第1話:ようこそ異能保険会社へ。新入社員研修は地獄です
新作だー!
目覚まし時計が鳴るより先に、俺のスマホが震えた。
暗がりの中、ぼんやりと画面を見やると、そこには一行だけ。
『出社前に現場直行。場所は送った。――早乙女』
「……早乙女?」
まだ寝ぼけた頭で首を傾げる。
ああ、教育係の先輩の名前か……いや待て。
「え、初日から現場直行!? 聞いてないんですけど!」
布団を蹴り飛ばし、慌ててスーツに袖を通す。
ネクタイは半分曲がってるし、シャツのボタンは一個飛ばしたまま。
それでも急がなきゃと駅に向かって全力疾走、息を切らせて電車に飛び乗った。
大野ハル、二十三歳。
ブラックIT企業を辞め、命からがら転職した異能保険会社の初日。
事前の会社説明会ではこう聞いていた。
「残業ほぼなし、穏やかな社風です」
――いや、これ絶対ウソだろ。
初日から現場直行ってどういうことだ。
車内の揺れに揺られながら、すでに嫌な予感しかしない。
現場は、駅から徒歩五分のオフィス街――のはずだった。
だが、改札を出て目の前に広がった光景に、思わず足が止まる。
「……え、なにこれ?」
目に飛び込んできたのは、崩れ落ちたビルの残骸と、立ち上る黒煙。
辺り一面にサイレンが鳴り響き、消防車とパトカーが何台も停まっている。
ホースから撒かれる水の飛沫が冷たく空気を切り、焦げ臭いにおいが鼻を刺した。
そして――空には。
「おいおい……でっかいトカゲがビルの壁よじ登ってるんだけど!?」
思わず声が裏返る。
二度見した。いや三度見した。それでも見間違いじゃなかった。
巨大トカゲ(全長十メートル)。
まるで怪獣映画のワンシーンだ。
その尻尾がムチのようにしなり、振り抜かれるたびに車が宙を舞い、ガシャーンと大破する。
「いやいやいや、俺ただの事務職なんですけど!?」
「おっせーよ、新人!」
背後からドスの効いた声が飛んできて、心臓が飛び跳ねた。
振り向けば――
「……ギャル?」
そこに立っていたのは、金髪をポニーテールに束ね、タイトなスーツを着こなした美女だった。
ヒールの高いパンプスを履いているのに、警察バリケードのすぐ外で仁王立ち。
片手でスマホを操作しながら、もう片方には分厚い書類の束を抱えている。
その圧の強さ、もう上司レベル。
この人が教育係の**早乙女セリナ先輩(28歳)**か……。
「あ、早乙女さん! あの、これ……事故……なんですか?」
「事故に決まってんだろ」
セリナ先輩はつんと顎を上げ、巨大トカゲを指さす。
「異能者が暴走したんだよ。ビル一棟ぶっ壊す勢いでな!」
「いやいやいや!! 俺、現場仕事とか無理なんですけど!!」
「いいから現場入るぞ」
「ちょ、え、ちょっと待って!?」
俺の抗議を無視し、セリナ先輩は俺の腕をがっしりつかんで歩き出した。
ズンズンと、警察が張ったバリケードを突破する。
「お、おまわりさん!? 止めないんですか!?」
「いいのよ」
セリナ先輩は振り返りもせず言い放つ。
「保険会社だって分かれば止めねぇよ。逆に邪魔扱いされっから早く行けって感じ」
「いやそんな言われても……!!」
目の前では警察官たちが渋い顔をしながらも俺たちを見送っている。
俺は泣きそうになりながら、セリナ先輩に引きずられるように現場へ踏み入れた。
★ ★ ★ ★ ★
現場のビル内部は、外よりさらにカオスだった。
天井のあちこちが抜け落ち、むき出しになった配管が垂れ下がっている。
壁の穴からは煙が吹き込み、床一面にはガラスの破片が散らばっていた。
足を踏み出すたび、ガリガリと不吉な音が鳴る。
あちこちで「こっちだ!」「早く避難して!」という誘導の声が飛び交い、警報音が耳をつんざく。
俺は周囲をキョロキョロと見回しながら、セリナ先輩の背中を必死に追いかけた。
「ちょ、ちょっと先輩!? 俺、命の危険をひしひしと感じるんですけど!」
声が裏返った。
だって天井から落ちてきそうな配管の残骸が、今にも頭上を直撃しそうなのだ。
「ハル、あんた異能保険の仕事なめてんの?」
セリナ先輩は平然と書類の束を片手でめくりながら歩いている。
「事故が起きないと保険金もらえないでしょ?」
「いや、それは分かりますけど……!」
自分でも情けないくらい声が震える。
「ほら、あのトカゲの尻尾、今にも落ちてきそうなんですけど!? もし当たったら俺ミンチですけど!?」
「落ちたら避けろ」
「避けろってそんな簡単に!?」
そのときだった。
ドゴォォォン!
天井が突き破られ、巨大な爪が降ってきた。
「ぎゃああああああ!!」
反射的にしゃがみ込む。
頭上を、分厚い爪が紙一重でかすめ、背後の壁に突き刺さった。
ガラガラと崩れる天井材が背中に降り注ぎ、髪の毛が一瞬でホコリまみれになる。
「ほら、避けられたじゃん。やるね新人」
セリナ先輩がにやりと笑った。
「褒めるとこそこですか!? てか死ぬかと思ったんですけど!!」
立ち上がると、上方でトカゲの赤い目がギラリと光った。
その目が、はっきりと俺をロックオンする。
「……やばい、完全にターゲット認定された……!」
「セリナ先輩! 今すぐ逃げましょう! 絶対こっち来ますって!」
「落ち着きなさいよ」
セリナ先輩は書類を片手に冷静に言い放つ。
「トカゲはこっち来ないって」
「いや来るでしょ!? あんな目してますけど!?」
「来たらあんたが囮ね」
「えっ!? 今なんて言いました!?!?」
心臓が悲鳴を上げている。
だがセリナ先輩はお構いなしに奥へ進む。
そのとき、会議室のドアが轟音とともに吹き飛んだ。
壁の向こうから、青白い光のオーラをまとった青年が現れた。
目は焦点が合っておらず、身体から漏れ出る力が暴走しているのが一目で分かる。
その周囲で、壁も机もバリバリと音を立てて粉砕されていった。
「ちょ、ちょっと早乙女さん……あの人、やばそうなんですけど!?」
「クライアントだよ。保険契約者」
セリナ先輩が短く答える。
「事故を起こしたのは本人だから、まず話を聞く」
「え、いやいやいや、話なんか聞ける状況じゃ――」
「聞くんだよ」
そう言うや否や、セリナ先輩は一切の躊躇なく青年の目の前にしゃがみ込んだ。
「○○さん、保険会社の早乙女です」
声のトーンは先ほどまでと打って変わって柔らかい。
「ケガはない? ……うん、よかった。じゃあね、一緒に呼吸しよ。深く吸って、吐いて……そう、ゆっくりでいいよ」
青年は震えながらも、セリナ先輩の声に合わせて頷き、必死に息を整えようとしていた。
その姿に、俺は一瞬ぽかんとする。
「……え、なにこれ。俺もやれってこと?」
「当たり前でしょ新人」
セリナ先輩がちらりと振り返る。
「ほら、隣座って」
「いやいやいや!! 命の危険度MAXなんですけど!?!?」
制御の手伝いは、正直、地獄そのものだった。
青年の力が爆発すると、周囲の壁がドゴォンと吹っ飛び、机や椅子が空を飛ぶ。
俺はセリナ先輩に人間バリケードとして前に立たされ、
セリナ先輩は横で青年に呼吸法を教える。
「新人、そこ立って!」
「えっ、ちょっ、なに!? ここ!?」
「あんたが壁になるの!」
「いや俺、壁じゃなくて人間なんですけど!?」
「壁だって言ってんの!」
飛んできた椅子が頭上をかすめ、紙吹雪のように書類が宙を舞った。
耳元で爆発音が鳴るたび、心臓が縮み上がる。
(なんだよこの仕事……命がいくつあっても足りないんだけど!?)
★ ★ ★ ★ ★
なんとか制御に成功したのは、それから三十分後のことだった。
青白いオーラをまとっていた青年は、今はただの疲れ果てた青年になり、肩で息をしながらも正気を取り戻していた。
床に散らばったガラス片や瓦礫は救助班が片付けを始め、壊れた壁の向こうからは「負傷者搬送終わりました!」という声が響いてくる。
焦げ臭いにおいがまだ鼻にこびりついている。
俺は壁際にずるずると座り込み、そのまま魂が抜けたみたいに天井を仰いだ。
足はガクガク、腕も膝も細かく震えている。
もう、立ち上がる気力すらない。
「……終わった……?」
かすれた声が、我ながら情けない。
そんな俺の前に、スーツの裾に灰とホコリをつけたセリナ先輩が現れた。
涼しい顔で書類をまとめ、片手をひらひらと振る。
「おつかれ、新人。今日の研修はここまで」
「け、研修!?」
思わず裏返った声を上げた。
「これ研修だったんですか!? 命かけてましたけど!?」
「そうだよ。現場の空気に慣れないと仕事になんないし」
さらっと言ってのけるその声が、恐怖よりも冷たかった。
「いやもう無理です俺……心が完全に折れました……」
自分でも情けないが、壁に頭を打ち付けるように項垂れる。
目の前の光景が灰色に霞んで見えた。
「折ってる暇ないって」
セリナ先輩は書類を鞄に押し込みながら、わざとらしく肩をすくめる。
「明日も案件入ってるし」
「……明日もあるんですか……」
乾いた笑いが喉の奥でひゅっと漏れた。
俺、きっとこの会社に殺される。
セリナ先輩はにやりと笑い、片目をウインクするように細めた。
「異能保険はね、事故が起きた後じゃないと仕事にならないの。
あんたもそろそろ覚悟決めな」
俺は、その笑顔がやけに頼もしく見えるのが悔しかった。
「……俺、転職を激しく後悔してますからね」
誰にも届かないくらいの小さな声でつぶやくと、セリナ先輩がクスッと笑った。
「いいじゃん後悔で。生きてる証拠よ」
――いや、そういう話じゃないんだけどな。
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