第38話『サイラス・アーヴァン』
フルア国・トニティ基地
ここは、人里離れたサイラスが建設した独立基地。
周囲は荒れた岩地と砂漠に囲まれ、夜には風の音しか響かない。
崩れた鉄骨も、燃え上がる炎もなかった。
ただ、巨大なクレーターと、煙だけが残っている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
サイラスは地面に大の字で倒れていた。
服はボロボロで弾痕がいくつも刻まれている。
それでも、血は流れていなかった。
皮膚には、土埃と火薬の匂いだけがまとわりついている。
サイラスの周囲には、ガスのような煙がゆっくりと渦を巻いていた。
(無敵だと思ってたが…ガスには勝てねぇか……)
視界がゆらりと歪む。
焼けつくような息苦しさの中、意識が遠のいていく。
ふと、昔のことが頭によぎった。
フルア国・30年前
サイラス・アーヴァンが生まれたのは、フルアがまだ“他国の影”に支配されていた時代だった。
フルア人のサイラスの母が身ごもったと知るやいなや姿を消していくレアマシー人の男。
サイラス・アーヴァンは、そんな理不尽の狭間に生まれる。
当時のフルアを最も蝕んでいたのは――「レアマシー人による性暴力」と「レアマシー人の罪の免責」だった。
フルアの女性たちは“交流”という名のもとに弄ばれ、妊娠がわかると、男たちは責任を放棄して姿を消した。
残されたのは、幼い命と、貧困と、頼るもののいない母たちだけ。
殺人や暴力、恐喝――レアマシー人の数が増えるほどに、その被害は拡大していった。
混血として生まれることは、のちの革命後もなお差別の的となり、この時代から“血”を隠して生きる人々が増えていった。
レアマシー人が犯した犯罪は全てが揉み消され、なかったことにされていた。
それでも政府は沈黙を貫く。
レアマシーという“先進国の恩恵”にすがることで、自国の惨状から目を逸らし続けた。
利益を得るのは政府と上層だけ。
国民が受けたのは、奪われる屈辱のみ。
サイラスは、そんな時代の“象徴”として生まれた存在の一人。
サイラスの母、カトラー・アーヴァンは女手ひとつで育て上げた強くて明るい女性。
市場ではいつも笑い、子を抱いて働き、その背中は、街の誰もが知る“誇り”だった。
サイラスが七歳の頃。
夕暮れの校庭で、砂の舞うグラウンドを見つめながら、胸の奥がそわそわしていた。
「俺も一緒にサッカーしたい!!」
ボールを追う少年たちの輪に駆け寄って、サイラスは無邪気に声を上げる。
しかし、一人の少年が顔をしかめて振り返った。
「は? お前、女だろ? あっちで砂遊びでもしてろよ。サッカーは男の遊びだ。俺とか言って気持ち悪ぃんだよ」
その言葉が、乾いた風より冷たく胸に突き刺さる。
笑顔のまま固まった唇。息が詰まって、何も言い返せなかった。
(なんで、男じゃないとサッカーしちゃダメなの?)
胸の奥で、ずっと小さく燻っていた違和感が、その瞬間、はっきりと形を持った。
なぜ、女の子のような服を着なければいけないのか。
なぜ、髪を伸ばさなければいけないのか。
なぜ、列に並ぶときまで“男”“女”で分けられなきゃいけないのか。
(俺は、女なの?男なの?これは病気?)
誰にも聞けなかった。
聞いたら、みんなに変に思われる。
教室では笑い、家では母の前で明るく振る舞う。
けれど、夜になると布団の中で目を閉じながら、自分の胸を押さえた。
心と体がかみ合わない。
その違和感は、幼い心にまだ名前を持たないまま、確かな痛みとして残り続けていた。
そしてサイラスが十二歳を過ぎた頃。
体は、日に日に“女性”としての輪郭を強めていった。
胸がふくらみ、声が柔らかくなり、服のサイズも合わなくなる。
その変化が、まるで「世界が勝手に決めた自分」へと塗り替えられていくようで、息苦しかった。
散々からかってきたクラスメイトからの告白。
女子グループの、恋や流行の話に合わせようとするたびに感じる違和感。
他の子より早く発育した胸には、男たちの視線が集まる。
「なぁ、あいつ……胸出てるよな」
その一言が、皮膚の下まで突き刺さった。
血の気が引き、心臓の鼓動が自分の体じゃないみたいに遠く感じる。
どうしようもなく気持ちが悪かった。
服の上から胸を押さえ、締めつけるようにして隠す。
痛くてもかまわない。ただ、“元の自分”に戻りたかった。
「サイラスちゃん、それ似合うよ!」
笑いながらそう言われるたびに、胸の奥が軋む。
ありがとうと笑って返すことが、嘘をついているようで限界だった。
気づけば、男子の輪にも女子の輪にも入れなくなっていた。
どちらにいても、どこか「間違ってる」と思ってしまう。
教室のざわめきの中で、自分だけ音が遠のいていく。
誰も悪くないのに、世界全体が敵のように感じられた。
そんなある日、母が早く帰ってきた。
「サイラス、見て! この可愛いワンピース! あなたにきっと似合うと思うの!」
仕事帰りの手に、小さな紙袋。
その中には、花柄の淡いピンクのワンピース。
屈託のない笑顔が眩しかった。
「そうだね……母さん」
サイラスは笑いながら、気づかないうちに涙をこぼしていた。
「あら、そんなに嬉しいの? お母さん、頑張ってよかったわ!」
母・カトラーは寝る間も惜しまず、サイラスの未来のために必死に働いていた。
だからこそ、胸が締めつけられる。
(母さんにだけは、心配かけたくない。俺が苦しいなんて、絶対に言えない)
サイラスはその夜、鏡の前でワンピースを当ててみる。
そこに映る自分は、母が喜ぶ“理想の娘”であって自分自身ではなかった。
それでも、笑顔で生きようとした。
母のために。そして、母の笑顔を壊さないために。
それから六年が過ぎ――サイラスは十八歳になった。
季節は冬。
白い息が滲む朝、病院の廊下に響いた“心停止”を告げるアラーム音。
その瞬間、世界の音がすべて遠のく。
「母さん……なんで?」
サイラスは呆然としたまま、冷たくなっていく母の手を握りしめた。
自分を守り抜いてくれたその手が、今はただ静かに眠っている。
過労と持病の悪化。
母・カトラーは女手ひとつで娘の未来のために休むことさえ忘れていた。
「母さん...母さん」
丈の短いスカート。頬には薄くチークを乗せ、唇には母に教わった赤をひいた。
慣れないヒールに足を痛めても、笑顔で通学した。
学校では恋人もでき、料理も裁縫もこなした。
「普通の女の子」として生きることが、母への恩返しになると信じていた。
「母さん、私のために……いっぱいしてくれたのに。私、何も返せてないよ……」
声に出した瞬間、抑えていた涙が溢れる。
床に崩れ落ちるようにして泣きじゃくった。
料理を一緒にした日、転んで膝を擦りむいた夜、仕事から帰ってきて「サイラス、よく頑張ったね」と抱きしめてくれた感触。
(母さんがいたから、私は“女の子”でいられた。
母さんが笑ってくれたから、私は“間違いじゃない”と思えたのに……)
あふれ出る母への思い、母が自分に残してくれたもの、それはかけがえのないものだった。
その母はもういない。
「私これから、どうして生きたらいいの....」
葬儀の翌日。
薄暗い部屋で、サイラスは静かに母の遺品を片付けていた。
すると、封筒の中に母から自分への手紙が残っていた。
サイラスへ
これを見てるということはお母さん、死んじゃったのよね。
不謹慎かもしれないけど、お母さん、サイラスが泣いてくれるだけで嬉しいわ!
でも、まずこれを先に言わせてください。あなたは私の自慢であり、誇りです。
あなたは人のことを第一に考えられる優しさと前へ進む力強さを持っています。
でもね、いくら強いあなたでも、抱えてしまうこともあると思う。
そんな時は、信頼できる人に、理解してくれる人に相談してください。
お母さんは力不足で、あなたの痛みを受け止めきれなかった。
何かを抱えていることはわかっていました。
母親失格よね。そんな母でもあなたに何かできたことがあったでしょうか?
あなたと行った海、遊園地、文化祭、いろんな思い出が私の宝です。
あなたにとっても宝であると嬉しいな!
もしかしたらあなたは私のために頑張ってくれたかもしれない。
お母さんはそれが天国にいるよりもうれしいです。
でも、これからは自分のために生きてほしい。
これは母からの願いではなく、一つの生き方です。
何にも縛られず、自由に。
この手紙を読んで決めるのではなく、あなた自身で決めてください。
それじゃ、お母さんはバカンスに行ってくるのでここらでお暇させていただきますね!
母・カトラーより
「かあさん...」
サイラスは手紙を握りしめたまま、涙があふれて止まらなかった。
声を上げることもできず、ただ、温かいものが胸の奥から込み上げてくる。
――泣きながら、笑っていた。
「ごめんね……でも、ありがとう」
しばらくして、サイラスは静かに立ち上がる。
中には、札束と母の筆跡で書かれたメモが挟まっていた。
『サイラスへ これは自由に使ってください。母からの最期の贈り物です』
サイラスは涙を拭い、決意の息を吸い込む。
(母さん、俺はもう逃げない)
そして、手術を受ける決意を固めた。
――数日後。
全身検査と精神診断を終え、医師が静かに告げる。
「サイラスさん。あなたに手術を施すことはできません」
「え……?」
思考が止まり、サイラスは医師を見つめ返した。
「なぜですか?お金ならありますし、どんなリスクでも受け入れます」
医師は苦しげに首を振る。
「そういう問題ではないんです。画像検査をしても臓器は映らず、メスもレーザーも通らない。まるで体そのものが“拒絶”しているように……。私のキャリアでも、こんな症例は初めてです。――何か、違法な薬を使ったことは?」
サイラスは唇を噛みしめ、首を横に振るしかなかった。
どれだけ努力しても、どれだけ願っても、“この身体”のまま、生き続けなければならない現実がそこにはあった。




