第29話『リリア to キール』
どれほどもがいただろう。
試せる手はすべて試した。だが、脱出の糸口は見えない。
「はぁ……はぁ……」
リリアは壁際に背を預け、荒い息を整えようとした。
その瞬間、視界の端で、淡い光が揺れる。
ベッド脇。
キールが掌に“水の刃”を形づくり、喉元へと向けている。
「キール……?」
思考より先に、身体が動いた。
リリアは全身の力で彼に飛びつく。
「ダメっ!!」
鈍い衝突音。二人は床に転がり、キールの手から水の刃が砕けて消えた。
だがキールの指先は止まらなかった。
震える手が再び動き、こめかみへと向かう。
「やめて!!」
リリアはその手を掴み、必死に押さえ込む。
腕の中のキールは、まるで壊れた人形のように力が抜けていた。
焦点の合わない瞳が宙を彷徨う。
「なに……してるの?」
かすれた声で問うと、キールの唇が震えた。
リリアの脳内に思考が入り込んでくる。
『……もう、無理だ』
その瞬間、空気が凍りついた。
床に落ちる雫だけが、冷たく光る。
キールの心の中
暗い闇の中を、ずっと歩いていた。
どれだけ人を救っても、胸の棘は抜けない。罪悪感が奥底に根を張ったまま。
そんな僕の世界に、ひとすじの光が差し込んだ。
病室の昼下がり――
穏やかな光がカーテン越しに揺れ、静かな呼吸の音だけが響いていた。
うとうとするリリアの頬を、指でつつく。
ぷにっ、と柔らかい。
「……ん?」
ゆっくりと目を開けたリリアと視線が合う。
その瞳は、陽だまりのように優しかった。
リリアが首を傾げると、キールは慌てて手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい! なんでもないです!」
あまりの挙動不審ぶりに、リリアは呆れ顔で眉を寄せた。
「なんでほっぺ触ってたの?」
問い詰められたキールは、布団に潜り込みながら消え入りそうな声で答える。
「……触りたくて、つい」
一瞬、時が止まる。
「ひゃ、ひゃい?」
「特に理由はないんです。ただ……触りたかっただけで……」
いつもなら「変態!」と突っぱねていたはずのリリアが不思議と嬉しそうにしていた。
リリアは自然と笑みを浮かべ、頬を赤らめたまま、キールのほっぺを両手でむにっとつまむ。
「なにしゅるんでしゅか!? リリアしゃん!」
「しかえしー。私のほっぺ触った罪ね♪」
リリアは声を弾ませ、キールの頬をさらに強く両手でつまむ。
「いだだだだ! ごめんなさいっ、ごめんなさいってば!」
小さな声と笑い声が、静かな病室に溶けていく。
リリアさんの言動一つひとつが、心に灯をともしていった。
彼女は僕を救ったとか、癒したとか、そんな言葉では足りない。
彼女は暗闇の中で僕を照らす、唯一の光。
彼女と過ごす日々の中で、僕は戻れた気がした。
あの頃の自分を。まだ、未来を信じていた頃を。
ケントが生きていた時も、同じだった。
激しい戦いの末、彼の首元に刃を向けながら、僕の手は震えていた。
「気分転換しよ、ケント!」
キールはケントを抱きしめる。
「ケントが背負ってるもの、僕も背負う。これから何があっても、離れないから」
その瞬間、彼の頬を伝った涙を、僕は忘れられない。
「キーレスト……! 俺、人を……殺しちゃったんだ!」
かすれた声。
誰よりも友達思いの彼が、自分を許せずにいる。
「……分かってる。だから、一緒にいよう」
これが本当の救いだと、信じたかった。
けれど――。
それは同時に、リリアさんを裏切る選択でもあった。
僕はどこかで「どうせ理解してもらえない」と思っていた。
その傲慢な諦めが、決定的な亀裂を生んだ。
「どんなことがあっても……絶対に、ケントを失いたくないんだ!」
喉が裂けそうな叫び。
その瞬間、リリアさんはただ黙って僕を見つめていた。
唇が小さく震え、押し殺すように言葉を絞り出す。
「……行きなよ。キールの気持ち、わかったから」
あまりにも優しすぎた。
その優しさが、僕を突き刺す。
彼女の目は泣いていなかった。
けれど、泣いているより痛かった。
それでも、僕は覚悟して、ケントの罪も、苦しみも、背負うと決める。
どれほど深い闇でも、隣にケントがいれば、少しだけ光があった。
「でさ、エミリーとお前、二人してサルみたいに真っ赤になってんの!」
ケントは腹を抱えて笑う。
「うるさいなー」
「なぁ?あのとき何があったんだ?」
不意に思い出す。
あの日、エミリーが頬にキスをした瞬間。
その一瞬が、永遠のように鮮明で。
「別に何もないよ。お互いちょっと緊張してただけ」
「緊張であんな真っ赤になるか! キスでもしてたのか?」
「……」
ケントの目がまん丸になる。
「え、マジか!?」
無邪気に笑って肩をどついてくるその仕草が、子どもの頃と何一つ変わっていなかった。
あの笑い声が、どれほど救いだったか。
だから、失ったときの痛みは、言葉にならなかった。
ケントは、あまりにもあっけなく奪われた。
僕の決意も、祈りも、何の意味もなかったかのように。
「俺たちは、一緒だ。だから……俺、死なないよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が焼けた。
幼い日の記憶が蘇る。
『だって、僕たち一緒だから』
その約束を、彼は最後まで信じていた。
「うん……死なない。僕たち、一緒だから」
涙の中で、かろうじて笑う。
だがその笑みの先で、ケントの表情は穏やかに、静かに消えていった。
「ケント?」
返事はない。握った手が冷たく沈んでいく。
呼んでも、何度叫んでも、届かない。
「ケント……ケントっ……!」
どれだけ覚悟しても、世界は残酷だった。
誰かを救おうとすれば、別の誰かが消える。
胸の中に残ったのは凍りついた現実だけだった。
そんなときだった。
「一人じゃないよ、キールっ!」
耳を疑った。
振り向くと、そこに立っていたのは、もう二度と会えないと思っていた人。
「エミリー?」
彼女は、あの日と同じ笑顔で、柔らかな光の中にいた。
キールは、思考よりも先にその手を掴んでいた。
現実かどうかなんて、もうどうでもよかった。
そのぬくもりを感じている限りだけは、生きていられる気がした。
「はい! 今日から一緒に教えることになりました――キール先生です!」
教室の中に、明るい声が弾ける。
子どもたちのざわめきが一斉に広がった。
「エミリー先生の彼氏!?」
「きゃー! お似合いすぎるー!」
エミリーが楽しげに見つめる。
「こら、みんな静かに。私たちは、そういう関係じゃないの!」
「えー! つまんない!」
「じゃあキール先生は私がもらう!」
笑い声が溶け合い、教室が光に包まれていく。
放課後
「なんで、学校の先生なんかやってるの?」
エミリーは少し笑って、窓の外に目をやる。
「この子たちね、孤児だったり、家庭がうまくいってない子ばかりなの。放っておけないよ」
その瞳は昔と変わらず、まっすぐで優しかった。
その光を見ているうちに、別の誰かの顔が浮ぶ。
ベッドの上で笑っていた、リリアの笑顔。
指先にまだ残っている、あの柔らかな頬の感触。
彼女を置いてきた罪悪感が、現実よりも重くのしかかってくる。
どれだけ笑っても、どれだけ穏やかでも、この光景はどこか作り物のように見えた。
「リリアさんに、会いたい」
その言葉が漏れた瞬間、心の中に強い風が吹いた。
サイラスの言葉が脳裏をよぎる。
『人生ってのは立ち止まってくれない。進むしかないんだ』
僕は再び前を向いた。
リリアさんと、もう一度話したかった。
ただ、それだけだったのに。
エミリーと唇が重なり、拒む暇も、言葉を差し込む隙もなかった。
乾いた足音が、背後で止まる。
振り返ると、そこには彼女が立っていた。
「誤解なんです」
何よりも冷たい声が落ちた。
「……もう、あんたなんか……消えちゃえばいいんだ」
その言葉は刃の形をしていなかったのに、胸の内側を正確に切り裂いた。
息ができない。
畳みかけるように、残酷な現実が襲う。
エミリーはいなかった。
そもそも生きているはずがなかった。
僕の腕の中で、息を引き取ったのだから。
あの微笑みも、あの温もりも、すべて幻。
普通に暮らす権利なんて、最初から僕にはなかったんだ。
頬を伝う涙が勝手に落ちる。
息をするたびに、罪が増える気がした。
いない方が、みんな幸せになれる。
この場所も、明日も、僕がいなければ整う。
もう戻れない。
どれだけ叫んでも、どれだけ祈っても。
あの温かい日々には決して戻れない。
現実
心が完全に崩壊する。
「……死にたい」
呟きは風にも届かず、ただ、沈んでいった。
深い深い水の奥底に沈むように。
床に滴るのは、キールの涙。
幾度の自責と喪失の果て、キールはもう立ち上がれなかった。
うずくまる彼を見つめながら、リリアの胸は張り裂けそうだった。
出会ったときの彼――どこか陰を宿しながらも、誰かを救おうと手を伸ばしていた少年。
不器用で、優しく、話しているだけで、心が温かくなっていった。
裏切られても、離れても、忘れられなかった。笑顔も、声も、救ってくれた手の温度も。
(どうして……もっと、頼ってくれなかったの?)
胸の奥で感情が弾ける。
リリアは迷わず抱きしめた。
「キール...もう大丈夫だよ」
壊れないように、でも、二度と離さないように。
額に手を当て、優しく撫でる。
「つらかったね」
肩がびくりと震える。
「苦しかったよね……」
柔らかな声が、凍りついた心の奥に染みていく。
キールの驚いた瞳が揺れ、やがて滲んだ。
抗う力が抜けて、彼はただ呆然とリリアの胸に顔を埋めた。
リリア自身の頬も、熱い筋が伝う。
「生きてていいんだよ」
その一言が、壊れた世界の隙間から差し込む光のようだった。
「でも……僕はリリアさんに、ひどいこと」
「……うん。傷ついたよ、すごく」
まっすぐ見つめる瞳には、怒りも恨みもない。
「でもね――」
ずっと形にならなかった想いの正体に、ようやく気づく。
心配で、憎めなくて、どれだけ傷ついても目を背けられなかった理由。
「こんなに苦しくなるくらい……私、キールと一緒にいたいって思ったの」
泣き笑いのような笑顔。
「楽なほうに逃げるのは簡単。でも、私は――キールといたい」
それは告白であり、赦しであり、誓いであった。
張りつめていたものが、ほどけていく。
胸の奥から、嗚咽とともに熱いものが溢れ出した。
「……リリアさん、苦しかったです」
「うん」
「リリアさん、ごめんなさい」
「私こそごめん」
「もう一人は……嫌です」
リリアはそっと微笑んだ。
「私がそばにいてあげる」
曇りのない笑顔。太陽みたいな温度。
「自分がいない方がいいなんて思わないで。
あなたの存在が人の闇を消してくれる。
あなたがいるから、みんな幸せになれるんだよ」
その一言が、キールの心に積もっていた痛みを崩していく。
次の瞬間、押し殺していた声が嗚咽へと変わった。
キールは彼女の胸に顔を埋める。
「あぁぁぁぁーーーーーっ……! う、あぁぁぁ……!」
リリアはただ抱きしめ続けた。
見放されても仕方ないのに、彼女は手を伸ばし続け、受け入れ、許してくれた。
痛いほどの優しさが、胸に沁みる。
――ひとりじゃない。
誰か一人でも自分を信じてくれる人がいるなら、もう一度立っていられる。
強く、そう思えた。
「ありがどう、リリアじゃん……」
リリアは目を細めて、穏やかな笑みを浮かべていた。
閉ざされていた心が、開いていく。
それは小さな一歩かもしれない。
けれど二人にとっては大きな、大きな一歩だった。




