第33話『オルフェウスとエウリュディケ』
「ライド、私が気絶させるから捕まえて!」
「言われなくたって!」
ついさっきまでの口論が嘘のように、二人の息が一瞬で噛み合う。
空気が震え、バニーの爪が閃光のように走った。
同時にライドが両手を交差させ、箱を展開する。
リリアを中心に、四方から透明な壁が瞬時に形成された。
「なにこれ……今までこんなの」
手を突き出すも、表面は弾力のある膜のように弾き返される。
「まさか……」
次の瞬間、バニーの瞳が白目ごと真紅に染まり、地面を蹴った。
まるで野性が解き放たれた獣のように、キールに牙を剥く。
「二人そろってゾーン化したのか!」
キールの表情が険しくなった瞬間、バニーの影が閃光のように迫る。
避けようとした瞬間、腕の噛み跡から再び電流のような痛みが走った。
さらに、左目から流れ落ちる血で視界が霞む。
バニーの牙が、キールの首元に深く食い込んだ。
「っ――つぁあ!!」
箱の中のリリアは、拳を振り下ろしながら必死に叫ぶ。
「やめてぇっ!!」
だが声は届かない。音は壁の内側で吸われ、無音の空間に消えた。
リリアの意識の奥で、ふいに感情が流れ込む。
暗闇の中でもがく光。
それはバニーとライドの中に残る“哀しみ”だった。
ポタッ——。リリアは理由もなく頬に涙が伝う。
今から25年前——フルア国
2005年
レアマシーへの不信とフルア政府への怒りが爆発し、フルア国内は革命の炎に包まれていた。
その混乱の真っ只中で、ひとつの恋が、静かに、けれど情熱的に花を咲かす。
フルアの女性ミオと、レアマシー軍の若き兵士ジエット。
敵国同士、立場を越えて惹かれ合い、3年後には夫婦となった。
2009年
ミオは身ごもり、二人は涙を流して抱き合った。
戦火と憎しみの時代に咲いた、たったひとつの希望の証。
翌年、2010年
ついにフルア政府が崩壊し、新たな体制が誕生した。
レアマシー大統領の謝罪とともに、軍は撤退を開始する。
多くのレアマシー人が祖国へ帰る中、ジエットは“残る”ことを選んだ。
そして、ミオは出産の日を迎える。
生まれてきた赤子の名は——バニー。
「どうかこの子だけは、自由に生きられますように」
そう願いを込めて名付けられたが、現実は残酷だった。
新政府の報復が始まり、ジエットは“敵国人”として憎悪の対象となる。
脅迫、迫害、孤立。
彼は恐怖と絶望に押し潰され、出産の夜、逃げるように祖国へ帰った。
残されたミオは、幼いバニーを抱きしめながら、深い悲しみに暮れていた。
10年後
「あんた、なんでいんの?」
ミオは鏡越しに、バニーを睨む。
濃いアイラインに赤い口紅、カールがかかった髪。
その姿は、かつて“優しかったミオ”の面影をどこにも残していなかった。
ミオはベビードール姿のまま煙草をくわえ、煙をわざと吹きかける。
「ケホッ、ケホッ、ごめんなさい」
「チッ。お客さん来るんだから、邪魔しないでよね」
バニーは壁際に縮こまっていた。
髪は伸び放題で、爪の隙間は黒く汚れている。
最後に風呂に入ったのがいつだったかも思い出せない。
ミオは舌打ちをして、灰皿のタバコを押しつぶす。
「まったく……誰のために働いてあげてると思ってんの」
そう言うと、火を消したタバコをバニーに投げつけた。
「ベランダにいな!」
乱暴にドアが閉まり、ガラスが割れそうになる。
吹き込む夜風に、バニーの肩が小刻みに震えた。
「あら〜、久しぶりにありがとうございます!」
ミオの明るすぎる声。
それに混じる男の低い笑い声と、鼻をつくドラッグの匂い。
そんなものは、もう日常だった。
ミオにとって、娘は“過去の裏切り”の象。
見るたびに、失った男を思い出させる存在だった。
「生まれなきゃよかったのに」
その言葉が胸にこびりつき、少女は何度も息を詰まらせた。
夜風の吹くベランダ。
バニーは空を見上げ、呟く。
「……明日、生きていられるかな」
その声は、誰にも届かない。
ただ白い息だけが、闇の中で消えていった。
十五歳になったバニーは、ようやくバイトを始めた。
コンビニのレジ、掃除、皿洗い――どんな仕事でもよかった。
少しずつ貯めた給料で、ずっと憧れていた服を買う。
薄い紙袋を抱きしめた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。
鏡の前でピンクの髪を整え、ワンピースに袖を通す。
「自分で買った服って、こんなに嬉しいんだ」
小さな笑顔が、鏡の中で光に溶ける。
それは、生まれて初めての“普通の女の子”の瞬間だった。
——バシッ!
視界がぐらりと揺れ、床が遠のいた。
口の中は鉄の味がした。息が詰まり、喉が鳴る。
見上げた先には、乱れた髪と濁った目のミオが立っていた。
「あんた、こんなもん買う金があるなら私に渡しな!」
「ごめんなさい……欲しくて」
「育ててあげたのに……あたしにこんな“あだ”で返すわけ?」
もう若くもなく、客も減り、金も底をつきはじめていた。
部屋には散らかった瓶と薬袋。
タバコの煙が滞留し、空気はどろりと重く、逃げ場がない。
ミオはバニーの髪をわしづかみにして、乱暴に引きずり寄せた。
「やめて……っ」
耳元でハサミの金属音が跳ねる。
ジャキッ——。
切れた髪がふわりと宙に舞い、床に落ちた。
バニーの目が大きく揺れる。
「これだけ短くすれば、当分は切らなくていいわね」
笑っているのか怒っているのか、ミオの口元が歪んでいた。
次の瞬間、ミオはワンピースの裾を掴み、ハサミを構える。
「やめて!!」
「うるさいっ!!!」
もみ合い。
息がぶつかり、ハサミが暴れる。
鉄の匂いが鼻を刺した、その一瞬――
——グサッ。
「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ミオの悲鳴が部屋を震わせた。
片目に突き刺さる銀の刃。血が床を染める。
バニーはその場に立ち尽くした。
目の前で崩れ落ちる母をみて息ができない。
「わ、わたし……悪くない……」
震える唇からこぼれた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
「お母さんが……勝手に……」
足が勝手に動き、靴も履かずに玄関を飛び出す。
背後では、血と煙と母のうめき声が混じっていた。
ひたすら走った。
全てを捨てるようにここではないどこかへ。
誰もいない草原の真ん中で、バニーはうずくっていた。
遠くで、低く唸るようなエンジン音が近づいてくる。
一台の車がヘッドライトを光らせ、彼女の前で止まった。
白い光が闇を切り裂き、夜の草原を昼のように照らす。
降りてきたのは、紫のパーマにハット帽をかぶり、黒のタキシードを着た少年だった。
まるで夜の舞台から抜け出してきた俳優のようなその姿に、バニーは一瞬、言葉を失う。
「なぁ、オルフェウスとエウリュディケの話、知ってるか?」
少年は明るい笑顔で言った。
「なに、いきなり」
バニーは顔をそらし、警戒するように目を細める。
「それくらい、悲しい顔してるからよ」
少年はそう言って、軽く片膝をついた。
目線を合わせ、彼女の冷えきった手をそっと包み込む。
「窮屈だろ、この世界。
でも俺といれば、必ず楽しくて、自由な未来が見せてやるよ」
その言葉に、バニーの瞳が揺れた。
風が頬を撫で、乾いた夜気の中に、わずかな温もりが差し込む。
「……今すぐにでも?」
かすれた声で問うと、少年はニッと笑った。
「ああ、もちろん」
ヘッドライトの光が二人を包む。
夜の闇が、まるで新しい幕を開けるように静まった。
「俺、ライド。君は?」
「バニー。私、あなたと行く」
バニーは目を輝かせる。
「決まりだな」
ライドは高らかに拳を掲げ、夜空に跳ね上がった。
「ライド&バニーの結成だ!」
バニーは驚いて笑った。
風が二人の間を抜け、笑い声を遠くまで運んでいく。
夜空の星が、その笑顔を祝福するように瞬いていた。




