第37話『きっといい日になる』
夜は静まり返り、リリアの腕時計の針が一時を指していた。
リリアの太ももに、キールの頭がそっと乗っている。
戦闘の緊張がようやく解け、リリアのまぶたも次第に重くなっていた。
「ふぁ……」
小さく息を漏らすと、首がかくんと傾く。
その瞬間、キールがゆっくりと目を開けた。
「リリアさん」
キールは目覚めて、体を起こしてそっとリリアの肩を支える。
「寝ててください。僕は大丈夫なので」
その言葉は優しく、どこか子守唄のように穏やかだった。
リリアはとろんとした目でキールを見る。
「うん……」
声も細く、瞳の中に月明かりがゆらりと映った。
リリアはキールの胸に寄りかかると、その感触に包まれながら、すぐに眠りにつく。
キールは少しだけ微笑んだ。
「おやすみなさい、リリアさん」
リリアは答えず、かすかに唇を動かして寝息を漏らす。
その寝顔は無防備で、どこまでも穏やかだった。
キールは髪を一束だけ耳にかけ、彼女の頬にかかる影を払いのける。
ほどなくして、箱は音もなく塵となり、淡い光の粒とともに消え
た。
中から現れたバニーとライドは、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
キールは穏やかな笑顔で、二人に手を振った。
その隣では、リリアがまだ目を閉じたまま、静かに寝息を立てている。
バニーはそんなリリアの寝顔を見つめ、目を細めてやわらかく微笑んだ。
「二人とも、ありがとう。おかげで、本当の自分を見つけられた気がする」
声はかすかに震えていたが、その瞳は澄んでいた。
ライドも静かに頷く。
「本当に悪かった...」
その言葉は、後悔でも懺悔でもなく、静かな感謝のように聞こえた。
そのとき、リリアが小さく身じろぎをし、まどろみの中で呟く。
「二人とも……私たちと一緒に行こうよ……」
その声は夢の中から滲み出るようで、現実と幻想のあわいを漂っていた。
バニーとライドは、思わず顔を見合わせて固まる。
その一言が、あまりにも優しすぎて、息が詰まるほどだった。
キールが穏やかな声で続ける。
「お二人とも、そうしましょう。僕たちも、その方が嬉しいです」
柔らかな微笑みが、夜の光と混ざり合う。
バニーは小さく笑い、視線を落とした。
ライドは無言で手のひらの震えを止められなかった。
ふたりはゆっくりと見つめ合い、同じ思いを確かめ合うように頷く。
「わかった。それじゃ、いこっか」
リリアとキールは立ち上がり、四人で歩き出した。
潮風がまだ残る浜辺を、月明かりがやわらかく照らしている。
沈黙を破ったのはライドだった。
「お前らのために、一応忠告しておく」
その声には、どこか遠くを見るような静けさがあった。
「フルア国に“研究所”はない。――あれは、レアマシー国のエリア11にある。
調べればすぐに見つかるはずだ。……ただ、気をつけろ。フルアとなにかしらの大企業と裏で繋がってる。真実を追うならそこが鍵だ」
キールは息を呑む。
(バルドさんが言っていた研究所!)
頭の中で点と点がつながり、胸の鼓動が早まる。
バニーは横で黙って聞いていたが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、トニティ基地にもう一人刺客がいたんだ。急いだほうがいいかも」
その基地の名前に、キールの表情が引き締まる。
「サイラスさん……」
その瞳に宿るのは、焦りではなく、確かな決意だった。
「――四人で向かいましょう!」
キールが言うと、リリアは満面の笑みを浮かべて頷く。
「うん!!」
その笑顔を見つめながら、ライドとバニーは一瞬だけ目を合わせる。
敵として出会い、戦い、血を流した四人は――いま、同じ道を歩こうとしていた。
キールとリリアが並んで先を歩く。
月明かりの下、その背中はまっすぐで、まるで未来へ続く灯火のように眩しかった。
だが、その少し後ろで、バニーとライドは立ち止まる。
風が二人の髪を撫で、潮の香りがゆっくりと頬をかすめた。
バニーは、光の方へ踏み出そうとして――ほんの一瞬、目を細める。
その瞳の奥に映るのは、過去の痛みでも、未練でもなく、どこか穏やかな決意だった。
そして、ゆっくりと歩み寄ると――彼女は微笑みながら、キールとリリアを優しく抱きしめ、その首筋にそっと唇を寄せ、優しく噛む。
「――っつ!」
「――えっ??」
刹那、二人の身体が小さく震え、そのまま砂の上に崩れ落ちた。
キールは驚きと戸惑いが混じる声で、かすかに言葉を漏らす。
「えっ……なんですか、これ……?」
ライドは小さく鼻で笑い、口の端をわずかに上げた。
「お前ら、敵の俺たちを見くびりすぎたな。まぬけ」
バニーは振り返らず、ただ海を見つめたまま静かに言う。
「任務失敗しちゃったからね。一刻も早く逃げないと。あなたたちに、構っている暇はないの」
リリアは這うように手を伸ばし、涙を滲ませて呼びかけた。
「待ってよ……一緒に行こうって言ったのに。
まだ、二人に何も返してあげられてないよ!」
バニーはその声を背で受け止め、小さく息を吐く。
指先で風に髪を払う仕草が、どこまでも静かで、優しかった。
「もう十分もらったよ……」
その笑みは、夜の海よりも穏やかで、悲しいほど綺麗だった。
ライドは空を見上げ、深く息を吐く。
「お前らがいない明日は……きっと、いい日になりそうだ」
バニーの隣に並び、彼は静かに顔を向けて言う。
「またな。キール、リリア」
「お二人とも――お幸せに!」
バニーは手を軽く振り、笑ってみせた。
ふたりは歩き出す。
波打ち際の砂を踏む音が、少しずつ遠ざかっていく。
夜風がふたりの背中を押し、海の向こうへと導いていくようだった。
リリアは泣きそうな声で叫ぶ。
「待ってよ! バニーさん、ライドさん!!」
キールも必死に声を張る。
「今日の夜八時に、あの入り江で二人で待ってますから!!
そしたら、たくさん、みんなで話しましょ!!」
けれど、二人の姿はもう遠く、波と月光の中に溶けていった。
彼らの足跡は、寄せる波にさらわれ、跡形もなく消えていく。
残されたキールとリリアのまわりには、静寂と、潮の香りだけが――優しく、痛いほどに満ちていた。




