第26話『軋む心』
ベッドが軋む。
熱に浮かされたように、リリアの肌は汗で光り、胸の奥がざわめいていた。
思考は白く途切れ、忘れるように、委ねるように夜が終わる。
目を開けると、朝の光が射し、累の影が近づいた。
「有川、俺たちもう……」
「四条くん」
唇が触れる寸前、強い衝撃。
次に瞬きをしたとき、彼女は一人きり。
「……私、何て夢、見てるの」
甘さだけを残して消える夢は、現実よりも残酷だった。
昨日、リリアは累の案内でフルア国の街並みを歩き尽くした。
異国の建物、甘い香りの屋台、知らない言葉で交わされる賑わい。
累は終始気さくに笑い、迷子になりそうな路地まで手を引いてくれた。
その優しさに触れるたび、リリアの胸には幼い頃の「初恋」に似たざわめきが蘇っていた。
もう、何もかも忘れてしまいたい。
キールのことも。UMHのことも。重たすぎる現実も。
そう思うには、十分すぎる時間だった。
そして迎えた今日。
足を踏み出した瞬間、視界いっぱいに海が広がった。
「うわ、すっごい人!」
アライアス・ビーチ――フルア随一の観光地のひとつ。
砂浜に並ぶパラソル、色とりどりの水着、はしゃぐ笑い声。潮風に混ざるココナッツの甘い香りと、焼き上げられる貝料理の香ばしさ。
リリアは麦わら帽子と白いパーカーを羽織っただけの姿。
素肌を隠すには心もとなく、すらりとした脚は太ももまであらわになっている。
歩くだけで視線を集めていた。
横を歩く累は、前を開けたアロハシャツの下に鍛え抜かれた胸筋と腹筋を覗かせていた。
リリアはその横顔を盗み見て、頬を熱くする。
(……すっごい筋肉)
二人は場所を確保し、海へ行こうとしていた。
「有川、どうしたの?」
「……これしかなかったの」
小声でそう言いながら、恐る恐るファスナーを下ろす。
現れたのは黒のモノキニ。脇腹から腰にかけて大きく切り取られ、上下を繋ぐのは金のリングだけ。胸元は深く開いていた。
きゅっと引き締まった腰と、滑らかな曲線を描くヒップライン。
すらりと伸びた脚線と、健康的な肌の白さ。
「……どう、かな」
顔を真っ赤に染めて俯くリリア。両腕で胸元をかばうようにしても、黒の布は彼女の豊かさを際立たせるだけだった。
累は思わず息を呑み、目を逸らすのも忘れて見つめてしまう。
「似合ってるよ、有川。本当に」
リリアはむくれて横を向いた。
「しょうがなく着ただけなんだからね!」
そして、累は自然にリリアの手を取った。
ごつごつとした感触が、リリアの心を不思議なほど安堵させる。
そのまま二人は波打ち際へ駆け出し、海水をかけ合い、空気で膨らませたボールを投げ合った。
ただ楽しくて、ただ自由で、ただ「今」だけを感じていた。
やがて夕暮れが海を染める頃。
二人は砂浜に並んで座り、リリアは膝を抱えて体育座り、累は大の字に近い姿勢で上体を少し起こしている。
「はぁーー!楽しいね!四条くん!」
リリアは麦わら帽子を一日中かぶって笑っていた。
「有川にそう言ってもらえると嬉しいよ。昨日はずっと浮かない顔してたから……よかった」
その言葉に、リリアは思わず視線を伏せる。
胸に蘇るのは、忘れたかったことばかり――キールとのすれ違い。自分がUMHであるという事実に追われる現実。
けれど累といるときだけは、それらすべてを忘れられる気がした。
「実はね……」
リリアは膝に顔を寄せ、縮こまったまま打ち明ける。
「私、ある人と一緒にいたんだけど、その人は結局、昔の大切な人を選んだの。仲良くなれたつもりでいたけど、私たちの間には見えない壁があったんだと思う。
それですごく落ち込んで、自分のことも今の現状も、全部つらくて……」
リリアは一度言葉を切り、目を上げる。
真っ直ぐに累を見つめ、続けた。
「でもそんなときに、四条くんに再会できた。運命かなって思っちゃうくらい。 でも、運命って思うといつも悪い方向に行っちゃうから、これは私が自分で選んだ結果なんだなって思ってる」
膝に抱えた胸が押しつぶされるほどに縮こまりながらも、リリアの瞳は真剣だった。
累は、照れ隠しをするようにそっぽを向きながら言う。
「有川がへこんでたら、俺が励ますよ。前も言ったじゃん。俺が居場所になるって」
リリアは思わず抱きしめたくなった。けれど、それをぐっと堪え、代わりに笑顔を見せる。
「ありがとう!四条くん!」
「じゃ、ちょっと飲み物買ってくる。荷物置いてた場所で待ってて」
(四条くん、照れてた。可愛いところもあるんだ)
リリアは胸の奥をくすぐられるように思いながら、その場に立ち去ろうとする。
だが、そのとき。
「ねぇ、お姉さん。ちょっといい?」
後ろから声をかけられ、リリアは振り返る。
立っていたのは、男三人組。日焼けした肌に、悪意の色が滲んでいた。
一人がポケットからナイフをちらつかせ、口元を歪める。
「俺たちと遊んでいかない?」
リリアは咄嗟に能力を発動しようとした。
けれど周囲は人であふれている。
ここで力を使えば、自分がUMHであることが一瞬で露見してしまう。
声も上げられず、リリアは悔しそうに唇を噛みしめた。
そのころ、累は売店でドリンクを二つ手にしていた。
けれど、振り返った先にあるはずの姿が見えない。
「……有川?」
波が激しく岩場へ叩きつける。人の目が届かない場所で、リリアは三人の男に囲まれていた。
「体つきがエロすぎて、やべぇ」
ニタニタと歪んだ笑みは気味が悪い。
(ここなら、能力を使える)
心の中でそう呟いた瞬間、腕にチクリと痛みが走った。
「っ……!」
次第に体が痺れ、膝に力が入らなくなる。視界が揺れ、呼吸も思うようにできない。
「これマジで効くんだな。三十分しかもたねぇから、さっさとやっちまおうぜ!」
必死に抗おうとしても、立つことしかできない。
リリアは追い詰められ、全身が冷たく強張っていく。
心は凍りつき、これから訪れるかもしれない屈辱を直感した瞬間、瞳は絶望の色に染まっていった。
「いやっ……やめて!」
だが、返ってきたのは男たちのさらにいやらしい笑み。
「いいねぇ……怯えた顔が、たまんねぇ」
「ほら、後ろ向け」
乱暴に肩を押され、岩肌に両手を突かされる。
上半身を折り曲げられ、足を開かされる形にされ、リリアの全身に屈辱が走った。
「……っ」
声は出ない。心臓だけが激しく打ち続ける。
男のひとりが腰に手をかける気配。
「もう我慢できねぇ」
リリアの目に恐怖が走る。
視界が滲み、涙が溢れる。
そして、思わず心の底から名前を叫んでいた。
「……キール…助けて……」
その瞬間、彼女の頭に浮かんだのは――笑い合った日々。戦場で救われた温もり。
あの人がいてくれた安心感だった。
リリアに男が迫ろうとしたその瞬間、轟くような怒声が荒れた波音をかき消す。
「有川!」
その卓越された格闘技術で、三人の男は砂浜に崩れ落ちていた。誰一人として声をあげる間もなかった。
荒い息をつきながら、累がリリアの肩を掴み、次の瞬間、強く抱きしめる。
「よかった……」
今、抱きしめているのは累で、その温もりは確かにここにあった。
しかし、自分でもわからなかった。なぜ極限の恐怖の中で、最初に浮かんだのはキールの顔だったのか。
「俺、有川のこと一生守る」
耳元で告げられた声は、真剣そのもので、迷いがなかった。
「有川の居場所は、ずっと俺のままでいいよ」
リリアの胸が、不意に跳ねた。
累がふと顔を上げ、真っ赤になった頬のまま、真剣にリリアの顔を見つめてくる。
リリアもまた、知らず知らずのうちに頬を染め、視線を逸らせなかった。
累の手が頬をそっと包み、唇が近づいてくる。
(あっ、キスされる)
そのまま流されてしまいそうだった。
けれど――脳裏をかすめたのは、かつて共に笑い合った日々。何度も救ってくれた、キールの背中。
キールとの記憶が交錯し、リリアは目を閉じることができなかった。
約十日前
リリアは上着を着込んだまま、夢中になって話していた。
「じゃあ、あの人とは一週間しか付き合ってなかったんですか?」
キールの顔は驚きに染まる。
「あんなに依存的になるもんなのかなぁ」
「ちょっと!依存とか言わないでよ!」
リリアはむっとした顔で言い返す。
「私にとっては、初めての彼氏だったから……それだけ嬉しかったの!」
キールは理解できないという顔で「はぁ…」とため息をついた。
「でも、よかった!」
リリアは声を強める。
「キスしなくて。最悪のファーストキスになるところだったんだから!」
呆れたようにリリアを見やるキール。
「何よその顔!文句あるの!?」
「いや、別に。キスなんて……いつしても変わらないんじゃないかと思って」
リリアは目を見開き、信じられなさそうな顔をしていた。
「あんた、バカ?初めての思い出だよ!?一生残るんだからね!」
キールは少し間を置き、真っ直ぐに告げる。
「別に最悪でも、次の人に忘れさせてもらうくらい幸せにしてもらえばいいじゃないですか」
ふっと微笑んで続ける。
「そうすれば、初めての最悪も思い出さなくなりますよ」
リリアは顔を赤らめ、思わずぽつりと呟いた。
「あんたの付き合う人は、さぞかし幸せでしょうね」
「え?」
キールはきょとんとする。
「だって……忘れるくらい幸せにしてくれるんでしょ?」
キールは一瞬黙り込み、視線を落とす。
「……そんな日は来ませんよ」
その寂しい声に、リリアは言葉を失った。
部屋の中が妙に熱く感じられて、思わず上着を脱ぐ。
深いV字に胸元が交差するカシュクールのトップスが姿を現す。
刺激的な布の隙間に覗く素肌。
キールは慌てて視線を逸らし、耳まで赤く染めた。
リリアはそんな彼の反応を不思議そうに見つめながらも、話を続けていた。
現在
あと数センチで唇が触れる距離。
リリアは胸の高鳴りを抑えられなかった。
そして今、初恋の相手が、自分を救い、守ると誓っている。
彼の腕に委ねれば、孤独も痛みも消える。
ずっと欲しかった「守られる場所」が、ここにあるのかもしれない。
そう思った瞬間、心がぐらりと揺れた。
けれど――頭に浮かんだのは、どうしても消えないもうひとつの顔。
いつだって支えてくれて、言葉の端々が心に残って離れない相手。
けれど、その人に選ばれなかった痛みも知っているはず。
忘れたいのに、忘れられない。
リリアは苦しそうに顔をそむけ、声を震わせた。
「……ごめん、できない」
累は表情を曇らせながらも、必死に言葉を繋ぐ。
「俺が、その男を忘れさせてあげるから」
リリアの心はさらに揺れ、胸はときめいていた。
傷は癒え、過去から解放される。
でも同時に、常に別の人の存在が消そうとしても消せないほどに自分の中に刻まれてしまいそうだった。
「四条くん……ごめん。わたし、まだ決められない。自分で選びたいの」
心はかき乱され、答えが出せない。
累の笑顔は優しかった。
「ごめん。勢いで言うもんじゃないよね。ゆっくり進もう」
沈黙が走った。
「先に戻るね」
残された累は、その背中をしばらく見つめ続けた。
瞳から光が失われ、深い影だけが宿っていく。
静かに岩肌へ手をかけると、力んだ掌がごつごつとした岩を砕いた。
「無理にでも計画を進めないと」




