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バルコニー  作者: ソラ
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第24章:優しい嘘と、不器用な真実

オムライス戦争が終結し、二人の間には以前にも増して穏やかで、確かな絆が生まれていた。喧嘩ができる。そして、仲直りができる。その事実が、アオイの心を何よりも強くしていた。だから、彼女は決心したのだ。


「レイさん。今週末、父のところに行かない?」


「……ああ。そのつもりだった」


二人の気持ちは、もう同じ場所にあった。


病院へと向かう電車の中、アオイの心は期待と緊張で小さく弾んでいた。隣に座るレイの横顔は、いつも通り無表情に見える。でも、膝の上でかすかに握られた彼の手が、同じように緊張していることを伝えていた。


(大丈夫。きっと、お父さんも喜んでくれる)


ユイちゃんも応援してくれた。きっと、大丈夫。アオイは自分にそう言い聞かせ、レイの手にそっと自分の指を絡ませた。


病室のドアをノックすると、「どうぞ」という明るい声が返ってきた。中に入ると、父はベッドの上で体を起こし、窓の外を眺めていた。顔色はずいぶん良くなり、以前よりも精悍な印象を受ける。


「おお、アオイ。それに、レイ君も。よく来てくれたな」


「調子はどう、お父さん?」


「ああ、ばっちりだ。リハビリの先生には毎日しごかれてるがな」


父は豪快に笑う。その笑顔に、アオイとレイも自然と表情が和んだ。しばらくは、他愛のない世間話が続いた。祭りのこと、ユイが泊まりに来たこと。父は楽しそうに相槌を打ち、時折レイに「娘を泣かせたら承知しないぞ」と冗談めかして釘を刺す。


その度にアオイは「もう、私たちはまだそんなんじゃ……」と口ごもる。今日、その「まだ」を過去形にするために来たというのに。


(……そろそろ、言わなきゃ)


アオイがレイと目配せをし、意を決して口を開こうとした、まさにその時だった。


「そういえばな、アオイ」


父が、何かを思い出したように言った。


「先生とも話してたんだが……この東京のマンション、売ろうと思ってる」


「……え?」


アオイの思考が、一瞬停止した。今、父は何と?


父はそんな娘の様子に気づかず、少し照れくさそうに頭を掻きながら続けた。


「長いこと眠ってたせいか、どうも都会の喧騒が体にこたえるみたいでな。先生も、退院後は静かなところでゆっくり療養した方がいいって言うんだ。だから、京都の実家に帰ろうかと思ってな」


京都。実家。マンションを、売る。


単語が、アオイの頭の中で意味をなさずにぐるぐると回る。目の前が、白んでいくような感覚。


「まあ、歳は取りたくないもんだ。すっかり爺さんになっちまったよ」


そう言って笑う父の顔が、やけに遠くに見えた。


言えない。


言えるわけがない。


お父さんが、自分の体のために、回復のために、一番良いと信じて決めたことなのに。ここで、「私、東京に好きな人ができたの」なんて、どうして言えるだろう。そんなことを言えば、この優しい父は、きっと自分のことよりも娘の幸せを優先してしまう。無理をして、ここに残ると言うに決まっている。


(私のわがままで、お父さんの体を危険に晒すわけには、いかない……)


「……そっか。それが、いいよ。京都、空気も綺麗だしね」


気づけば、アオイは笑顔でそう答えていた。完璧な、貼り付けたような笑顔で。声は、自分でも驚くほど落ち着いて聞こえた。


その後の会話は、ほとんど覚えていない。父が話す京都での生活の計画を、ただ相槌を打ちながら聞いていた。


「じゃあ、また来るね」


作り物の笑顔で手を振り、病室を出る。ドアが閉まった瞬間、全身の力が抜けていくようだった。


廊下で待っていたレイが、すぐに彼女の異変に気づいた。


「……言ったのか」


静かな、低い声。アオイは俯いたまま、かぶりを振った。そして、ゆっくりと顔を上げる。その顔には、泣き出しそうなのを必死にこらえた、痛々しい笑顔が浮かんでいた。


「……言えなかった」


声が、震える。


「お父さんね、マンションを売って、京都に帰るんだって。その方が、体のためだからって……。だから、言えなかった。言ったら、お父さん、無理してここに残っちゃうから」


そこまで言うと、彼女はふっと息を吐き、まるで自分に言い聞かせるように、残酷な言葉を口にした。


「……だからね、レイさん。私たち、ここでお別れ、みたいだね」


その言葉とは裏腹に、彼女の心は叫んでいた。(いやだ、別れたくない、そばにいたい)。


その声なき声が聞こえたかのように、レイの胸が強く締め付けられた。目の前の少女が浮かべる悲しい笑顔が、ガラス細工のように脆く、今にも砕け散ってしまいそうに見えた。


彼は、ほとんど無意識に、言葉を発していた。


「――なら、俺のところに住めばいい」


「…………はぁ!?」


アオイの口から、間の抜けた声が漏れた。彼女は自分の耳を疑った。


「え、なに、今……なんて……」


「だから、俺の部屋に住めばいいと言ったんだ。どうせ最近、ほとんどこっちにいるようなもんだろ」


あまりにも突然の、そしてあまりにも現実離れした提案に、アオイは激しく首を横に振った。


「む、無理だよ! そんなの! 居候じゃない! レイさんの迷惑になるだけだよ! ただの、お荷物になっちゃう……!」


「荷物?」


レイは心底不思議そうに首を傾げた。


「お前が荷物だったことなんて、一度もない」


「で、でも……!」


「仕事のことか?」


レイは、彼女が抱える一番の不安を、的確に指摘した。


「なら、マンションが売れる前に、仕事を探せばいい。見つかってから、こっちに来れば、お前が言うような『居候』にはならないだろ。家賃だって、折半すればいい」


それは、恋人の甘い言葉ではなかった。あまりにも現実的で、具体的で、不器用な、彼なりの解決策だった。


しかし、アオイの表情は晴れない。一番の、根本的な問題が残っている。


「……私なんかが、見つかると思う? 雇ってくれる会社なんて、あると思う……?」


その声には、今まで何度も突きつけられてきた、拒絶の記憶が滲んでいた。自分への不信感と、諦め。


レイは、そんな彼女の目を、まっすぐに見つめた。そして、一言、はっきりと、全ての不安を吹き飛ばすように、力強く言った。


「ああ、見つかる」


迷いのない、絶対的な確信に満ちた声だった。


それは「大丈夫だよ」というような根拠のない慰めではなかった。「お前ならできる」という、揺るぎない信頼の言葉だった。


アオイは、言葉を失って、ただ目の前の男を見つめていた。絶望の淵に差し込んだ、たった一筋の、けれど何よりも強い光。


彼女の瞳から、こらえていた涙が、一粒、また一粒と静かにこぼれ落ちていった。

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