第1章:最初の煙、最初の声
「はぁ……疲れた。」
レイはスーツの上着をソファに放り投げ、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けた。コンビニの弁当と缶ビール。手抜きの夕飯はもう習慣になっていた。
食べ終えると、彼は無言でベランダへ。夜風がひんやりと頬を撫でる。高層階から見下ろす東京の街は、今日もどこか他人事のようにキラキラしていた。
ライターの音が響き、一本の煙草に火が灯る。
ふー……と吐いた煙が空へと消えていく。
静寂。
都会の夜にしては、妙に静かだ。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
突然、隣のベランダから咳の音が聞こえた。
レイは思わず振り返り、壁の向こうに向かって声をかけた。
「すみません、煙、流れちゃったかも……」
しばらく間があった。
そして。
「ううん、大丈夫。もう戻ろうとしてたから。」
女性の声だった。落ち着いていて、少しだけ笑っているような、でもどこか疲れているような声。
「そっか……それならよかった。」
「あなた、いつもこの時間に煙草吸ってるよね?」
「……気づいてた?」
「うん、毎晩なんとなく気配がするから。」
レイは少し驚いたように笑った。まさか隣人にバレていたとは。
「隣なのに、話すの初めてだね。」
「確かに。私はアオイ。よろしくね、レイさん。」
「どうして名前知ってるの?」
「昨日、宅配便の人が呼んでた。」
「なるほど……よく聞いてるな。」
「だって、この壁、意外と薄いんだもん。」
小さな沈黙。だけど、心地いい。
レイはもう一度煙草をくわえようとして、ふと手を止めた。
「……アオイさん。」
「なに?」
「煙、やっぱり迷惑だった?」
「……ううん。匂いは……ちょっと懐かしい。」
「懐かしい?」
「なんでもないよ。」
声のトーンが一瞬だけ沈んだように感じた。でも、深く聞くのはやめた。
今夜のこの距離感が、ちょうどいい気がしたから。