第17話『今との訣別』
7年前(2023年)
「なぁ、キーレスト。お前エミリーのこと、好きだろ?」
突然の直球に、キールは顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「そんなんじゃないよ! エミリーとはただの友達だよ」
ケントはニヤリと口角を上げ、わざとらしく首をかしげる。
「ふーん。じゃあ俺、好きだから告白してもいいよな?」
「ダメ!」
即答するキールに、ケントはますます面白そうに笑う。
「なんでだよ?」
茶化すように言いながら、肩で笑った。
その時だった。
「キール!」
明るい声が響き、エミリーが小走りで駆け寄ってくる。両手にはラップに包んだクッキーがあった。
「これ、余ったからあげる!」
満面の笑顔とともに差し出される焼き菓子。
その天真爛漫さは、いつだって眩しくて、キールの胸をドキリとさせた。
「ありがとう」
受け取ったキールは視線を逸らし、耳まで赤くなっている。
エミリーは首を傾げ、不思議そうに笑った。
「ねぇ、何の話してたの?」
ケントは意地悪そうに目を細める。
「それがさ、キーレストのやつ」
キールは慌ててケントの口を両手で押さえる。
「何でもないから!」
「何でもないわけないでしょー。教えてよー!」
エミリーはさらに追及し、キールの頬を軽くつつく。
三人のじゃれ合いは、笑い声とからかい声が絶えず続いた。
気がつけば、夕暮れが窓を染める頃になっても、その攻防は終わらず結局、夕食の時間まで賑やかに続いたのだった。
現在
ケントはしばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて泣き止み、鼻をすする音だけが残った。
ズビズビと情けない音を立てながら、袖で慌てて拭う。
「……立てる?」
キールがそっと声をかけ、手を差し伸べる。
ケントは少し躊躇した後、その手を掴んだ。
キールはもう片方の手を肩に添え、二人はゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、キーレスト」
ケントは苦笑しながら言った。
「ほんと、エミリーが惚れるわけだ」
わざとからかうような声に、キールの頬が赤く染まる。
「またその話。ほんと飽きないね、ケント」
「だって、本当にお似合いだったからさ」
ケントはふと顔を上げ、空を仰ぎ見た。
群青に滲む雲が流れ、どこか懐かしい色を帯びていた。
「生きていたら。俺たち、今頃四人で学校とか行ってたのかな」
その言葉に、キールは視線を落としたまま答える。
「……うん」
二人の間に、短くも深い沈黙が流れる。
それは失ったものを想う哀しみであり、同時に“もしも”を夢想する淡い願いだった。
その隣で、ワイスがじっとキールを見上げていた。
瞳が揺れ、尻尾が切なくも力強く左右に振れる。
「クゥゥゥン……」
その鳴き声に、キールはワイスの頭をそっと撫でた。
「ワイス、リリアさんたちを頼む」
ワイスは首を傾げ、次の瞬間、キールの袖を強く噛んで引っ張った。
その姿にキールは目を伏せ、ゆっくりと首を振った。
「ワイス決めたことなんだ。僕はもう、一緒にはいられない」
「クゥゥゥン」
低い声が漏れる。
寂しそうに耳を伏せるワイスの背が、小さく見えた。
「この先もワイスなら、乗り越えられる。
だって自分の過去を、自分の力で超えたんだから」
その言葉に、ワイスはゆっくりと顔を背けた。
未練を残すように尾を垂らし、リリアの方へと歩いていく。
ケントはそんな二人を見て、顔を歪めた。
罪悪感に押し潰されるように目を伏せ、声を震わせる。
「良かったのか。俺なんかのために」
キールは一拍の沈黙のあと、静かに答える。
「良くないことは、わかってる」
その言葉にケントは目を見開いた。
驚きと、理解しきれない感情が胸に突き刺さる。
「だとしても……僕はケントの味方でいたい。
もう二度と失いたくないんだ」
ケントは言葉を失った。
笑みともつかない表情で、ただキールを見つめ返す。
ワイスは前足でリリアの体を必死に押していた。
「クゥン!」
その必死な仕草に、リリアはうっすらと瞼を開ける。
「ん......ここ、どこ?」
視界に映ったのは、目の前でじっと見守るワイスの姿。
その視線の先には、少し離れた場所で立ち去ろうとするキール。
「キール?」
呼びかけた瞬間、リリアの脳裏に直前の出来事がよみがえる。
すかさず立ち上がった。
「キール、待って!どこへ行くの!?」
張り裂けそうな声。
その叫びに、キールの足が一瞬止まり、思わず後ろを振り返ってしまう。
目が合った。
困惑に揺れるリリアの瞳と、すでに決別を覚悟したキールの瞳が交差する。
キールは、静かに言った。
「誰も知らないところに」
「え……?」
リリアの声は震えた。
キールは胸の奥から絞り出すように続ける。
「リリアさん、彼は友達です。
僕は彼と一緒にいるって、決めました」
その言葉に、リリアの心臓が冷たく締め付けられる。
「私も友達じゃ、ないの?」
声が掠れ、必死に縋るように続ける。
「いやだよ……私、キールと一緒にいれたら変われるって思ったの。
だから行かないでよ!」
涙に滲む声。
だがキールは優しく微笑み、揺らがなかった。
「大丈夫です。リリアさんは僕なんかいなくても、変われます」
笑顔と言葉は優しい。
けれど、その瞳はどこか遠くを見ていて、リリアに向けられてはいなかった。
距離はほんの数歩。
けれど、その一歩は永遠に縮まらない。
二人の間には、高くそびえる見えない壁があった。
リリアは呆然と立ち尽くし、視線を地面に落とした。
胸に広がるのは、冷たい絶望。
(キールは私に心を開いてくれていない。
いつもそうだった。笑っていても、優しくしてくれても——その奥には、届かない壁がある。
どれだけ仲良くなれたと思っても、大事なことはいつも言ってくれない。
どうして……どうしてなの?)
キールは振り返らず、前へ進む。
だが、その背中に温もりが押し寄せた。
リリアが駆け寄り、彼の背に額を押し当てた。
「……行かないで。ひとりにしないで」
小さな声が震え、キールの胸を深く突き刺す。
足が止まり、呼吸が乱れそうになる。
「何度も言いますけど、これは僕の問題です。
リリアさんやアウローラに、これ以上迷惑はかけられません」
その言葉に、リリアは唇を震わせた。
「かけてよ、迷惑! 私も一緒に背負うから!」
その必死さに、ケントの瞳がわずかに揺れる。
ケントはキールの横顔を見つめ、浮かない表情をする。
キールは振り返り、リリアの肩を掴む。
彼女の瞳を真正面から見据え、冷静に言い放つ。
「ごめんなさい。だとしても、これ以上リリアさんとはいられない。
あなたには……荷が重い」
リリアは息を呑んだ。
一瞬、何も言えず、次いで強張った声を吐き出す。
「やっと、本音を言ってくれると思ったら。
“私じゃ無理”なんて……」
歯を食いしばり、悔しさに声を震わせる。
「決めつけないでよ!」
その瞬間、キールも堰を切ったように叫ぶ。
「ケントをここで逃せば、アウローラに追われる!
そしてケントに命令した“何者か”にも追われることになるんだ!」
「だったら、アウローラに保護してもらえばいいじゃない!」
リリアの叫びは必死の願い。
「アウローラにいたら、ケントを狙う敵に巻き込まれて、みんなが危険にさらされる!それに隊員を殺したケントを保護するわけないでしょ!」
キールの声は、張り裂けるほどの苦悩を滲ませていた。
「じゃあ、なんでそこまでして彼を庇うの!?」
リリアの問いかけは、怒りと悲しみが混ざっていた。
キールの瞳が揺れ、拳が震えた。
そして、ついに心の奥底をさらけ出す。
「……失ったと思ったんだ」
低く絞り出す声。
ケントの視線が横に流れ、静かにキールを見つめる。
リリアも初めて見るキールの感情に、思わず息を呑んだ。
「僕と……この能力のせいで、何もかも失ったと思った。
ずっと、ずっと苦しかった。
でも……ケントは、生きていてくれた!
あなたにとっては、人殺しかもしれない。
でも、僕にとっては二度と失いたくない、大切な親友なんだ!」
言葉とともに、涙が頬を伝い落ちる。
キールは声を張り上げた。
「どんなことがあっても、絶対にもう失いたくないんだ!」
友の罪、想いも、すべてを抱え、避けられない運命に立ち向かう覚悟の声だった。
リリアの脳裏に、数えきれない瞬間が一気に溢れ出した。
(玄関での出会い。
病室での何気ない会話。
ドーナツを分け合って笑った、あのひととき。
空から突き落とされた時、助けてくれたあの瞬間……)
そのすべてが胸を締め付ける。
リリアは声を絞り出した。
「……行きなよ。
キールの気持ち、わかったから」
キールは目を見開き、勢い余っていったことを後悔する。
「リリアさん……ぼくっ」
「いいから行って!」
リリアの声が鋭く遮った。
背を向けたまま、拳を強く握りしめている。
その肩は震え、必死に立ち続けているのが伝わった。
ケントがその姿を見つめ、静かに言う。
「すまない、ありがとう」
キールは唇を噛み、ケントを背負い、足裏に水を噴射させる。
蒼い飛沫が弧を描き、二人の姿は夜空へと舞い上がった。
残されたリリアは、その場で膝を折った。
耐えていたものが一気に崩れ、涙で視界が滲む。
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
押し殺してきた涙が、大粒となって頬を濡らす。
嗚咽は叫びとなり、胸の奥から絞り出される。
(ふざけんな、キール!
こんな気持ちになるくらいなら、なら……!
あんたなんかに、会いたくなんてなかった。
いっそ……あの時、助けてくれなければ)
「助けたなら、責任とってよ...」
夜空を駆ける水の軌跡は、もう遠ざかっていく。
リリアの叫びも涙も届かず、ただ静寂と絶望だけが彼女を抱きしめた。




