第31話『1つ目』
「本物の目を捧げよ」
その瞬間、リリアの鼓動が跳ね上がり、耳鳴りが爆ぜた。
次いで、脳裏に焼きついた過去がせり上がる。
2年前――――リリア16歳
「もういい加減にして!あなたがそんなだから私たちが苦労しているのが分からないの!?」
母の声は刃だった。頬を伝う涙も、噛みしめた痛みも届かない。
「でも……お母さん、私、売れてきたの。だから、やらせてよ!」
「それが危険だって言ってるのよ!」
母の目は怒りではなく、恐怖と保身に歪んでいた。
「なんで......私、自分で頑張ってきたのに。うまく隠せるよ?」
リリアの声はしぼむ。
「隠すとかの問題じゃないの!あんたが世間に知られたら、家族が終わるのよ!」
雷鳴のような言葉。リリアは言い返せず、立ち尽くした。
「私の人生はどうだっていいの?」
母は一瞬だけ沈黙し、冷たく言い放つ。
「あなた、普通に生きられると思ってるなら、それは勘違いよ」
その言葉に絶望した。
現在
息が詰まる。視界が波打ち、空気が重くなり、喉が塞がった。
「はっ、はぁっ……はあっ……!」
呼吸ができない。
「リリアさんっ!」
駆け寄ったキールの手が、彼女の背中を必死にさする。
冷たい肌、震える指。恐怖と苦痛が絡む顔。
呼吸は悪化していく。リリアは苦しげに身を折った。
(迷ってる場合じゃない。今すぐ出ないと、リリアさんが危ない!)
キールは水の刃を作り、呼吸を整えた。
「ーーーーーーー!!」
そして、ブザーは鳴り、部屋は塵のように消えていった。
波打ち際に、二人の姿があった。潮の匂い、寄せては返す水音。乱れた呼吸が、少しずつ波のリズムに馴染んでいく。
キールはリリアを抱き締め、背中に円を描くようにさすった。
「リリアさん、もう大丈夫」
視界の端で過去の破片がまだちらつく。
「もう、外ですよ」
リリアはキールの声で意識を手繰り寄せる。
「……『目を捧げろ』って」
言いかけて、息を呑んだ。
「キール、何して――!」
彼の左目には、深く鋭い傷が走っていた。頬を伝う赤、そこに再び光が灯ることはない。
それでもキールは痛みを気にする素振りもなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「よかった。リリアさん、呼吸が戻ってる」
リリアは震える手で自分の服を裂き、即席の包帯を作り彼の顔に巻く。
「なんで……こんなことに」
「間一髪でしたね」
あの瞬間に“クリア”を選んだキールの判断は正しい。
リリアの発作は悪化していた可能性が高かった。
リリアは罪悪感が胸を押し潰す。
「私のせいで……ごめん」
キールは首を横に振り、柔らかく言う。
「目のひとつくらい、安いですよ。リリアさんのためなら」
その言葉が、潮風よりもやさしく胸に染みた。
「ありがとう、キール」
二人はそっと指を絡め、確かめ合うように強く握った。
潮風がぴたりと止まり、緊張が張る。背後で波が静かに崩れ、月明かりが刃のように二人の影を裂いた。
「うそでしょ」
「勘弁してくれ」
足並みを揃えて現れたのは、先ほど襲ってきた二人――ピンク髪のバニーと、紫髪のライドだった。
二人は唖然として、キールたちを見つめる。
「出れないんじゃなかったの?」
バニーが呆れたように横目をやる。
「あぁ、そのために化けて仲を悪くさせたんだ。なのに...」
ライドの視線の先では、キールとリリアがしっかりと手を握っていた。
「仲が戻っちまったみたいだな」
キールはリリアを後ろへ下げ、静かに前へ出る。
「あなたたちの目的は何なんですか?」
ライドが淡々と答える。
「俺たちのため。逃げられると困るんだ」
「もういいじゃん……二人がかわいそうだよ」
バニーの声は、どこか震えていた。
「これを果たさないと俺たちに明日はないんだぞ...バニー」
ライドは冷たく、しかしどこか哀しそうだった。
バニーは覚悟を決めたように目を閉じる。
「今までの手は通じないね」
「あぁ。力ずくでいく」
二人は構え、緊張が走る。
「リリアさん」
キールが振り返り、真剣な声で言う。
「相手は相当な実力者です。危ないので、僕の背中に乗ってください」
「キールと一緒に戦うよ! 守られてばかりじゃ――」
「だから、背中は任せます」
キールは微笑んだ。
「リリアさんに怪我してほしくないんです。僕は近接戦、頑張りますから」
胸によみがえる“初めて背中を任されたとき”の記憶。
「わかった。まかせて!」
彼の背中に飛び乗るリリア。しがみつく腕に、かすかな震えが伝わる。
「重くない?」
「鍛えてるので大丈夫です」
「答えになってないよ!」
砂が爆ぜ、夜風が鋭く吹き抜ける。
バニーとライドが同時に地面を蹴った。
「なんでいつもうまくいかないんだ」
ライドが身を屈め、両腕を交差してバニーの足を受ける。
「跳べっ!」
バニーが軽々と跳躍した。ライドの腕を踏み台に、弾丸のように空へと飛び上がる。
月明かりを切り裂きながら、ピンクの髪が閃光の尾を引いた。
狙いはキールの首。牙が光った。
「ッ!」
次の瞬間、彼の足元が“水面”に変わった。
波紋が広がり、身体が滑るように横へ。
刹那、バニーの牙が空を噛む。
「言うことを聞いて!」
乾いた声がぶつかった。
着地したバニーは間髪入れずに低い姿勢で突進。
回し蹴り、肘打ち、膝。
キールは前腕に水を纏わせて受けるが、バニーの手数は止まらない。
背後から影が伸びる。ライドの上空の周囲に立方体がいくつも浮かんだ。
無数の箱が出され、唸りを上げて迫る。
「っ!? あれは――!」
「私に任せて!」
砂が舞い、風がうなり、リリアが箱の軌道をずらす。岸の砂を弾丸のように撃ち出し、箱を砕く。ひとつ、ふたつ、みっつ――次々に破壊。
「外からの衝撃に弱いみたい!」
その間にもキールはバニーの連撃を必死に捌いていた。
足技、体捌き、そして跳躍。
二人の動きが交錯するたび、砂が宙を浮く。
「重いものを背負ってると、戦いづらいんじゃない?」
息を切らしながら笑うバニーの声は、どこか優しかった。
「……私、やっぱり重い?」
リリアが小さく呟く。
「そんなことないですよ」
その一瞬のやり取り、小さな油断だった。
バニーの姿がふっと消えた。
「そっちの意味じゃなかったんだけどな」
次に見えたときには、彼女の顔がキールの腕に食らいついていた。
「――ッッ!!」
夜気を裂くリリアの悲鳴。
「キール!!」
だがキールは眉ひとつ動かさない。噛まれた腕ごと、水の鎖でバニーを拘束する。
「リリアさん、離れて!!」
リリアはためらいながらも背から降りる。
次の瞬間、キールの周囲の水が逆流し、渦を巻いた。
それは巨大な水のドームへと膨れあがる。
「リリアさん、僕を信じてください。そっちは任せます!」
振り返らずに言い放つその背中。胸が熱く締めつけられる。
「わかった! 帰ってきてね!!」
キールは一瞬だけ微笑み、海へ飛び込んだ。水柱が立ち、月光に砕け散る。
波しぶきの向こうで、リリアとライドが対峙する。
ライドは冷徹な目で言った。
「戦えるのか?」
「戦闘はからっきしだよ」
リリアは『あっかんべー』と舌を出す。
「でも……能力じゃ負けないもんね!」
砂がざわめき、風が彼女の髪を揺らす。その背後で、海が再び爆ぜた。




