第3章:ベランダともうひとつの世界
「レイさん、空、見てる?」
いつものように、煙草をくわえてベランダに出たレイさんに、アオイさんの声が届いた。
柔らかく、でも少しだけ遠くを見つめているような響き。
「見てる。星は……今日も少ないな。」
「東京だから、仕方ないね。」
「昔はもっと見えてた気がするけど。」
「うん、私もそう思う。子どもの頃は、空がもっと広かった気がするのに。」
レイさんは煙を吐きながら、壁越しに体を少し寄せた。
姿は見えない。それでも、声の距離が今日は少しだけ近く感じた。
「……アオイさんは、子どもの頃、どんな子だった?」
「んー……よく喋る子。っていうか、今とそんなに変わってないかも。」
「たしかに。」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いや、悪い意味じゃない。」
アオイさんが笑う。
「レイさんは?」
「静かだった。今もそうだけど。」
「うん、想像つく。」
レイさんは少し黙ってから、口を開いた。
「……話すの、苦手だったんだ。今も得意じゃない。」
「でも、こうやって話してるよ?」
「アオイさんが、よく喋るからな。」
「ひどい。でも、ちょっと嬉しい。」
風がゆるやかに吹き抜ける。
夜の音が、遠くの車の音と、誰かのテレビの音と、そして——静かな心の声を運んでくる。
「ねえ、レイさん。」
「ん?」
「もし……この壁がなかったら、私たちって、仲良くなってたと思う?」
レイさんは少し考えてから、静かに答えた。
「わからない。でも……壁があるから、こうして話せてる気もする。」
「ふふ、哲学っぽい。」
「そうか?」
「うん。でも、ちょっとだけわかる気がする。」
アオイさんの声が、いつもよりも少し静かだった。
まるで、その“壁”に、守られているものがあるかのように。
煙草の火が尽き、レイさんは吸い殻を灰皿に落とした。
「今日は、なんか……いつもより静かだったな。」
「うん。たまには、こういうのもいいよね。」
「……そうだな。」
「じゃあ、また明日、レイさん。」
「おやすみ、アオイさん。」
壁はそこにある。でも、心の距離は、また少しだけ縮まった。