第24話『オレンジ・日夕食』
五年前
「エミリー!ジェフ!やるぞ!」
ケントの声に、みんなで庭へ走り出る。
現れた少年は、驚くほど整った顔立ちだった。
エミリーは視線を合わせられず、ただ小さく頷く。
やがて四人でバドミントンを始め、笑い声と羽音が庭に弾む。
しばらくしてケントとジェフが施設の用事で戻り、庭に残ったのはキールとエミリーだけ。
天真爛漫なはずのエミリーも、この時ばかりは言葉を見失っていた。
沈黙が怖くて、勇気を振り絞る。
「あなたのお名前、なんて言うの?」
エミリーは少しキールに歩みを寄せて言う。
「キーレスト・ウォルターズ」
「キーレスト君。私、エミリー!よろしくね」
「うん……よろしく」
ぎこちない距離。
エミリーは何かを埋めるように続けた。
「それにしても、苗字があるの、珍しいね」
「苗字ないの?」
キールは不思議そうに聞く。
「ここの研究室にいる子は、みんな苗字はないよ。だから、キーレスト君は特別だね」
「そうなのかな」
下を向き、ほんの少し影を落とすキール。
キールが俯いたその瞬間、胸の鼓動が理性を追い越す。
気づけば、頬に軽い音が響く。
――チュッ。
「えっ!? なにっ!? 」
驚きで声を上げるキール。
「わかんない……」
エミリーは頬を赤らめ、指先をもじもじといじる。
「嫌だったよね」
まるで時間が止まったように、二人はただ見つめ合う。
名前のつかない気持ちが胸いっぱいに膨らみ、どうしようもなく溢れ出していた。
戻ってきたケントが、ぽかんと立ち止まる。
「なにやってんの、お前ら?」
戻ってきたケントが固まり、二人は弾かれたように振り返った。顔は真っ赤に染まったままだった。
「お見合いじゃねぇんだから、早く行くぞ」
呆れ混じりの表情をするケント。
その後、三人は研究所へと戻る。
分棟で暮らすエミリーとケントに別れを告げる前、キールは勢いで口を開いた。
「ケント君、今日はありがとう。それと…」
視線を落とし、頬を赤く染めながら言う。
「エミリーちゃん、さっきの、嫌じゃなかったよ」
首の後ろをかき、照れくさそうに俯くキール。
胸の奥から喜びが湧き上がり、エミリーは花みたいに笑った。
「にひひ……じゃあ、またしてあげよっかな~」
エミリーが小悪魔みたいに言うと、キールは耳まで真っ赤になった。
「またね!キーレスト君!」
離れていく背中に、花のような笑みが残った。
これが二人の“はじまり”。青くて、尊い感情の芽吹きだった。
現在
海辺に立ち尽くすキールの前に、ありえない光景が広がっていた。
確かにこの手で息を引き取ったはずのエミリーが、目の前に立っている。
ノースリーブの白いワンピースに、耳元には赤いハイビスカス。
ゆるふわのオレンジ色のボブは、海風にさらわれるたびに揺れる。
そばかすは化粧で隠され、その面影は美しく――それでも、彼女の笑顔は昔のままだった。
「ちょっとキール、驚きすぎ! 私だって驚いてるんだから!」
はしゃぐ声は懐かしい調子だった。
「えっ、それって……どういう」
キールの言葉を遮るように、エミリーはふっと笑って抱きしめた。
「ずっと会いたかった」
キールは震える声で問い返す。
「エミリー……君は、死んだはずじゃ」
すると、彼女は抱擁を解き、目を伏せながら小さくつぶやいた。
「たしかに、あの時は死んだよ。
でもね、目を覚ましたらこの街のベッドの上だったの」
「どういうこと?」
「私にも、わからないの。
研究所は燃え尽きて、辺りには何も残ってなかった。だから……てっきり、キールも死んでしまったんだと思ってたの。
生きててくれて、本当に良かった」
頬を伝う涙が、彼女の美しさをいっそう際立たせる。
再会の喜びは確かにここにある。
けれどその裏に潜むものは、まるで“歪んだ奇跡”のようだった。
「あの時の約束、まだ覚えてる?」
エミリーの問いに、キールはしばし沈黙した。
そして静かに、確かめるように答える。
「……覚えてるよ」
エミリーは子どもみたいに跳ね、嬉しさを隠しきれない。
「これからは、ずっと一緒だよ!」
だが、キールの瞳は揺れていた。
「どうしたの?さっきから浮かない顔して」
キールは一度目を閉じ、深く息を吸い込む。
エミリーに胸の内を打ち明けた。
ケントのこと、迫る問題、この先のこと。
エミリーは唇を噛みしめ、こぼれそうな涙を必死に堪えた。
「そっか……キールはすごいね。私はここで暮らして、そんなことも知らなかった」
キールは涙目でエミリーを見つめる。
「でも、エミリーが無事で本当に良かった。だから、もういなくならないで」
キールは思わず抱きしめた。
「ちょっ……キール!?」
「ケントは助けられなかった。だから、エミリーだけはもう二度と、失いたくない」
頬を濡らす涙。
その必死な想いに、エミリーは静かに微笑み返した。
そして、彼の背に腕を回す。
「いなくならないよ。だって……“ずっと一緒”って、あの時約束したじゃん」
夕日は完全に落ち、夜の帳が訪れる。
だが、二人の抱擁の中にだけは、確かな温もりと光があった。
キールはその奇跡を“現実”として受け止めた。
もう二度と、この手から彼女を失わせはしないと心から誓った。
そう誓った瞬間、胸の奥にリリアの笑顔がよぎる。
笑って、拗ねて、寄り添ってくれた日々。
キールはさらにエミリーを強く抱きしめた。
「キールっ、夕ご飯食べた?」
エミリーがいたずらっぽく笑いながら問いかける。
「まだだけど」
返すと同時に、エミリーの瞳がきらりと光った。
「じゃあ、私が作ってあげる!」
胸を張って腰に手を当てる仕草は、どこか子どもの頃と変わらない。
レンジタウン・ダイナー「トフェイス」
「店長!早く!キール、お腹空いてるんだから!」
エミリーはバイト用のエプロン姿で、キールの隣に座りながらテーブルをドンドン叩く。
「おいおい。お前、今バイト中だろうが。なんで客と同席して注文してんだ」
店長が苦い顔でぼやいた。
「いいじゃないですか〜!どうせこの時間はお客さん、他の店に取られてるし。バイト代から引いといてください!」
エミリーの勝ち誇った笑顔に、店長はため息をついてキッチンへ。
「ここの料理ね、意外とイケるんだよ」
エミリーが得意げに言うと、店長の怒号がキッチンから飛ぶ。
「意外とはなんだ!絶品だ!」
やがてテーブルに置かれたのは、熱々のガーリックシュリンプライス。
一口頬張れば、バターのコクとガーリックの刺激が口いっぱいに広がり、噛むたびに海老の甘みが弾けた。
そのおいしさに、もぐもぐと夢中で頬張るキール。
「ちょっと!そんなに頬張らなくても、なくならないよ!」
エミリーが声を上げて笑う。
「だって、めっちゃ美味いから!」
キールも口いっぱいにしながら返す。
二人は顔を見合わせて、声を立てて笑った。
「しかし、驚いたな。エミリーが男を連れてくるなんて」
店長のひと言に、エミリーの肩がピクッ。
慌てて首を振るが、店長は口を止めない。
「この子はウチの看板娘だからな。助かってはいるが……言い寄る男が後を絶たなくてな。全部きっぱり断っていたんだよ」
エミリーは口をもぐもぐと動かしながら、視線を皿に落としたまま固まっていた。
「それがこんな美少年を連れてくるとは、隅に置けないな!」
「――もうっ!余計なこと言わないでよ!」
真っ赤になって抗議するエミリー。店長は肩をすくめてキッチンへ消えた。
テーブルに残されたのは、頬をふくらませて怒っているエミリーと、苦笑を浮かべるキール。
「みんなさ、私の顔と胸しか見てないんだよ、もう」
ぷくっと頬を膨らませる横顔は可愛らしい。
ノースリーブのワンピースの下では、五年前には影すらなかった場所が、今でははっきりと存在を主張していた。
布地が形を描き、自然と目が吸い寄せられてしまう。
視線を上げると、エミリーが顔を真っ赤にして睨んでいた。
「……見たでしょ」
「ご、ごめん! いや、その……前と違いすぎて、なんというか……」
キールは必死に言い訳を探す。
エミリーは椅子をぎゅっと引き寄せ、顔を近づける。
「なんというか、なに?」
至近距離の視線に、キールは観念したように照れて言う。
「全部、すごく……成長してて、いいと思う」
「ぷっ……!」
エミリーは吹き出して笑った。
「なにその言い方! おじさんみたい!」
元の場所に戻り、髪をくるくるしながら笑顔を見せる。
「私だって、もう女性ですから。そりゃあ魅力的にもなりますよ。でも――」
とびっきりの笑顔で続けた。
「キールは、ちゃんと内面を見てくれたもんね」
思いがけない言葉に、キールは一瞬言葉を失う。
「まぁ、その上で外見も伴うと私は思いますけど!」
ふんっと胸を張り、鼻息も荒くムッとする。
その仕草に、キールは思わず笑みをこぼす。
(全部を忘れて、ここで暮らすのも悪くないかも。
エミリーとなら、僕はまた幸せになれるのかもしれない)
まるで昔の延長線に戻ったかのような、ありふれた日常のひとコマ。
キールは、そのささやかな日常を大事に抱きしめた。




