第11話『心友と怪物』
2024年1月5日
ワイスはお座りして腰を下ろし、窓の外の森をじっと見つめていた。
だが、二か月ものあいだ、そこへ足を踏み入れることは許されていない。
「くぅぅぅん」
低く、寂しげな声が漏れる。
その声に気づいて、ドリエルが隣に座り込んだ。
「外、出たいよね。私も、本当はワイスと一緒に思いきり遊びたい」
ぽつりとつぶやくと、ワイスは一瞬だけ尻尾を揺らし、笑ったような顔を見せた。
その仕草に胸が締め付けられたドリエル。
「あと、もうちょっとの辛抱だからね」
「ワン!」
嬉しそうに返事をするワイス。
その後、ワイスは庭で用を済ませると、そのまま森の方を振り返った。
「ワンッ! ワンッ! ワンッ!」
「ワイス......?どうしたの?」
ドリエルは慌ててその視線を追う。
森の闇に、淡く光る何かがふわりと浮いていた。
「もしかして、妖精さん?」
息を呑むドリエルの声は、興奮と期待が入り混じっていた。
ワイスはなおも吠え続ける。
「やっと......会えたんだ」
ドリエルの胸に溜まっていた五年間の思いが溢れ出す。
理性よりも願いが勝ち、彼女は駆け出してしまった。
ワイスも吠えながら追う。
二人は雪を蹴り立て、森の奥へと消えていった。
ドリエルの家は村の端にあり、森まではほんの数歩の距離だった。
その姿を、遠くからグラスコが見ていた。
闇に沈む目の奥で、不敵な笑みを浮かべていた。
ドリエルは必死に走るが、小さな足では追いつけない。
「このままじゃ、見失っちゃう」
すると、ワイスは低く吠え、次の瞬間には大きなオオカミの姿に変わり、身をかがめる。
ドリエルは迷いなくその背にしがみついた。
風を切り裂いて、二人は森を駆け抜ける。
だが、追いついたはずの“妖精”の光は、唐突に霧のように掻き消えてしまった。
「あれ...どこに行ったのかな、妖精さん」
見たものは幻想だったのか、それとも現実だったのか。
二人の胸に答えは残されず、ただ雪明かりだけが淡く地面を照らしている。
マーサとの約束を破ってしまったドリエルは罪悪感を感じながら、妖精探しを切り上げた。
「帰ろう、ワイス。今日はお祖母ちゃんが魚のソテー作ってくれるんだよ」
彼女は無理やり笑顔を作ってそう言った。
ワイスも小さく吠えて応える。
二人は並んで家路についたが、その足取りの後ろに、薄暗い森の気配だけが重くまとわりついていた。
家の近くまで来ると、目の前の光景にドリエルは驚いた。
家の方角から、赤い炎が空を突き破るように上がっている。
「お祖母ちゃん!」
ドリエルは叫び、雪を蹴って駆け出した。ワイスもその後を必死に追う。
息を切らして玄関を飛び込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
床にはおびただしい血が広がり、その中心にマーサが正面から倒れていた。
背中には深々と刃物の跡が刻まれ、衣服は真っ赤に染まっている。
「いやぁぁぁぁーーーっ!!お祖母ちゃん!!」
ドリエルは喉が裂けるほどの声で駆け寄る。
肩を揺すり、何度も呼びかけるが、その瞳はもう何も映していない。
「どうして......私が、外に出たばっかりに」
「お祖母ちゃん、お願い......まだ話したいこと、いっぱいあるのに」
嗚咽混じりの声が震え、床に落ちる涙が血と混じる。
「ワンッ!!」
ワイスが鋭く吠えた。ドリエルが顔を上げると、背後に影が迫っていた。
振り返った瞬間、鈍器が振り下ろされる。
「――っ!」
間一髪、ワイスが飛び出し、その手首に噛みついた。
「ぐっ...うぅっ!」
呻きながら手を押さえるグラスコ。その顔は歪んだ笑みと狂気に染まっていた。
「グラスコさん、なんでここに」
恐怖で声を震わせながらも、ドリエルは問いかける。
「うるさいガキだねぇ......全部はその獣の仕業だよ」
濁った声とともに、血走った目がワイスに突き刺さる。
「ワイスは何もしてない!」
涙で濡れた頬を強張らせ、ドリエルは必死に叫ぶ。
だが、グラスコは狂気のままに嗤った。
「いや、やってるね。村を乱したこの騒ぎ、全部その怪物のせいだ!」
「なにを根拠に...!」
震える声で食い下がるドリエル。
「おだまりィィィィィィ!!」
怒声が狭い室内を震わせ、口の端からは泡混じりの唾が垂れる。
グラスコは痛む手を押さえながら家を出た。
顔は苦しみでゆがみながらも、どこかわらっている。
まるでこの惨状こそ望んでいたかのように。
室内に取り残されたドリエルは、崩れ落ちたままマーサの亡骸にすがりつき、涙を溢れさせる。
「お祖母ちゃん......!」
ワイスはそっと寄り添い、ドリエルの頬へ大きな頭をすり寄せた。
温もりだけが、かろうじて彼女を現実につなぎとめている。
「ワイス......」
その時、壁や床を這う炎が一気に広がり、家の中に火の手が迫った。
ドリエルははっと顔を上げる。
「早く出ないと!」
立ち上がろうとした瞬間、乾いた破裂音とともに右足の太ももに鉛の衝撃が叩き込まれた。
「ぎゃ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」
灼け爛れるような痛みが走り、足から崩れ落ちる。
肉が裂け、熱を帯びた血が一気に噴き出し、床板を真っ赤に染めていく。
ドアの向こうでは、燃え盛る家を背に、銃を撃った張本人のグラスコが不気味に口角を吊り上げていた。
その下卑た笑みを見たワイスは怒りに吠え、飛びかかろうとする。
しかし、崩れ落ちる梁と炎の壁が行く手を遮り、ワイスは歯を剥き出しにして唸るしかない。
その隙にグラスコは、まるで芝居でもしているかのように大げさな身振りで村へ駆け出し、わざとらしい悲鳴を張り上げた。
「おおごとになっとるぞぉぉ!みんなぁぁぁっ!」
さらに、油を撒かれていた床から火柱が立ち上がり、瞬く間に炎は家全体を包み込む。
ドリエルとワイスの周囲は、赤い海に閉ざされていった。
ドリエルは激痛に顔を歪めながら、片足で必死に立ち上がろうとする。
だが足は思うように動かず、押し寄せる煙が容赦なく肺を焼いた。
「げほっ……げほっ……あ゛っ……!」
咳き込みながら前に進もうとした瞬間、力尽きて床に崩れ落ちる。
熱と煙に包まれる中、ドリエルの視界はゆっくりと白く、ぼやけていった。
「ワ……イ……ス……」
かすれた声で名を呼ぶと、傍らでワイスが悲鳴のような吠え声、ドリエルの服を牙でくわえて必死に引きずろうとする。
「ワイス……あなたがいてくれて……わたし、ほんとうに……楽しかった……」
震える声に、ワイスは困惑したように目を見開き、低く唸りながら彼女の顔を舐め続ける。
「この一年……すっごく幸せだったの。隣に、いつも……あなたがいてくれたから……」
ドリエルの涙が赤く染まった床板に吸い込まれていく。
ワイスは必死に吠え、押し、引きずろうとした。爪が床を掻き、木が削れる音が響いた。
だがドリエルの体は、もう動こうとはしない。
「私たちは……無敵だったね……どんなに辛いときも、一緒にいれば……怖くなかった……」
声は次第に細り、途切れになる。ワイスはそのたびに短く吠え、励ますかのように必死に舌で顔を舐める。
「……もし、また……次に会えたら……」
そこで言葉は途切れた。
ドリエルは目を閉じ、微笑んだまま最後の涙を一滴だけ零す。
ワイスは耳を伏せ、低く長い声で吠えた。服をくわえ、引っ張り、肩を前足で押す。
それでも何の反応も返ってこない。
「ワ゛ウ゛ゥ゛ゥ゛ン゛!!」
叫びは虚しく炎と煙に飲まれていく。
胸の奥を裂かれるような慟哭は、崩れゆく轟音さえかき消すほどだった。
それでもワイスは諦めなかった。
炎に包まれる中、ドリエルの服をそっと咥え、必死に引きずるようにして出口を探す。
鼻を焦がす煙。熱気に視界は霞み、どの道も炎に閉ざされていた。
「ワンッ!」
決意の吠え声とともに、ワイスは己の身を大きなオオカミの姿へと変える。
ドリエルをくわえ、火の海を突き破ろうとした、その時――。
「うわっ!」
崩れた戸口から飛び込んできた村人がいた。
その目に映ったのは、血に染まった床に横たわるマーサの亡骸と、口にドリエルをくわえた巨大なオオカミの姿だった。
「あいつだ!」
叫びが家中に響いた。
「シュバルツはあの化け物だ! マーサさんを殺して、ドリエルまで連れ去ろうとしている!」
その声は、恐怖と怒りにかられた群衆の心に火をつけた。
「やっぱり元凶はあいつだったんだ!」
「村に災いをもたらしたのはあの獣だ!」
まるで集団ヒステリーのように、ありもしない罪が次々と声に乗せられていく。
猟銃の銃口が次々と向けられ――轟音とともに火花が弾け、鉛の雨がワイスに襲いかかった。
「キャンッ!」
鋭い悲鳴が上がる。
ワイスの体が大きくのけぞり、ドリエルを床へと落としてしまう。
必死に立ち上がり、再び少女をくわえて逃げようとするが――。
「逃がすな! ドリエルは渡さない!」
怒号とともに、さらに銃弾が撃ち込まれる。
「……っ!」
白銀の毛が赤く染まり、ワイスの体は力を失い、床に崩れ落ちた。
炎の赤と、流れる血の赤が重なった。
倒れたワイスに、村人たちは一切の容赦なく駆け寄った。
火を消しながら、罵声を浴びせ、縄をかけ、複数人がかりでその四肢を押さえつける。
「こいつはいつ暴れるかわからん! 絶対に逃がすな!」
「この村のために、鎖で縛れ!」
呻き声ひとつ出せず、元の小さなサモスキーの姿へと戻ったワイスは、抵抗もできないまま引きずり出されていった。
その瞳だけは、燃え盛る家の中に取り残されたドリエルを探すように、最後まで必死に揺れていた――。
鎖に繋がれ、数人がかりで押さえつけられたワイスは、なおも体をねじり暴れた。
背に食い込む銃創の痛みなど構わず、四肢をばたつかせる。
「ガアァァッ!!!」
声は咆哮というより悲鳴に近かった。
「クゥゥゥゥン」
それは助けを呼ぶ声ではない。
ただひたすらに、大切な存在を呼び戻そうとする声。
しかし、家はついに大きな音を立てて崩れ落ちた。
火の粉が宙に舞い、赤く照らされる中で、ドリエルの影はもう見えなかった。
ワイスは目を伏せ、涙を流した。
家の外へ出る。
炎の赤に照らされたグラスコの口元は、わらうように歪んでいた。
小声で吐き捨てる。
「ざまぁないね.....所詮、低能には何もできやしないさ。あばずれのマーサも、気狂いのドリエルもね」
次の瞬間、グラスコはわざと声を張り上げた。
「この獣がいたせいで、すべてがこうなったんだ!」
その一言が火種だった。
群衆は一斉にどよめき、疑心と恐怖が憎悪に変わる。
「そうだ!」
「災いを招いたのはマーサとドリエルだ!」
「その獣こそシュバルツの元凶だ!」
「村を守れ!あいつを駆除しろ!」
声が重なるたび、空気が濁っていく。
怒声、嘲り、罵倒。誰も確かめようとしない。ただ盲目的に、ひとつの敵を欲していた。
ワイスは鎖に縛られたまま、炎と罵声の渦に取り残される。
声に怯えながらも、必死にドリエルの名を呼ぶように、甲高く短い声を漏らした。
「クゥンッ.....!」
それでも群衆は止まらない。
「殺せ!」の合唱が夜を満たし、悪意が雪よりも冷たくワイスを覆った。
その瞳から一筋、透明な涙が流れ落ちる。
やがて、現場に駆け付けた特殊部隊と警察によって、ワイスは力なく捕らえられていった。
その後、体力が戻り、オオカミに変身して拘束車の鉄を引き裂き、鎖を砕き、ワイスは森を駆けた。
雪を蹴り、血の匂いを振り払い、ただひとつの場所へ。
ドリエルの家。
ひっそりと潜り込むように辿り着く。
だが、そこに彼女の姿はもうなかった。
焼け跡に残る煤と、冷えきった静寂だけが答えだった。
ワイスは空を仰ぎ、雄たけびを上げた。
その声は悲しみと怒りが混ざり合い、夜空を裂いて山々にこだました。
その夜、村長は原形を留めぬ体となって発見される。
翌日も、その翌日も、村では殺人と失踪が繰り返された。
やがて人々は恐怖に耐えきれず、ヒンレル村を捨てていった。
雪に覆われた家並みは、誰も住まぬ廃墟へと変わる。
人の憎悪と悪意が澱のように積み重なり、村そのものが怪物に呑み込まれたようだった。
ワイスは知った。
心友だったドリエル。
優しく撫でてくれたマーサ。
そのすべてを奪ったのは、「怪物」と呼んでいた人間自身であることを。
自分が怪物になったのか。
それとも、人間の方が先に怪物だったのか。
その境界はもう分からなかった。
ただ一つ確かなのは、彼が再び一人になったということ。
白銀の森に残されたのは、彼の吐息と、心に刻まれた深い爪痕だけだった。




