第44話『鋼水拳』
「酷すぎる」
キールは怒りを含んだ声で吐き捨てる。
いつも冷静な彼の瞳に、はっきりと怒りの炎が宿っていた。
そのすぐ後ろから、リリアが駆け寄ってくる。
「サイラスさん……ひどい、これ」
彼女は震える手でサイラスの身体に自分の上着をそっと掛けた。
薬品の匂いが、あたり一面に重く漂う。
金属と化学の入り混じった刺激臭が鼻を刺し、息をするだけで喉が焼けるようだった。
リリアは思わず口元を手で覆い、咳き込みながら叫ぶ。
「キール!! ここ……ガスが充満してる!!」
キールはすぐに反応し、両手を広げて集中する。
彼の中心からドーム状の水の膜が展開し、ガスを押しのけていく。
まるで見えない嵐が一瞬で吹き抜けるように、ガスは外へと追い払われた。
重たかった空気が嘘のように澄んで、呼吸が戻る。
キールは膝をつき、倒れているサイラスのそばへ駆け寄った。
「大丈夫ですか、サイラスさん」
サイラスは重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。
「……キーレスト……なんで、ここに?」
まだ意識は遠く、世界の輪郭が揺れて見えた。
すぐそばで、切羽詰まった声が響く。
「サイラスさん! しっかりしてください!」
リリアが涙をこらえきれず、必死にサイラスの手を握りしめていた。
その温もりが、かすかに現実を取り戻させる。
「……リリア? お前たち……どうして……」
焦点がようやく合いはじめる。
目の前には、真っ直ぐに自分を見つめる二人の顔。
リリアの瞳が濡れて輝き、キールはただ真剣な眼差しでうなずいていた。
「よかった……気づいてくれて」
リリアが安堵の笑みを見せる。声は震えていた。
サイラスは苦しげに息を吐きながら、ゆっくりと上半身を起こす。
「……助かった。お前たちがいなかったら、本当に終わってた」
キールは短くうなずいた。
「サイラスさんは恩人ですから、当然ですよ」
その穏やかな言葉に、サイラスはかすかに微笑む。
しかし、次の瞬間、彼の目がキールの顔に止まった。
「お前、その左目……どうしたんだ」
キールはわずかに視線をそらして言う。
「ちょっと……いろいろあって。それより、サイラスさん」
言いづらそうにしていたキールが、目を伏せた。
その一瞬の沈黙で、サイラスはすべてを悟る。
「基地が……」
キールの声は震えていた。
サイラスの目に、再び怒りと悲しみが混じる。
「あぁ……あいつに、跡形もなく消された人も何もかも」
リリアは両手で口を覆い、キールは息を呑んだ。
「そんな……でも、サイラスさんだけなんで……?」
リリアの問いに、サイラスは深く息をついて答える。
「俺の体は特殊なんだ。……UMHってのがいるだろ? 俺は、それなんだ」
リリアとキールはお互いの顔を見て驚きながらも、静かに瞬きをする。
「……僕たちもです」
「私たちも……」
サイラスの目が二人を見つめ、わずかに見開いた。
驚き、そして――ほんの少し、安堵のような笑みが浮かべる。
「……そうか」
サイラスは深く頷き、目を細めた。
「イオラがリリアを連れてきたのは、そういうことか。合点がいったよ」
その瞬間――
どぉぉぉぉぉぉぉん!!
地面が波打つように揺れ、水のドーム全体が低く軋む。
「な、なに!?」
リリアが驚き、サイラスが冷静に状況を読んだ。
「……このままじゃ防御が持たねぇ。あいつ、本格的に仕掛けてきやがったな」
短く息を整え、二人へ視線を向ける。
「お前たちの能力を教えてくれ」
「僕は、水を生成して操ることができます」
キールが真剣な表情で言い、リリアも続く。
「私は……人以外のものを動かしたり、人の思考を操ることができます。でも、さっき“ゾーン”になって今は使えません」
サイラスが眉を寄せた。
「ゾーン?」
キールが即座に補足する。
「UMHの能力が一時的に飛躍する状態。その反動で、使った時間分の千倍の間……能力が使えなくなるんです」
サイラスは瞬時に理解し、戦略を組み立てる。
「なるほどな。あいつの生成能力は強いが、無限じゃないはずだ。しかも、やけに俺を近づけさせたがらない。恐らく接近されるのが弱点の可能性が高い」
二人の視線がサイラスに集まる。
「作戦はこうだ。俺とキーレストで挟み撃ちにする。いくら何でも二人同時は捌ききれないはずだ。正面は俺が引きつける。キーレストは水の防御を維持しながら、リリアを守れ」
その指示に、キールは一瞬だけ息を呑み――力強く頷いた。
「……わかりました」
キールは振り返って、リリアに優しく微笑む。
「リリアさん、ここは僕に任せて。危険だから、無茶だけはしないでください」
リリアは不安そうに唇を噛み、静かに頷いた。
「……ごめんね。役に立てなくて」
キールはその手を取って、首を横に振る。
「僕の方こそ。何も考えず突っ込んで……ごめんなさい」
二人の手が触れた瞬間、サイラスは一瞬だけその光景に視線を向けた。
(……やっぱり、そうか。キーレストの言っていたリリアって、彼女だったんだな)
「お前ら……仲直りできたみたいだな」
二人は照れくさそうに視線をそらし、次の瞬間、サイラスに向かって小さく頷いた。
その一瞬だけ、三人の間にあたたかな空気が流れる。
しかし――次の瞬間、天地を裂くような轟音が再び響いた。
空気が震え、サイラスはゆっくりと立ち上がる。
「行くぞ、キーレスト!」
「はいっ!」
二人は水のドームを飛び出した瞬間、キールが両手を広げた。
手から爆発するように水の膜が広がり、空気を切り裂いてガスを吹き飛ばす。
風が走り、砂が舞い上がり、視界が一気に開けた。
その一瞬を狙うように、フラーケンの怒号が響く。
「これは親子の問題だ!! 外野は引っ込んでろ!!」
フラーケンの叫びと同時に、両腕の機関銃が火を噴いた。
弾丸が一直線に飛び、地面を削り、夜空を赤く染まる。
キールは身を沈め、水を足元から噴射し、宙を舞った。
身体をひねって弾丸をかわし、弾丸は水の膜に触れるたびに、きらめく水が散る。
「サイラスさんは僕を助けてくれた人です! その恩を返すだけだ!!」
叫びながら、指先から水弾を放った。
連射されたそれが矢のように飛び、フラーケンを正面から押し返す。
弾丸と水弾がぶつかり合い、弾丸は砕け、金属音がはじけた。
フラーケンの視界を埋めるようにたくさんの水弾が迫ってくる。
「くっ……! こんなもので男の武器は壊せんぞ!!」
唾を飛ばしながら叫ぶフラーケン。
しかしその隙、サイラスは全身のバネを爆発させるように地を蹴り、空気を割って突き進む。
その動きはまるで獣であり、怒りと悲しみが肉体に宿って理性を凌駕していた。
「人の形をした化け物がぁぁぁぁぁ!!」
サイラスの咆哮が夜を突き破る。
顔は怒りに染まり、瞳の奥では涙が混じっていた。
フラーケンは一歩も退かず、手をかざす。
咄嗟にフラーケンは新たな武器を生成する。
腕の装置がうなりを上げ、光を帯びた。
「女は黙って、私に従えぇぇぇ!!」
次の瞬間、爆発のような衝撃波が放たれる。
音が消え、景色が反転する。地面ごと吹き飛ぶほどの衝撃。
サイラスの体は宙を舞い、地面に叩きつけられる。
しかし、一切ひるむことなく立ち上がった。
目の奥で、狂気に似た光が宿る。
「こんなんで……死ぬかよ……」
フラーケンの顔がひきつり、恐怖が、わずかに見えた。
「ひっ……!」
サイラスはゆっくりと笑う。
「女にビビってんじゃ、男失格だな!!」
次の瞬間、足元の土が弾け、一気にフラーケンまで距離を詰めた。
サイラスの拳が閃光のように走り、フラーケンの頬を掠める。
血が飛び散る。だがフラーケンは冷静に対処する。
新たな武器の大型の金属ハンマーを形成する。
「この……出来損ないが!!」
ハンマーが振り下ろされ、地面が爆ぜる。
しかし、サイラスはそれを片手で止め、反撃の一撃を叩き込んだ。
フラーケンの身体がのけぞり、サイラスの拳が頬を避けた。
フラーケンはすかさず片手で機関銃が展開し、キールに向けて弾丸が雨のように降り注ぐ。
だが、その銃撃をもろともせず、キールが空から急降下した。
全身に水の膜を纏い、弾丸をはね返しながら一直線に降下する。
キールはそのままフラーケンの前に現れ、足元に巨大な水の渦を生み出した。
フラーケンは焦り、再び武器を生成しようとしたがすでに遅かった。
「もう無駄です!」
二人の軌道が重なり、拳が交錯する。
「ティアーラ!! みんな!! 仇は取ってやる!!!」
轟音とともに、世界が一瞬、静止する。
砂塵が渦を巻き、サイラスとキールの拳が重なり合った。
その瞬間、鋼の拳と水の衝撃がひとつになる。
圧縮された力が炸裂し、空気が爆ぜ、音が遅れて世界を震わせた。
フラーケンの顔面に、二人の全てを込めた拳が叩き込まれる。
歪んだ顔が横へ弾かれ、巨体が宙を切り裂きながら吹き飛んだ。
壁に激突し、破片と砂煙が舞い上がる。
沈黙。
荒い呼吸だけが、戦場に残った。
サイラスは拳を握ったまま、血に濡れた指先をゆっくりと見つめた。
「何があっても、俺はあんたになんか屈しない」
その声音には怒号も嘲りもない。
ただ、燃え残った魂が最後に放つ、誇りのような強さがあった。




