第10話『妖精とシュバルツ』
「ワイス!見つけた?」
ドリエルは漫画の探検家のような格好をしている。
大きなリュックに虫取り網まで背負い、森をきょろきょろ見回す。
「ワン!」
返事をしたワイスは、すぐそばの川にしゃがみこみ、冷たい水をペロペロ飲む。
主人の問いかけなど気にしていない様子だった。
季節は春。雪はすっかり解け、ドリエルの足の怪我も治っていた。
「今年こそは妖精さんを見つけるんだから!ねっ、ワイス!」
鼻息荒く拳を握るドリエル。ドリエルの妖精探しはもう5年目。
「ワァウ!」
ワイスはその場でくるくる回りながら吠えた。
「応援してるよ!」と言いたげに、しっぽをぶんぶん振る。
その日も朝から晩まで森を探し回り、家に着く頃には二人とも足取りもふらふら。
床に背中から倒れこみ、まるで鏡写しのように同じ格好で寝転がる。
「今日も...成果なし。もう二週間だよ?そろそろ見つかってもいいはずなのに……」
頬に土をつけたまま、虫取り網を握りしめてドリエルがぐったりつぶやく。
「くぅぅぅん」
隣でワイスも小さく鳴き、首をかしげた。
それを見ていた祖母のマーサは、静かに笑みをこぼす。
「うふふ」
「おばあちゃん、笑い事じゃないよ!」
ドリエルはむっとした顔で立ち上がる。
「5年間、1回も会えないなんておかしいもん!!」
ドリエルは5年前、森で遭難したときに妖精に導かれて帰れたという。
「ワンワン!」
横でワイスも勢いよく吠えて、主張に同調する。
二人そろって詰め寄る姿に、マーサはますます目を細めた。
「あらあら、ごめんなさい。でも、ドリーは見たのよね。妖精さんを」
「そう!見たの!」
きらきらした目で叫ぶドリエル。
「それに、お話もした!」
「それはすごいことね。もう一度、会えるといいわね」
優しく答えたあと、マーサは声の調子を変える。
「さ、二人とも。ご飯だから体を洗ってらっしゃい」
「うん!」
「ワン!」
息ぴったりの返事で、二人は競うように風呂場へ走っていく。
泥と草を洗い流し、ワイスが全身をブルブルッと震わせると水しぶきがドリエルの顔に飛んだ。
「ちょっと!やめてってば!」
ドリエルは笑いながら抗議し、ワイスは嬉しそうに舌を出す。
そして夜。
三人で食卓を囲む。あたたかな明かり、香ばしいスープの匂いと、パンをちぎる音。
それはワイスにとって“帰る場所”の匂いとなり、かけがえのない日常へと変わっていった。
2023年10月20日
ヒンレル村では、この地を切り拓いた祖先へ感謝を捧げる「イコカノル祭」が開かれていた。
村の広場に火が灯り、夜空に花火が咲き誇る。
人々は伝統衣装をまとい、笑い声と歌声が響く。
ドリエルと祖母マーサも、古風な衣装で広場へ足を運ぶ。
隣には、妙な虫のカチューシャをつけられたワイス。
その姿に子供たちはくすくす笑い、ドリエルも満面の笑みを浮かべていた。
「楽しいね、ワイス!」
「ワン!」
火を囲む輪の中で、二人は心からはしゃいでいた。
そのとき、低い声が空気を切り裂く。
「ドリエルちゃん...」
振り返ると、そこには村の長・グラスコの姿があった。
深いしわが刻まれた顔。杖を握る手には、苛立ちがにじんでいる。
「その......ワイスを連れてきちゃだめじゃないか」
抑えた声ながら、棘があった。
「どうして?」
無邪気に首をかしげるドリエル。
「ほら、なにをするかわからないだろう」
人々の笑い声の中で、グラスコの言葉だけが冷たく響く。
さっきまで弾んでいたドリエルの表情に、影が落ちる。
「ワイスは、この村に来てから何もしてないもん!」
ドリエルは思わず声を荒げた。
「むしろ、問題を起こしてるのはグラスコさんの方でしょ!」
声は震えていたが、怒りに突き動かされていた。
「その口の利き方はなんだい!」
グラスコの目が見開かれ、かすれた声が怒号へと変わる。
「だいたい、マーサが偉そうに村を仕切るからこうなるんだ!」
その豹変ぶりに、ドリエルは一歩退く。
振り上げられた杖がドリエルに振り下ろされようとした。
「っ!」
間一髪、ワイスが飛び込み、杖をくわえて力任せに奪い取る。
ドリエルは息を呑む。
その時だった。
「あぁぁーーーっ!!」
グラスコが甲高い悲鳴を上げ、痛みに悶えるように手を押さえる。
火を囲み、踊り、食べ、笑っていた村人たちが、一斉に振り向いた。
どよめきが広場を包む。
「どうしたんだ?」
「グラスコさん!?」
「何があった!?」
あっという間に人だかりができ、注目が集まる中、グラスコは苦悶の表情で声を絞った。
「こ、この化け物に......手を噛まれそうになって、拍子に……手を痛めてしまったんじゃ」
実際には、杖を取り返そうとして自分で地面に打ちつけただけだった。
だが、ざわつきは広がっていく。
「違う!」
ドリエルは必死に叫んだ。
「ワイスは私を守ってくれただけ!グラスコさんが杖で私を殴ろうとしたから!」
「ドリエル、いくらグラスコさんが嫌いでも、言っていいことと悪いことがあるぞ」
「そうだ。さすがのグラスコさんでも、子供に手を上げるなんてことはしないだろう」
大人たちの声に混じって、年配の村人たちが重々しく口を開く。
「わしは、前々から思っておったんじゃ。この犬は危険だと」
「そうそう。私も気づいてたのよ。この犬が来てから、畑の収穫量が目に見えて減ったもの」
「それに最近、野生の獣が妙に頻繁に村へ近づくようになった。どう考えてもおかしいだろう」
次々と上がる不安と非難。
祭りの熱気は一変し、疑心暗鬼の渦に飲み込まれていく。
ワイスは杖をぱたりと落としドリエルに近づこうとするが、数人の大人が立ちはだかって進路を遮った。
低く唸りながらも、動きを封じられてしまう。
その時ーー。
「皆さん、落ち着いてください!」
人々の間に割って入ったのはマーサだった。
背筋を伸ばし、険しい空気をまとっている。
「今回の件は、互いに食い違いがあるかもしれません。ですが、まずは……グラスコさん。申し訳ありませんでした」
マーサは深々と頭を下げる。
「まったく......しつけをちゃんとしていただきたいものですね。ちゃんと!」
グラスコは鼻で笑い、勝ち誇ったように吐き捨てた。
「ワイスのことは私が責任をもってしつけます。しばらくは敷地の外へ出さないようにします。ですから……どうか、これ以上は」
マーサのまっすぐな声は、人々のざわめきを鎮めていった。
「マーサさん、そんな...頭を上げてください」
「そうですよ、そこまでなさらなくても」
人々からは同情の声が上がる。
それでもマーサは頭を下げたまま。
「ありがとうございます。さあ皆さん、せっかくの祭りです。続きを楽しみましょう」
そう促すと、人々は次第に散り、再び音楽と笑い声が広場に戻り始める。
だが、ワイスの周りには見えない壁が残っていた。
マーサはドリエルとワイスを連れ、広場の外れ――祭りの灯がかすかに届く人目の少ない場所まで歩く。
夜気は冷たく、遠くの笑い声や笛の音がよその世界の出来事のように聞こえた。
マーサは腰を落とし、ドリエルと視線を合わせる。
「ドリー、ごめんなさいね」
ドリエルの目が揺れる。
「おばあちゃん...」
マーサは小さく頷き、声をひそめた。
「あれはどう見てもグラコスさんの言いがかりだわ。でもあの空気のままでは、ワイスが村から追い出されかねなかったの」
「そんなのやだよ!」
ドリエルの声は震え、握りしめた拳に力がこもる。
マーサはその手を包み、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わかっているわ。でもね、この村には“シュバルツ”――神隠しの言い伝えがあるでしょ」
「...うん」
「それが起こる時は、必ずよくない前兆があると言われているの。理由は分からないけれど、人々はその恐怖を“よそ者”に結びつけてしまうの」
胸が重くなるドリエル。
「やっぱり、この村おかしいよ」
「そうね。ここは閉ざされた村。変化を嫌い、慣れたものにすがろうとする。だからこそ、理解できないものには容赦がないの。常識なんて通じないわ」
ドリエルは息を呑んだ。
薄々感じていた違和感が核心になる。
その横で、ワイスは何も分からぬまま、お利口にお座りして待っている。
「だからね、ドリー。私たちでワイスを守るの」
「じゃあ、ここから出ようよ!」
ドリエルは必死に食い下がる。
だがマーサは目を伏せ、静かに首を振った。
「私はこの村が好きなの。おじいちゃんと暮らした思い出があるから。これは私のわがまま。許してちょうだい」
ドリエルは唇を噛み、しぶしぶ頷いた。
「......わかった」
二人は広場へ戻る。
笑い声と音楽が再び耳に入るが、ドリエルの表情には影が落ちていた。
その姿を、ワイスは首をかしげて見つめた。
2023年 12月20日
ワイスがヒンレル村に来てちょうど一年が経った。
この村では「あり得ないこと」とされ、実際に百年以上も起きなかった“禁忌”が、破られた夜だった。
小さな木造家屋に暮らしていた五人家族。
翌朝、両親と子ども二人が、見るも無残な姿で発見された。
まるで獣に食い荒らされたかのような悲惨さと、意味をなさないほど荒らされた部屋。
唯一、末っ子が姿を消していた。
すぐに警察が呼ばれたが、血の匂いと惨状のほか、犯人を示す痕跡は一切ない。
雪に覆われて、足跡すら残っていなかった。
現場に現れた村の長・グラスコは、震える声でつぶやいた。
「シュバルツの始まりじゃ...」
その言葉が広場に広まった瞬間、ざわめきが走る。
「そんな」
「わしら、消えるのか?」
「嫌だ。まだ死にたくない...」
恐怖は伝染した。村人たちは家に閉じこもり、夜は物音ひとつで飛び起きる。誰も眠れなくなった。
「おばあちゃん、ほんとに神隠しなの?」
その夜。震えながらマーサのベッドにもぐり込むドリエル。
ワイスも不安げに足元に身を寄せる。
マーサは髪を撫でながら、やさしく微笑んだ。
「大丈夫。警察の人も“人間の仕業”だって言ってたわ。だから安心して」
「...うん。でも、こわい」
ドリエルはぎゅっとマーサにしがみつく。
ワイスも声を低く鳴らし、二人の隣で丸まった。
小さな部屋に、三人のぬくもりだけがあった。
だが、恐怖は終わらない。
それは連鎖の始まりにすぎなかった。
2023年 12月26日
双子の子供が消息を絶つ。
2024年 1月3日
移住してきた若夫婦が惨殺される。裸にされ、内臓を抉られた残酷な遺体は、村人たちの心を完全に折った。
年が明けても祝う者は誰もいない。
雪に包まれた村は、祝祭どころか葬列のような空気に覆われていた。
その間、高齢者たちはあるひとつの言葉を口々に囁き始めた。
「これはシュバルツの仕業だ」
「元凶は、あの犬だ。ワイスが災厄を呼んだんだ」




