第2章:料理のあと、声の向こうに
ドアを閉めた瞬間、レイさんは靴を脱ぎながらふうっと息を吐いた。
今日も、仕事は疲れるだけだった。人と話すのも、ノルマも、全部。
時計は22時45分。
いつも通りの時間。
シャワーを浴び、冷蔵庫を開けて食材を確認する。
特に豪華なものはない。でも、レイさんにとっては、料理が唯一の気分転換だった——気が向いたときだけ、静かにキッチンに立つ。
「今日は……味噌汁と卵焼きでいいか。」
慣れた手つきで包丁を握り、無駄なく野菜を刻んでいく。
一人暮らしの男のキッチンにしては、調味料が揃っている方だろう。
味噌の香りが部屋に広がっていくと、少しだけ心が落ち着いた。
食べ終え、皿を洗って片付ける。
その一連の流れも、もう慣れたものだ。
そして——いつものように、ベランダへ。
夜の空気はひんやりしていて、都会の音もどこか遠くに感じた。
一本の煙草に火をつけて、ゆっくりと吸い込む。
「……ふぅ。」
「今日も、来たんだね。」
隣から声がした。
アオイさんだ。
「ああ。」
「もう、ルーティンになってるのかな?」
「たぶんな。飯食って、煙草吸って、声が聞こえる。」
「ふふ、それ、私のこと?」
レイさんは煙を吐きながら、短く笑った。
「他に誰がいるんだ。」
アオイさんの声が少し嬉しそうに弾んだ。
「今日はね、本を読んでたの。ちょっと変なやつ。」
「どんな本だ。」
「猟奇殺人犯が、自分の罪を手紙で語る小説。犯人視点で進むの。」
「……趣味悪いな。」
「ひど。けど、面白いんだよ? 最後には、同情しちゃうかもしれないくらい。」
レイさんは何も言わず、煙を吐きながら空を見上げた。
「レイさんって、読書とかする?」
「昔は読んでた。今は、働いて、たまに料理して、寝るだけ。」
「ふーん……なんか、らしいね。」
「どういう意味だ。」
「なんとなく、生活がシンプルそうって思っただけ。」
少しの沈黙が流れる。
でも、その静けさは悪くなかった。
「じゃあさ、今度おすすめの本、貸そうか?」
「どうやって渡すんだよ、壁あるのに。」
「……そこは、工夫でなんとかなるでしょ。」
「……勝手に決めるな。」
アオイさんがまた、くすっと笑う。
その笑い声は、なんとなく今夜も、レイさんの耳に心地よかった。
煙草が短くなっていく。
それは、会話の終わりを告げる合図のようでもあった。
「……じゃあ、また明日。」
「うん、またね。」
ベランダの灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
けれど、壁の向こうにいる誰かの存在が、今日は少しだけ近くに感じられた。