第25話『海胸ファッションショー』
一日を一緒に過ごしたキールとエミリーは服屋「ユタ」に来ていた。
「せっかくだから、キールの好きな服、私がチョイスしてあげる!」
そこから“即席ファッションショー”が始まる。
「これはどうだ!」
エミリーが出てきたのは、黒い高級感漂うワンピース。
艶やかな布地が身体に沿い、髪をまとめた姿は大人びたセレブそのもの。
「すごく大人の女性って感じがするよ」
素直に言うキール。
「もう大人ですー!」
エミリーは舌を出してウキウキで更衣室に戻っていく。
数分後――。
「これなんて、どうかしら」
ひょいと現れたエミリーの姿に、キールは固まる。
上は黒地に鮮やかなボタニカル柄の水着。
ライトブルーのワイドデニムを履いただけだった。
隠す気があるのかないのか、布地の隙間から夏の光がチラつくたびに、キールの頭の中は真っ白になった。
「……っ!!」
思わず視線を逸らし、耳まで赤くなる。
「ふふっ」
エミリーはにやにや笑って腰に手を当てた。
「ねぇ、見たでしょ?」
「み、見てない!」
エミリーは勝ち誇ったように笑いながら指を突きつける。
「やっぱり、キールはまだまだ子どもだなぁ」
エミリーはケラケラ笑いながらまた更衣室へ消えていった。
更衣室で水着を脱ぎ、掛けてあったブラジャーに一瞬視線を落とす。
けれど、彼女はあえてそれをつけ直さずに、レース刺繍が控えめに光る白いブラウスを選んだ。
柔らかく膨らむ袖、胸元は大きく開いていて、軽やかなショートパンツと組み合わせれば、潔い夏の装いになる。
「よし」
小さく呟き、エミリーはその姿でカーテンを押し開けた。
眩しいほど白を基調にしたコーディネート。
けれど、その胸元は布地一枚がかろうじて形を受け止めているだけで、自然と柔らかな曲線が浮かび上がっていた。
「ど、どうかな……」
頬を赤らめ、恥ずかしそうに笑うエミリー。
「……いいと思うよ」
キールは咄嗟に視線を逸らし、声まで掠れていた。
「ふふっ」
エミリーはごまかすように笑って、店員に声をかける。
「すみませーん!これください!」
そのまま街に出ると、南国の強い日差しに白い布地が透けるように光を含み、危うさをいっそう際立たせた。
「ねぇ、それってさ」
キールは顔を赤らめながら口を開く。
「ん?なになに?」
エミリーはわざとらしく首をかしげて、待つ。
エミリーはそっと彼の腕に自分の腕を絡め、顔を肩へ寄せた。
胸元が軽く触れ、柔らかさが伝わってくる。
「……っ」
驚きと、どこか甘い幸福感に包まれて、キールは息を飲んだ。
「キール、ここじゃないどこかで一緒に暮らさない?」
唐突の質問にキールは返事を探したが言葉が出てこない。
エミリーは静かに微笑むでもなく、ただまっすぐにいった。
「今のキールの状況は普通に考えて、おかしいよ。あまりに背負いすぎてる」
俯いたキールは、目線を膝に落としたまま沈黙した。
「キールさ、オルフェウスとエウリュディケのお話知ってる?」
「え??」
不意を突かれたように、キールは顔を上げた。
「ギリシャ神話の一つでさ、オルフェウスは愛する妻エウリュディケを失って、その想いの強さから冥界にまで降りていったの。
竪琴の音色は神々さえ動かして、彼は彼女を地上へ連れ戻す許しを得たんだよ」
淡く光る瞳の中に、深い憂いが混ざる。
「でもね……ひとつだけ条件があった。
“地上に出るまで絶対に振り返ってはならない”。そうすれば二人はまた一緒にいられたの」
彼女の声は、ゆっくりとした調子で落ちていった。
「けれど、オルフェウスは不安に負けて振り返ってしまった。ほんの一瞬の迷いで、彼女は霧のように消えてしまった。二度と、手の届かない場所へ」
エミリーの言葉は、まるでキール自身に突きつけられる戒めのように響いた。
「キール。過去を振り返り続けてしまえば、未来はきっと遠ざかってしまう。
だから、私たちは……二人のようにならないようにしないと」
キールは頷くしかなかった。
次の瞬間、温かな体温と、囁くような吐息。
「……特別なところ、教えてあげる」
その言葉は約束のようで、誘惑のようでもあった。
二人は人影のない入江へと足を運ぶ。
まだ陽は落ちきらず、波打ち際は静かで、人影ひとつなかった。
二人はその景色を眺めていた。
「あちゃー、まだ少し早すぎましたか」
エミリーはコツンと頭に手をやる。
キールはためらいがちにエミリーの手を取り、浅瀬まで進む。
その瞬間、彼の周囲に水が集まり透明な膜に包まれた空間――水のドームが姿を現した。
「え? なにこれ、すごい!」
エミリーは子どものように目を輝かせ、両手を伸ばしてドームを確かめる。
「キールの能力なの?」
「そうだよ。あのあと、発現したんだ」
思い出したくない過去。
けれど今、この力で彼女を笑顔にできるのなら、それだけで救われる気がした。
やがて二人を包んだドームは水底へと沈んでいく。
ゆっくりと海中に潜っていくと、光は幾千もの粒となって差し込み、揺れる魚影が虹のように流れた。
珊瑚が花畑のように広がり、群れを成す小魚が一斉に煌めいて旋回する。
「わあ……! すっごくきれい」
エミリーは声を漏らし、ドームに手を当てたまま外を見渡した。
その横顔は太陽のように明るく、笑みのひとつひとつが水面に光を散らす。
二人だけを閉じ込めた深淵は、息を呑むほど静かで美しい。
「ねぇ……ここ、本当に、私たちしかいないみたい」
エミリーは囁き、こちらを見た。
二人の吐息が水に溶け合い、互いの距離は確実に近づいていく。
深く、深く沈むほど、世界は狭まり、やがて二人だけの宇宙となる。
その瞬間、海は永遠のように青く、二人の鼓動だけが響いていた。
やがて水のドームは浮上し、静かな浅瀬へと戻っていく。
水面から顔を出したとき、すでに夕日は海の向こうへ沈んでいた。
大きな月が海に映り込み、揺れるたびに光が散っていく。
「ここも綺麗でしょ」
エミリーが得意げに微笑む。
「うん。すごく綺麗」
「じゃあ……私は?」
いたずらっぽく問いかけると、エミリーはブラウスのボタンに手をかける。
月明かりに照らされ、外れかけた布の隙間からこぼれる光と熱がエミリーの体温を高くしていた。
「え、エミリーっ!?な、なにしてるの!?」
慌てるキール。
だがその瞬間、大波が岸を打ち、二人まとめて全身を濡らしてしまった。
「うわっ!?」
「もうっ、最悪なんだけど!」
二人はびしょ濡れのまま顔を見合わせ、思わず声を上げて笑ってしまう。
けれど、月明かりに照らされたエミリーの白いブラウスは、濡れたせいで素肌の線をくっきりと浮かび上がらせていた。
キールは、思わず視線を逸らし、慌てて上着を差し出す。
「こ、これ着て……」
「……ありがと」
エミリーは受け取り、頬を赤らめて囁いく。
「……うち、近いからさ。来てよ」
キールの心臓は早鐘を打った。
エミリーのアパート「ハウジング」
二人は部屋に入った。
湿った空気が漂い、窓から射す月明かりがぼんやりと床を照らす。
キールが壁のスイッチを押し、蛍光灯がつく。
だが、すぐにエミリーの指がそれを押し戻す。
ふっと闇が戻り、月光だけが二人の輪郭をかたどっていた。
「エミリー……?」
濡れたブラウスが肩から滑り落ち、しっとりとした音を立てて床に落ちた。
透ける布地から解放された素肌が、月明かりを浴びて白く浮かび上がる
キールは思わず手で顔を覆う。
「さっきから……どうしたの?」
返事の代わりに、エミリーはゆっくりとショートパンツのボタンを外し、滑らせた。
「私ね……ずっと、こうなりたかったの。キールと」
キールの胸は張り裂けそうで、言葉が追いつかない。
「い、いや……まず落ち着こう。風呂に入らないと――」
そう言って背を向けようとした瞬間、手首を掴まれた。
そして、エミリーは何も言わずにキールの掌を、自らの胸元へと導き、濡れた肌の熱が、掌にそのまま伝わる。
「本当はね、海でしたかったの。ロマンチックでしょ?」
赤くなった頬を隠そうともせず、エミリーは小さく笑った。
キールは慌てて手を引こうとする。
だが、両手で包み込むように自分の胸へ押し当てるエミリーの力は、想像以上に強い。
「もっと触っていいんだよ」
月明かりに濡れる瞳は、微笑みと優しさ、そしてどこか抗えない切なさを宿していた。
「私がキールを癒してあげる」
キールの息は乱れ、もう片方の手が宙をさまよう。
その先にあるものを求めそうになった刹那――。
約10日前
キールは病室のベッドで、リリアの話を聞いているはずだった。
だが視線は終始泳ぎ、彼女の顔をまともに見られない。
「ちょっと、聞いてるの?」
リリアが眉間にしわを寄せ、身を乗り出してくる。
「……っ」
至近距離でようやく口を開いたキールは、声を絞り出すように言った。
「リリアさん、その服……」
「え?」
今日のリリアが着ていたのは、深いV字に胸元が交差するカシュクールトップス。
布の隙間からこぼれるように覗くそれは、しっかりとした豊かさを湛えていた。
一瞬で意味を悟ったリリアは、頬を染めて胸元を押さえる。
「キールっ!どこ見てんのよ!」
「逆にどこを見ればいいんですか」
顔を真っ赤にし、片手で目を覆いながら呻くキール。
「こ、これは……そういうデザインなの!私が好きな服だから!」
「すごく似合ってますけど、僕には刺激が強すぎます」
リリアは恥ずかしさと同時に、不意に胸の奥がじんわり温かくなるのを感じてしまう。
「な、なによ!そんな風に言われたら」
そう言いつつも、嬉しさで口元が緩む。
「ま、まぁ……キールなら見てもいいけど」
呟いた次の瞬間、恥ずかしさに耐えきれず、彼の顔をぺしっと叩いた。
「やっぱ無理!今日は帰る!」
「えっ、叩くのは理不尽じゃ……」
抗議するキールを無視し、リリアは顔を真っ赤にして背を向ける。
そんなたわいもないやりとりなのにキールの胸がざわつき続けていた。
現在
キールは思う。
自分はどうしようもなく反応してしまう。
エミリーの胸に触れてしまった瞬間、心臓は破裂しそうなほど高鳴り、全身が熱を帯びた。
それは、死んだはずの大切な人が目の前にいるという現実と、彼女に触れてしまったという事実が重なり、どうにも収めようのないざわめきとなって胸を満たしていた。
ケントを巡るリリアとの衝突を経て、彼女という存在を捨てたはずだった。
しかし、いつも思い出すのはリリアとの、たわいもないやり取り。
何気なく彼女の服装に目を奪われ、叱られ、赤面して、理不尽にされるビンタ。
そこにあったのは、命を懸けた戦いや奇跡ではなく、ただの「日常」の温度。
エミリーの存在は過去から蘇った奇跡。
リリアとの時間は今を生きる現実。
そのどちらもが、キールの胸を掻き乱す。
それでも。
どうしても、その一線を越えることができなかった。
ゆっくりと手を離し、声を絞り出す。
「ごめん、エミリー。できない」
「どうして?私じゃ、ダメなの?」
揺れる瞳で問いかけるエミリー。
「そういうわけじゃなくて」
キールは手を握りしめる。
「僕は……自分の気持ちがはっきりしないままこういうことはしたくないんだ」
「そっか。ごめん、私が急ぎすぎたんだね!また、祭りで会おうね!」
軽やかにそう言ったが、笑みの裏には抑えきれないなにかが覗いていた。
キールはその笑顔を信じるように頷き、静かに背を向ける。
サイラスの家へと帰っていく。
エミリーの家を振り返ることはなかったが、何度もリリアとの記憶が振り返ってしまっていた。
残されたエミリーは、部屋の暗がりで濡れたブラウスを壁に叩きつけて呟いた。
「避けられないのかな...」




