服を買ったあとも、キールとリリアは何かを言い合いながら歩いている。
なにを話していたのかは、二人にしか分からない。
ただ一つだけ確かなのは、どちらの顔にも、心からの笑顔があった。
二人だけの忘れられない夜が――今、始まる。




