第9話『白雪姫と子犬』
2020年
猛吹雪が山を飲み込んでいた。
雪と風が唸りを上げる中、小さな子犬が洞窟の奥で身を丸くさせ、震える体を必死に押さえ込む。
生まれてわずか3か月、ただ生き延びるために耐えていた。
食料はない。
それでも、ときおり洞窟の入口に誰かが置いていった食べ物の残りをかじり、どうにか冬を越した。
しかし、外では縄と銃を手にした人影が歩き回っている。
足音が近づくたびに、子犬は息を殺して奥へ奥へと身を潜めた。
彼らの眼差しは「助けるため」ではない。獲物に向けるそれだった。
やがて雪解けの春が訪れる。
氷のような日々を耐えた子犬は、洞窟を後にする。
知らない景色、知らない匂い、人間の町は全てが新鮮だった。
ある日、人間の街の路地裏で匂いに釣られゴミ箱を漁っていると、背後から声がした。
「なんだ、お前...お腹すいてるのか?」
振り返れば、笑顔を浮かべた男。
子犬は思わず尻尾を振り、期待に胸を膨らませて近寄った。
次の瞬間、その笑顔は歪み、男は容赦なく足を振り上げた。
「キャンッ!!」
蹴り飛ばされた子犬は転がり、壁にぶつかる。
「クソ犬が!人んちのゴミを荒らすな!金を払え!」
怒声と唾が飛ぶ。
恐怖に駆られた子犬は一目散に逃げ出した。
街の道を駆け抜ける。
車のクラクション、浴びせられる罵声。
小石を投げられ、追い払われる。足は泥にまみれになり、お腹は空っぽ。
どこにも居場所はなく、行く先々で「いらない」と突きつけられた。
子犬はただひたすら走った。
気づけば足は山の中へと入っていた。
だが、その場所は彼のような小さな存在が生きていける環境ではない。
森の奥、開けた草原。
小鹿たちが跳ね回り、群れの中央には大きな角を持つ長の鹿。
彼は恐る恐る近づこうとする。
長の鹿が一歩前に出ると、群れ全体が彼を睨む。
「グルゥゥ……」
低い唸り声にも似た威圧。
思わず後ずさりして逃げようとした瞬間、群れは一斉に鳴き声を上げ、ばらばらと走り去った。
不安と混乱の中で、彼の体は熱を帯び始めた。
毛並みが逆立ち、骨がきしむ。
気づけば、姿はオオカミのように大きく膨れ上がっていた。
普通のオオカミよりも、明らかに巨大になっていく。
池の水面に映った自分の姿に息を呑む。
そこにいたのは子犬ではなく、異形の巨獣だった。
自分の姿はすぐに受け入れられたが、心の穴は埋まらなかった。
それからの日々、彼は山に住みついた。
森の動物たちは彼を恐れ、人間は「化け物が出た」と叫び、銃や罠を持って山に押し寄せる。
「おい!あそこだ!」
「でかい狼が出たぞ!撃て!」
乾いた銃声。火薬の匂い。
彼はひたすら山奥へ逃げ込むしかなかった。
人間は「森林伐採」や「開発」を進め、森は切り崩され、彼はまた別の場所へと追われる。
彼は、どこにも居場所を作れなかった。
月明かりに浮かぶその影は、犬でも狼でもなく――「孤独な化け物」だった。
そして、二年の月日が過ぎた。
2022年 12月17日
新たな居場所を求め、雪深い森をさまよっていた一匹の巨大なオオカミ。
雪の崖の下に、ひとり倒れている人影を見つけた。
それは金色の髪を持つ少女だった。
肩まで伸びた髪は雪の白に映え、透き通る顔立ちはまるで童話の白雪姫のよう。
厚手の防寒具にニット帽と手袋まで身につけているが、そのまま気を失って雪に埋もれかけていた。
オオカミは大きな体を低くし、慎重に近づく。
鼻先で少女の頬をつつき、舌で顔や手を舐めてみる。
「んん...」
微かな声。少女のまぶたがゆっくりと開き、雪景色の中に瞳が光を取り戻す。
目の前にあるのは、自分を覗き込む巨大なオオカミ。
普通なら悲鳴を上げるはずが、少女はふっと笑った。
「......大きな瞳。あなたが助けてくれたの?」
か細い声に宿るのは恐怖ではなく、柔らかな感謝。
小さな手袋越しの手が、そっとオオカミの顎下に触れる。
撫でる仕草は優しく、温もりを分け与えるようだった。
オオカミは胸が熱くなるのを感じ、ぶんぶんと尻尾を振る。
孤独だった日々を忘れるように、嬉しそうに身を寄せた。
今まで誰にも触れられることのなかった彼が、初めて「人のぬくもり」を知った。
胸の奥に広がる、誰かと分かち合える喜び。
寒さも孤独も、すべて溶けていくようだった。
「そんなに嬉しいの?」
少女はふふっと笑う。
「私、ドリエル。あなたのお名前は?」
立ち上がろうとした瞬間――。
「いたっ!」
ドリエルはバランスを崩し、雪の上に倒れ込み、左足を押さえる。
「...これ、折れてる」
痛みに耐えながらつぶやく声は小さく震えていた。
その様子を見て、オオカミは迷わず身を屈め、背を差し出すように前へ立った。
「乗せてくれるの?」
オオカミは笑ったような顔で吠える。
「ワン!」
「うれしい!ありがとう!」
ドリエルは頬をほころばせ、彼の背に身を預ける。
ふさふさの毛が全身を包み、安心感に満ちていた。
「ふわふわー。ずっと触ってたい」
夢中で毛を撫で、頬をすり寄せる。
雪に冷えた体が、彼の温もりに溶かされていく。
ぐぅぅぅぅ。
盛大にお腹が鳴る。
「そうだ。私、魚釣りに来てたんだ...」
口元に思わずよだれが滲む。
「でも...仕方ないか。ねぇ、私の言う方角に行ける?」
問いかけに力強く吠えた。
「ワン!!」
「よーし、それじゃ――しゅっぱーつ!」
ドリエルを乗せてオオカミは白銀の森を進み始めた。
雪道を進み続け、やがて森を抜けると小さな集落が現れた。
屋根に雪が積もり、煙突からは白い煙が上がっている。
「着いた!」
ドリエルが指をさす。
しかし、集落の入口でオオカミは立ち止まった。
足が前に進まない。
縄と銃、怒号、石ーー。過去の記憶が胸を締めつける。
小さく唸り声を上げ、思わず一歩、二歩と後退した。
「どうしたの?行こうよ」
ドリエルは振り返り、不思議そうに声をかける。
けれど、オオカミは彼女を背から降ろし、拒むように視線を逸らす。
片足を痛そうに浮かせながらも、ドリエルはなんとか立ち上がり、ワイスのもとへ近づいた。
そして、大きな頭を両手で抱き寄せ、頬をそっと擦りつける。
「だいじょうぶ。怖くない、怖くない」
その声は雪よりも柔らかく、あたたかかった。
ドリエルの両手が頬をなぞると、オオカミの大きな体はみるみる縮んでいき――。
「……っ」
次の瞬間、そこにいたのはサモエドとハスキーの血を引くサモスキー本来の姿。
ふわふわの白と黒のコントラストが、雪景色に溶け込むように現れた。
「あれ...小さくなった」
きょとんとするドリエルに、気まずそうに顔を伏せてお座りする。
「すごい!あなた、特別なのね!」
無邪気に笑いながら、両手でその体を撫でるドリエル。
サモスキーは徐々に尻尾を振り、笑ったような顔を見せた。
サモスキーは近くにあった段ボール箱をくわえ、雪を押しのけながらドリエルの前に運んできた。
「ここに座ればいいの?」
「ワン!」
素直にうなずくように吠えると、ドリエルは苦笑しながら段ボールに腰を下ろす。
するとその段ボールを口でくわえ、前足で必死に引きずりながら――彼女の家の方角へと運んでいった。
村の名は、ヒンレル村。
スウェーデン北部、雪に閉ざされた大地にひっそりと息づく最古の集落。
外の世界との交流は少なく、独自の文化を育んできた。
世界文化遺産として名が知られる一方で、昔ながらの因習も根強く残っている。
この村には動物を飼う文化がなく、人だけが暮らしている。
古くから人が消える神隠し”シュバルツ”という言い伝えがある。
人口はおよそ300人。子どもの姿は少なく、ほとんどが高齢者。
鋭い声が雪を裂いた。
「ドリエルちゃん! 危ないわよ!」
顔を上げると、杖をついた老婆が立っている。
背は小さく、全身はしわに覆われ、白い息を吐きながらじっとこちらを見つめる。
村の長、グラスコ。
その姿を見るたび、ドリエルは背筋に寒気が走り、無意識に距離を取りたくなる相手だった。
「グラスコさん...どうしたの?」
恐る恐る問うドリエル。
老婆はすぐにワイスを睨み、口を歪めた。
「その汚らしい獣は何だい?......あらまぁ!その足は!」
杖を突きながら駆け寄り、負傷した足を一目見ると、眉をひそめる。
「怪我を...。そうか、その獣にやられたんだね。可哀想に......!」
老婆の目に涙が浮かんだ。
「ち、違う! そうじゃない!」
ドリエルは必死に首を振る。
「この子は私を助けてくれたの!」
だがグラスコは首を振った。
「無理をしなくてもいいんだよ、ドリエルちゃん。恐怖で正直に言えないんだろう。......心配はいらない。わしゃが何とかしてあげる」
そう言うなり、老婆は杖を振り上げてサモスキーを追い払おうとする。
「おい、この獣!どこかへ消えな!」
杖が迫る瞬間、サモスキーの脳裏に黒い記憶が蘇る。
「出ていけ!」
心臓が早鐘を打ち、四肢は勝手に後退する。
だがその瞬間。
「やめて!!グラスコさん!!」
片足を引きずりながらもドリエルは飛び出し、雪を蹴ってサモスキーにしがみついた。
「この子は――ワイス!!」
涙を滲ませながら、ドリエルは声を張る。
「山で私を助けてくれた! だから、私が飼うの!!」
その小さな体からは信じられないほどの力強さで、ドリエルはグラスコを睨み返していた。
ドリエルの声が広場に響き渡った瞬間、ざわめきが広がる。
雪道を踏みしめ、村人たちが次々と集まってきた。
「一体、何の騒ぎだ?」
「ドリエル......どうしたんだ?」
人々の視線が一斉に集まる。
「ドリー?」
柔らかな声が背後から聞こえた。
ドリエルは振り返り、ぱっと顔を輝かせる。
「お祖母ちゃん!!」
雪を踏んで現れたのは、ドリエルの祖母、マーサ・サリュアン。
綺麗な白髪に、年齢を超えた絵画のような美しさ。穏やかな瞳の奥に強さを秘めた人だ。
「どうしたの?」
問いかける祖母に、ドリエルは涙を浮かべて訴える。
「グラスコさんが......ワイスをいじめるの!」
その言葉に、村人たちは顔を見合わせた。
事情はわからずとも、ドリエルの涙の理由が「グラスコにある」とだけは理解できた。
「わ、わしは...ただドリエルちゃんを思ってのことじゃ」
グラスコは慌てて言い訳をする。
だが、マーサは一歩前に出て、その言葉を遮った。
「グラスコさん」
短く、しかし確かな響き。
村人たちは自然と息をのむ。
「わかりましたよ、マーさん」
グラスコは苦々しい顔を浮かべ、杖をついて去っていった。
グラスコとマーサは、この村に尽力してきた二人。
グラスコは人々に感謝されているが、尊敬を集めるのは穏やかで思慮深いマーサ・サリュアンだった。
マーサはすぐにドリエルへ駆け寄り、その体を抱きとめる。
「足折れちゃった」
泣きそうな顔のドリエルに、マーサは眉をひそめた。
「一体どうしてこんな日に外に出たの」
「お祖母ちゃん、風邪ひいてたでしょ。魚、好きだから食べさせてあげたくて」
その言葉に、マーサはそっと微笑む。
冷たい雪の中、温かな手がドリエルの頭をやさしく撫でる。
「ありがとう、ドリー。でもね......お祖母ちゃんはね、あなたが元気でいてくれることが一番うれしいのよ」
その言葉に、ドリエルの瞳が涙で光った。
「お祖母ちゃん......」
二人は笑い合った。雪の中に静かな温もりが広がる。
「さ、病院で診てもらいましょう。それに――」
マーサは視線を下へ向けた。
「あなたも一緒に来なさい」
「ワン!」
短く吠え、雪を踏んで寄り添う。
「ワイスっていうの!」
ドリエルが嬉しそうに叫ぶ。
「ドリーがつけたの?」
「うん! ドイツ語でね、“賢い”と“白”って意味なの!」
「まあ......物知りね。それに、ぴったりだわ」
「ワン!」
「ふふっ、ほら、ワイスも喜んでる!」
白銀の村に、子どもと犬の笑い声が弾んだ。




