第36話『新たな今明日』
リリアの頬を伝う涙が、ぽたり、と床に落ちて光った。
視界が滲み、呼吸が乱れる。
胸の奥で何かがきしむように痛くて、けれどそれがどんな痛みなのか、もうわからなかった。
(こんなの、あんまりだよ)
次の瞬間、リリアの髪がふわりと逆立ち、瞳に光が宿る。
捕らわれていた透明の箱が、音もなく砕け散った。
「なっ……!? どうして!?」
ライドが息を呑む間もなく、リリアは右手を払う。
見えない風圧が走り、ライドの身体が宙へ優しく弾かれた。
続けざまに、キールを押さえ込んでいたバニーの腕がほどけ、その身体も軽々と飛ばされる。
“ゾーン”に入ったリリアは、複数の意志を同時に操れる状態であり、人の感情だけではなく思考も流れ込むようになっていた。
しかし、今は人をひとり動かすだけで限界だった。
ふらつくキールへ駆け寄り、リリアはすぐに肩を支える。
「リ……リリアさん……すみません……」
掠れた声。息が荒く、体が今にも崩れそうだった。
リリアは首を横に振る。
その瞳は迷いがなく、ただまっすぐに彼を見据えていた。
「キール、あの人たち、苦しんでる。私、助けたい」
キールは一瞬だけ目を閉じ、そして弱々しくも笑う。
「僕もです。初めて意見が合いましたね」
血の気を失った頬に、かすかな生気が戻った。
「リリアさん、作戦があるんでしょ?僕も手伝いますよ」
リリアは息を飲み、そして静かに頷く。
「うん。でも、終わったら休んでね」
二人は並んで立った。
風が二人の髪を揺らす。
少し離れた影で、バニーとライドが歩みをそろえる。
「ねぇ、あの二人を見ると私たちを思い出さない?」
バニーは微笑みながらも、瞳の奥に赤い光を宿していた。
「あぁ。あの頃はよかったな。自分が……本当に自由だったと思えたよ」
ライドは淡々と答え、空を見上げる。
バニーは苦笑し、短く息を吐いた。
「それを取り戻すために.....」
言葉はそこまで。二人は視線だけで合図を交わす。
ライドの指先が弾けた瞬間、透明な箱が宙に展開し、リリアとキールを閉じ込めた。
しかし、箱は一瞬で粉々に砕け散る。
リリアはまっすぐにライドへ手を伸ばした。
「お願い……もう戦わないで」
彼女の意識がライドの思考へ潜る。焼けつくような抵抗。
「くっ……また、俺の頭に……!」
ライドは歯を食いしばり、思考を押し返す。
二人の意識がぶつかり合った。
その隙に、バニーが赤い瞳と牙をのぞかせ、一直線にリリアへ——
透明の刀身が弧を描き、間に割って入る。
水が凝固して刃となり、キールがバニーの一撃を受け止めた。
金属と水の刃がぶつかるような音が響く。
「これ以上はやめてください!」
キールの呼びかけに、バニーは涙をにじませ、獣のような顔で低くうなる。
「それはできない。私たちが“自由”でいるために、あなたたちが犠牲になって!」
キールは歯を食いしばり、刃を交差させた。
水しぶきが閃光のように舞う。
「あなたたちは優しい人たちだ。だからこそ、こんなことはしてほしくないです」
バニーは唇を噛み、低くうなった。
「じゃあ、どうすればいいの!? 私たちみたいな人間が、この世界で」
キールは答えず、ただ一歩前に出る。
剣が火花を散らし、鋭い金属音が夜を裂いた。
キールは息を吸う間もなく、バニーの連撃を受け止める。
斬撃、蹴り、踏み込み——すべてが速い。
重心をずらしながら防御に徹するが、腕に走る衝撃が骨の奥まで響く。
「はぁっ!」
バニーが横薙ぎに振るう。
キールはギリギリで剣を交差させ受け止めるも、力の差で地面を滑った。
足元の砂が舞い、視界が一瞬白く弾ける。
キールは歯を食いしばり、息を荒げながら踏みとどまった。
次の瞬間、バニーの蹴りを避けて体をひねり、逆に剣を突き出す。
刃と刃がぶつかり、甲高い音が響いた。
二人の顔が至近距離で交錯し、そのすべてが混ざり合う中、どちらも一歩も退かない。
一方、リリアとライドの思考戦は極限に達していた。
「支配しようとしても……無駄だ。俺は負けない!」
ライドの声が響く。両手を広げると、空間が歪み、透明な“箱”がいくつも出現する。
それらは音もなく宙を泳ぎ、獲物を囲むようにリリアへと迫った。
リリアは目を閉じ、息を整える。
「あなたは“自由”に支配されてる!命令なんて聞かないで!」
彼女の声が響いた瞬間、箱の一つがパリンと砕け、光の粒となって消えた。
ライドは歯を食いしばり、さらに両腕を突き出す。
「自由になるためにここまで来たんだ! 今さら引けるか!!」
その叫びと同時に、数十もの箱が一斉にリリアへ襲いかかった。
空気が震え、砂が巻き上がる。
リリアは両手を広げ、目の前で次々と箱が砕け散り、破片のような光が舞った。
「結局、何もかもすぐに消えちまうさ」
ライドが呟く。
その声には怒りよりも、寂しさが滲んでいた。
リリアは静かに見つめ返す。
「あなたたちは……私たちの恩人なの!!」
ライドの動きが止まった。
「……は?」
「キールと別れて、彼が私にとって大切だってことを気づかせてくれた。仲直りの機会もくれた。だから、」
リリアは、涙を浮かべながら微笑む。
「あなたたちもやり直せるよ!明日から、きっと」
その“笑顔”を見た瞬間、ライドの中で何かが弾けた。
胸の奥から、かつてバニーと過ごした初めての夜、星空の下で誓った“自由”の記憶が蘇る。
五年前
車のトランクにもたれながら、バニーはどこか浮かない顔をしていた。
夜風がピンクの髪を揺らす。
「どうした、バニー?」
ライドが缶コーヒーを差し出しながら尋ねた。
「お母さん、入院してるみたいなの。でも、手術代が払えなくて」
声は小さく、どこか遠くを見ているようだった。
ライドは何も言わず、ポケットからくしゃくしゃの袋を取り出す。
中には札束が詰まっていた。
「これ、使え」
「えっ……でも、これって――」
「腐っても母親。気になるんだろ?」
ライドは照れくさそうに笑う。
「それに、お前は俺とこれから人生をやり直すんだ。今日で今までのバニーとはおさらば。人生はさ、自由である限り、何度でもやり直せるんだよ」
その言葉に、バニーはぽかんとした後、ふっと笑った。
「ありがとう、ライド。あなたのこと、好きになりそう」
ライドは慌ててハットを深くかぶり、視線をそらす。
「お、おう」
現在
戦場の中心で、リリアは呼吸を整える。
視界の端で、キールとバニーの戦いが激しく火花を散らしていた。
水が刃となって宙を走り、金属のような音を響かせている。
一方、ライドは叫ぶように地を蹴った。
砂を散らしながら一直線にリリアへ突進する。
その瞳は怒りにも、悲しみにも見える揺らめいた光を帯びていた。
胸の奥に焼きついて離れない光景があった。
——バニーの笑顔。
トランクに腰をかけ、くだらない話で笑い合ったあの夜。
あの瞬間が、ライドの“自由”のすべてだった。
「俺たちは……何のために」
喉が裂けるほど叫んでも、答えは出なかった。
その時——
リリアの声が、まるで風のように彼の脳内へ流れ込む。
『あなたたちは、もう十分頑張ったよ』
ライドの足が止まり、目が揺れた。
次の瞬間、膝が震え、両手で頭を抱え込む。
「俺たちを...」
声は震え、涙が頬を伝う。
その続きは、喉の奥でつかえて出なかった。
リリアは両手を広げ、ライドの思考を包み込む。
二人の意識がぶつかり、ライドの脳内が白く弾けた。
ライドの動きが止まり、リリアは彼の意識を操り、箱を創り出す。
黒い箱が形を成し、彼を箱の中に入れる。
「キール、今!」
リリアの叫びに応じ、キールが両手を掲げた。
足元の水がうねり、キールは天へと舞い上がる。
バニーが振り向いた瞬間、手から放たれた水流で押し出された。
「なにするの!!!」
そのままライドの箱へ叩き込む。二人の身体がぶつかる。
キールは歯を食いしばり、箱の中へ水を満たしていく。
その光景はまるで涙で満たされた檻のようだった。
「バニーさん!」
キールの声が震える。
「あなたは僕たちの恩人です! だから……生きて!そこから出たら、一緒にお話しましょう!」
バニーの瞳が揺れた。
敵として戦っていた少年の真っ直ぐな言葉が、心を貫く。
(どうして、そんな顔で言えるの?)
「お願い。仲直りして、気づいて」
リリアは祈るように呟きながら、箱を閉じた。
水が満ち、二人の姿は静かに消えていく。
力が抜け、リリアは膝から崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ」
振り返れば、キールがその場に倒れ込んでいる。
急いで立ち上がり、駆け寄って彼の頭をそっとふとももに抱く。
「キール……やったよ。あとは——二人を待つだけ」
箱の中
水の底で、二人の体がゆっくりと沈んでいく。
光は遠く、世界は青くぼやけていた。
(ライド! お願い、目を開けて!)
バニーの声は水に溶け、誰にも届かない。
焦りの中で、彼女は躊躇なく顔を近づけた。
唇が触れ、冷たい水の中で、互いの息が交わる。
水泡が二人を包み、月の光が水面越しに差し込んだ。
――歪なほどに美しい、誰にも届かない世界。
やがて、ライドの胸がかすかに波打つ。
閉じていたまぶたが震え、微かな息が戻った。
二人は同時に水面を突き破り、空気を吸い込む。
肩で息をしながら、二人はただ見つめ合った。
「バニーごめん!」
震える声。
水面の光が、ライドの涙を照らした。
「おれ……自由とか未来とか、そんなことばかり言って、 “今”を全然見てなかったんだ。バニーとフリムと過ごした、あの何でもない日々が……俺にとっての“自由”だったんだ!」
その言葉に、バニーは息を呑む。
胸の奥に沈んでいた何かが、静かに溶けていくようだった。
「だからさ……これからも、俺といてほしい」
ライドは笑おうとした。
風が、波をすべらせていく。
バニーはライドの頬にそっと手を伸ばし、濡れた指で涙を拭った。
その指先が触れた瞬間、二人の間に言葉のいらないものが流れる。
過去の痛みも、後悔も、全部ひとつに溶けていった。
「ライド……」
その笑みには、やり直すための勇気。
これは新たな明日へ向けての一歩。未来は皆平等に、自由を謳歌できる。
バニーはライドの頬にそっと触れ、言葉では届かない想いが視線の奥で絡み合った。
「私たちの明日は、どんなかな...」
やがて二人の距離は消える。
心音と鼓動が重なり、水の抵抗の中で、互いの存在が重なっていった。
やがて水面には、重さを失った衣がゆらゆらと漂う。
過去を脱ぎ捨て、ただ“今”だけが残る。
そして、水底の奥深く——ひとつのランプが微かな光を放っていた。
それは暗闇に抗うように、二人を映し、静かに瞬いていく。
二つの影はやがて一つに溶け、水は静かに、永遠のような静寂を取り戻していくようだった。




