第5章:不在の声
その夜も、レイさんは仕事から帰り、簡単に夕飯を作った。
味噌汁と焼き鮭。何も考えず、手だけが動く。
食後、皿を洗い、煙草の箱を手に取る。
時間は、いつも通りの23時少し前。
ベランダに出ると、空は暗く、街の明かりが遠くに揺れていた。
煙草に火をつけて、静かに一口。
——静かだ。
壁の向こうからは、何も聞こえない。
「……アオイさん?」
軽く呼んでみる。
しばらく、反応はない。
普段なら、こちらが声をかける前に「こんばんは」と言ってくるのに。
もう一度、少しだけ声を強めて呼ぶ。
「アオイさん?」
今度は、返事があった。
「ん、どうしたの?」
「いや……今日は静かだったから。」
「ああ、ごめん。ちょっと本に夢中になってた。」
「あのグロいやつか?」
「それは昨日で読み終わったよ。今日はファンタジー。」
「また極端だな。」
「ふふ、色々読みたい気分なの。」
会話はそれきりだった。
でも、それで十分だった。
レイさんは煙を吐きながら、ふと思う。
——慣れてきたな、このやり取りにも。
名前を呼ぶだけで、返事がある。
それだけで、ちょっと安心する。
「……じゃあ、また明日。」
「うん。また明日、レイさん。」
煙草の火を消し、ベランダのドアを静かに閉めた。
その夜は、変わらず、ただ静かだった。
今章は短くて申し訳ありません。