第6章:香りの向こうの会話
その日は少し肌寒く、レイさんはいつもより早めに家に帰った。
冷蔵庫を開けると、鶏肉とネギが目に入った。
「親子丼……久しぶりに作るか。」
料理をするのは習慣ではなかったが、ふと気分が乗ると、台所に立つのがレイさんのスタイルだった。
鍋の中で煮込まれる甘辛いタレの香りが、部屋中に広がっていく。
卵をとろりと落とし、火を止める。
味見も完璧。少しだけ、満足感が顔に浮かんだ。
夕飯を済ませたあと、いつものように煙草を片手にベランダへ。
火をつけた瞬間——
「ねえ、レイさん、今日は……すごい匂いがしたよ。」
壁の向こうから、アオイさんの声が弾んだように聞こえた。
「バレたか。」
「うん。なんだろう……親子丼?」
「正解。」
「うわ、やっぱり。お腹空いてきたじゃん……ずるい。」
「自分で作ればいい。」
「むりむり。あたし、火加減で毎回失敗するんだよ。」
「それは火じゃなくて集中力の問題だな。」
「ひどーい!」
レイさんは、くすりと笑った。
言葉のキャッチボールが、自然になってきたことに気づく。
「レイさんって、ほんとに料理うまいんだね。」
「昔、ちょっとやってたから。」
「へえ。プロ?」
「趣味レベルだ。でも、食べたいものを自分で作れたら便利だろ。」
「……なんか、それ、かっこいい。」
「普通だろ。」
「普通じゃないよ。ちゃんと生活してるって感じがする。」
沈黙が少し流れる。
けれど、それは気まずさではなく、余韻だった。
「……じゃあ今度、匂いだけじゃなくて、味もシェアしてよ。」
「壁、あるけどな。」
「そのうち、ね。」
冗談のような、その一言。
でもレイさんの心に、ほんの少しだけ、何かが残った。