おいしいご飯のためですわ!
僕たち夫婦はもうダメだ。
冷え切ったミートパイをつつきながら、僕は思う。
こんなのは、不健全だ。
いつまでも続けてはいけない。
長い食卓の向こうを、僕はじっと見つめる。
本来は妻である彼女の席だ。
けれどそこには誰もいない。
僕は大きな食堂の大きな机に、一人で座って夕食を食べている。
彼女と最後にここで顔を合わせたのはいつだっただろうか。
結婚してからしばらくは、ここで食事を共にしていた。
けれどその数は次第に減っていき、いまではもう、月に一度あればいい方だ。
彼女は食事のほとんどを外でとる。屋敷で食べることがあっても、僕と席を共にすることはない。
まだ夜も明けきらないうちから朝食を済ませ、昼はとらず、午後のティータイムにはすでに晩餐を始めている。
明らかに、僕を避けて、食事をとっている。
彼女と最後に食事をしたのは、野営地でのことだ。
魔物に襲われ、ほとんどの糧秣を失ってしまった僕らは、仕方なく野鳥を落として食べた。
よく太った野鳥だったが、脂っこく、肉の臭みも強かった。
せめて少しでもマシになるよう、僕は丹念にそれを焼いた。
鳥を落としてくれたのは彼女だったので、調理くらいは僕がしなければならないと思ったのだ。
僕は一番よく焼けた部分を彼女に渡した。
彼女はなにかを押し殺したような、苛立ちの垣間見える笑顔で、それを受け取った。
瞬く間にたいらげ、おいしいです、とも言ってくれたが、彼女の内心は透けて見えるようだった。
伯爵令嬢だった自分が、なぜ屋根もテーブルもない場所で、焼いて塩を振っただけの肉を食べなければならないのか。
こんな生活が、一体いつまで続くんだろうか。
僕はそんな彼女の思いに答えることができた。
彼女の手が貴族らしからぬ荒れ方をしているのは僕のせいだ。
ドレスを着て夜会に出る回数より、剣を握って森の中を駆けまわる方が多いのは、僕に力がないせいだ。
そして僕といる限り、この生活は一生続くのだ。
彼女と結婚して三年が経とうとしている。
もう限界だ。
僕はいい加減に、彼女をこんな生活から解放しなければならない。
一人には多すぎる料理と給仕に囲まれながら、冷え切った料理を前に、僕は決意する。
彼女と離縁しようと。
これ以上、彼女を苦しめるのはやめよう、と。
*
僕の一族の領地には魔物の巣食う広大な森がある。
人に仇なす魔の存在。
食べるためでも自身を守るためでもなく、ただ悦楽のために人を襲う残虐なるものたち。
それが魔物だった。
魔物はかつて国中に蔓延っていたが、僕の祖父がその大部分を森の中に封じ込んだ。
魔物による被害は激減し、祖父はその功績を讃えられ、爵位を授かった。
そうして平民出身の宮廷魔法師であった祖父は、魔物の森とその周辺の村落を領地に持つ侯爵となった。
祖父は優れた結界魔法の使い手で、生涯に渡り、魔物を森に封じ続けた。
また彼の子息たちも、魔法の才に恵まれ、彼の仕事を完璧に引き継いだ。
ここ百年近くに渡って、森から魔物が出たことは、数えるほどしかなかった。
しかし、僕には、父や祖父のような魔法の力はなかった。
僕は平凡な人間で、とてもではないけれど、広大な森をすべて覆う結界など保つことはできなかった。
僕の張る結界は綻びだらけで、魔物はたびたび森を抜け出すようになった。
外に出た魔物は、仕方なく騎士や傭兵を雇って始末するほかなかった。
森の結界を維持することができないと分かれば、爵位を返上しなければならない。祖父や父がこれまで積み上げてきたものを、僕の代で崩すことはしたくなかった。
本来僕は、後継になるべき人間ではなかった。
結界の維持が義務である以上、侯爵家を継ぐ人間は、優れた魔法師でなければならない。
僕の力が平凡であることを、僕自身はもちろん、父も承知していた。
僕は身の程を弁えている。力のない者が爵位を継げばどんな悲劇が起こるかもわからない。
だから僕は父が優れた魔法師を養子として迎えること打診してきたときに、二つ返事でそれを了承した。
僕はその人のサポートにあたるか、どこか別の貴族に婿として嫁いでいく腹積もりでいた。
けれど跡継ぎ問題に決着がつく前に、父は急逝してしまう。
流行り病だった。
ある日突然高熱に倒れ、意識を回復することのないまま、数日で死んでしまった。
父の弟たち、王宮魔法師になった叔父や、他家へ婿に出た叔父も、同じ病で立て続けに亡くなってしまった。
僕は頼るあてもなく、父の死を悲しむ暇もなく、伯爵位を継ぎ、森に結果を張らなければならなくなった。
どれだけ工夫しても、努力しても、僕の結界では森全体をカバーすることはできなかった。
魔物の出没が相次ぎ、領内の治安は悪化した。
僕は傭兵を雇い魔物の駆除に当たらせたが、命懸けの仕事頼む以上、莫大な金銭を払わなければならなかった。
侯爵家の財政は瞬く間にひっ迫した。
最低限の傭兵しか雇うことができず、魔物への対処が遅れ、領民への被害も拡大していった。
もはや打つ手はなかった。
爵位の返上を覚悟で、国王に窮状を訴えるしかない。
そう思ったとき、手をあげたのが、妻のメアリだった。
「兵が足りないのでしたら、わたくしも戦いますわ」
僕は爵位を継いだ直後に、以前から婚約関係にあったメアリと結婚した。
正直、不誠実な魂胆からの結婚だった。
メアリは慎ましく淑やかで、お手本のような貴族のご令嬢だった。
女性らしいふっくらとした体つきに、いつも穏やかな微笑をたたえている。
とろりと潤む瞳で見つめられると、僕の心臓は跳ね上がった。
要するに、惚れていた。
僕はメアリを愛していたし、彼女との結婚を心待ちにしていた。
この先侯爵家が泥沼に陥ることはわかっていた。
窮状が露呈すれば、婚約も破談にされてしまう。
僕はなんとしてもそれを阻止したかった。
だから急ぎ結婚したのだ。
そして想像通り、侯爵家は荒れ果てた。
ろくな新婚生活ではなかった。
僕は結界にかかりきりでほとんど彼女の相手をすることができなかった。
財政的にひっ迫していたため、彼女に小遣いをやることも、新しいドレスを買ってやることもできなかった。
それどころか、彼女は家事に奔走しなければならなかった。
給金が払えず、僕が屋敷の使用人を大幅に減らしたのだ。
メアリは使用人に混じって屋敷を掃除したり、馬の手入れをしたり、薪を割ることさえあった。
力仕事は男衆にまかせればいい、といったが、メアリはいい運動になるからと、笑顔で返してくれた。
男衆といっても、老人がほとんどで、若く力のある者は皆魔物の討伐にあたらせていたのだ。
僕は彼女の健気さに心から感謝した。
彼女のためにも、結界を安定させなくては、と思った。
けれど思いだけではどうにもならないことがある。
僕は結局、結界を安定させることはできなかった。
祖父や父のように、完全に魔物を抑え込むことはできなかった。
「でも、ある程度は抑えられているじゃありませんか」
優しいメアリは、そう言って僕を励ましてくれた。
「あとはわたくしにお任せください。こぼれた分は、きちんと始末いたしますから」
僕は強く反対したが、彼女は制止をふりきって、魔物の討伐隊に加わった。
魔物を前にした彼女は、ふだんとは別人だった。
身の丈よりも大きい長槍を振り回し、瞬く間に魔物を葬ってしまった。
あとで知ったことだが、彼女は以前から魔物の討伐に加わっていたらしい。
僕に隠れて腕を磨いていた彼女は、傭兵たちと遜色ない働きをしてみせた。
「ね?なにも心配いらないでしょう?」
メアリは殊勝に笑って見せた。
貴婦人らしからぬ、返り血まみれの甲冑姿で、彼女は傭兵たちから称賛を受けていた。
痛々しくて見ていられなかった。
メアリが無理をしているのは明らかだった。
手には潰れたマメがいくつもあった。
腕や足にはさまざまな濃淡の痣があった。
ふくよかだった体形はすっかり引き締まり、頬はこけて、かつてあった穏やかな雰囲気は消え去っていた。
無理をしなくていいと、僕はメアリに言った。
けれどメアリは、無理などしていない、と答えた。
自分がしたくてやっていることだ、と。
彼女が嘘をついているのは明らかだった。
伯爵家の令嬢として育ってきたメアリが、こうなることを望むわけがない。
美しいドレスで飾り立てて、宝石のような菓子をつまみながら、おしゃべりに興じる。砂糖とミルクがたっぷり入った紅茶を嗜みながら、庭の小鳥を眺める。
夫の背に守られ、毎日愛の言葉を紡がれる。
メアリが貴婦人として望む幸福は、そういうものであるはずだった。
しかしふがいなくも、僕は彼女の優しい嘘に甘んじた。
メアリが討伐に向かうようになってから、領民への被害はぴたりとやんだ。
傭兵たちの士気もあがり、すぐに辞めてしまう者も、給金の過度なつり上げを要求してくる者もなくなった。
メアリは日夜領内中を奔走した。
屋敷に帰ってくるのは週に一度か二度で、ほとんどを眠って過ごし、すぐにまた討伐へと向かって行く毎日だった。
メアリは努力家だった。
僕が魔法の腕を磨く以上に、彼女は長槍の腕を磨いていた。
努力していた、と思っていた自分が恥ずかしくなるほどに、メアリはひたむきだった。
領民を守るために。
夫の力不足を補うために。
メアリは命を懸けて戦っていた。
貴婦人としての自分を犠牲にして、メアリは僕に尽くしてくれた。
結婚して三年が経つ頃には、僕たちの夫婦関係は完全に破綻していた。
僕は夫としてメアリを守り、養うことができなかった。
互いに支え合うことすらできていない。
メアリの一方的な献身で、僕ら夫婦は成り立っていた。
僕はこれ以上、彼女の人生を台無しにしたくはなかった。
*
メアリと僕は、実に三か月ぶりに、食事の席を共にした。
「疲れているところ、悪いね」
「……いいえ。お気になさらず」
メアリは長い机の向こう側、僕の対面に座っていた。
身につけるドレスは流行とは真逆のゆったりしたデザインのものだった。
コルセットはつけておらず、肩や胸元はたっぷりとしたフリルで隠されている。
日々魔物の討伐に明け暮れるメアリの体形は、男性的なものへと変化していた。
胸は萎み、腕や肩は太くなった。
筋肉のついた腹回りは固く、コルセットでは締め上げることができないらしい。
メアリは病を言い訳にながらく社交場から遠ざかっているが、今の姿で出れば、嘲笑を買うことは間違いなかった。
僕はますます決意を強めた。
流行のドレスひとつ着られないような生活から、僕は一刻もはやく、彼女を解放しなければならない。
「――――今日は君に、大切な話があるんだ」
「……」
「メアリ?」
「え?あ、はい」
「どうかしたかい?」
「いいえ。なんでもありませんわ。――――ですが、その、話というのは、長くなるんでしょうか?」
「まあ……そうだね。それなりに長くなると思うよ」
「でしたら、先に食事を済ましてしまいましょう」
確かにそうだ、と僕は思った。
僕は今日彼女のためにとびきりのフルコースを用意していた。
離婚を切り出したあとでは、ゆっくりと味わうことなどできないであろう。
はやる気持ちを抑え、僕は執事に給仕を命じた。
前菜、スープ、魚料理、肉料理……。
料理は一つずつ運ばれてくる。
緻密な盛り付けと繊細な味付けがなされた、シェフ渾身の品々。
僕はそれをゆっくり味わって食べようとした。
けれどできなかった。
これからメアリに別れを切り出さなければならないのだと思うと、なんの味もしなかった。
おまけに彼女は一皿を瞬く間に食べてしまう。
それに合わせて、僕も急いで料理を片付けてしまわなければならなかった。
メアリはずっと落ち着かない様子だった。
料理を前に感嘆の息をもらしたかと思えば、ろくに味わう素振りもなくそれを食べてしまう。
食べ終えると、空になった皿と僕を交互に見ながら、水ばかり飲んでいる。
なにかを言おうと口を開いて、なにも言わずに閉じる。
食事の間中、彼女はそんな調子だった。
たぶん、はやく席を立ちたいのだろう。
無能な夫である僕なんかとは、一秒でも早く離れたいのだろう。
そう考えると泣きそうになったが、僕は必死に堪え、食事を喉に流し込み続けた。
デザートを終え、エスプレッソが運ばれてきたところで、僕は再び話を切り出した。
「――――別れよう」
「……え?」
メアリはぼんやりとした眼で、呟いた。
「いま、なんて……?」
「だから……僕と、別れてほしんだ」
「はあ……」
メアリはぼんやりした目つきのまま、ひどく曖昧な相槌を打った。
無理もないだろう。
彼女からしてみれば、寝耳に水だ。
これまで努力して尽くしてきた夫にいきなり別れを切り出されて、すぐに飲み込めるはずがない。
僕は丁寧に説明した。
メアリに不満があるわけではなく、むしろ感謝している、ということを。
けれど今のままでは、メアリの負担が大きすぎる。
僕たちは夫婦としてあまりにも不健全だ。
互いのために、別れた方がいい。
僕と別れた方が、君は幸せになれる。
「君は素晴らしい女性だ。こんなところで魔物の血に塗れる生活を送るべきではない。もっと貴族らしい、上品な場所にあるべきだ」
僕は震える声を抑えて、続ける。
「これまで尽くしてくれた君を、もちろんそのまま放り出すことはしない。大したものではないが、我が家の資産は好きなだけもっていってくれてかまわない。世間にも、この離縁は僕の問題であって、君にはなんの落ち度もないと広めよう。だから――――」
離婚しよう。
そう口にしかけた、次の瞬間。
メアリは机を勢いよく叩き、立ち上がった。
「――――もう我慢なりませんわ」
彼女はカップに残っていたエスプレッソを、ぐいと一息で飲み干すと、乱暴に受け皿に叩きつけた。
「これでおしまいですって!?そんな――――そんなの、ありえませんわ!」
メアリの怒りは最もだった。
こんな一方的な別れ話もない。
それでも僕は、彼女のためにも、彼女を納得させなければならない。
「落ち着いて聞いてくれ。ここで終わりにしないと、もう後戻りができなくなるんだ」
「後戻りなんてはなからできると思っていませんわ!」
メアリは凛とした表情で、僕に言い放った。
「わたくし、ここに来てからただの一度も後悔したことがございません!」
メアリはまっすぐに僕を見つめていた。
その瞳には、一点の曇りもなかった。
「ですが今ここで引き下がったら、はじめて後悔することになりますわ!」
「でも……きっと将来、君は後悔することになる。僕じゃなくて――――」
もっとまともな夫と結婚すればよかった、と。
そう続けようとしたが、彼女に勢いよく遮られてしまう。
「わたくしは今を生きているんですの!先のことは、そのときの自分が考えますわ!」
「メアリ……!」
彼女の言葉に、僕は胸を打たれた。
そこまでの覚悟でいてくれていたのか。
そこまで僕を想っていてくれたのか。
僕はメアリの熱い想いに答えたいと思った。
「本当にいいのかい……?」
「ええ。いいわ」
「本当に後悔しないのかい?」
「するとしても、それは明日の自分ですわ」
「じゃあ、続けてくれるんだね?」
僕との婚姻関係を。
そう言う意味で、僕は言った。
「ええ、続けますわ」
彼女の答えに、僕は耐えきれず、涙をこぼしそうになった。
が、次の言葉を聞いて、それはひっこんでしまった。
「――――たったのこれっぽっちで今日の夕食がおしまいなんて、ありえませんもの!」
「――――は?」
僕は硬直したが、メアリは構わず、執事やメイドに指示を出し始める。
「さあ!前菜はおしまいですわ!ありったけの肉とパンと酒をお持ち!」
……前菜とは、いま食べ終えたばかりのフルコースのことか?
「ああ、中途半端に食べたからむしろお腹が減りましたわ!もうなんでもいいから早く食べれるものをもってきてちょうだい!肉!魚!揚げ芋!どれもとびきり濃い味にしてちょうだい!」
執事やメイドはやれやれといった顔つきで、しかし慣れた様子で、メアリの指示に従う。
厨房からは、そうこなくっちゃ!と歓声まで聞こえてくる。
……え?僕らたった今、離婚の話をしていたよな?
重苦しい空気だったよな?
このお祭り騒ぎはなんだ?
僕だけが置いてけぼりなんだが?
「上品なシャンパンだのワインだのは結構ですわ!ビール!麦酒しか勝ちません!樽ごともってきなさい!」
ビールとは、庶民が飲む麦酒のことか?
そんなものをこの屋敷に置いているなんて初耳だが?
「まだですの?肉をちまちま切ったり飾り付けたりしなくていいからとにかく一刻もはやく持ってきてちょうだい!あとデザートのケーキも!あれもいきたいですわ!なんですか先ほどのケーキは!?どうして無惨に切り取ってしまうの!?焼いたままの姿で出せばいいじゃない!舌の上で溶けて消えてしまうような上品なクリームなんですからいくら盛ったところでノーカロリーですわ!ありったけ盛ってお持ちなさい!デザートが最後なんてルールいったい誰が決めたんですの?!」
めちゃくちゃだ。
彼女は一体誰にキレてるんだ?
空腹そのものにキレているかんじさえするのだが……?
「甘いものとしょっぱいものを交互に食べてこそですわ!わたくしケーキをアテに麦酒がいける女です!とりあわせはわたくしが考えますからとにかくはやくこの机を料理でいっぱいにしてちょうだい!」
彼女の要望はすぐに叶えられる。
机にいっぱいに皿が並べられる。
つい数十分前とは打って変わり、大きな皿には料理が山積みにされて運ばれてくる。
盛り付けとは、なんなのか。
焼いた肉、揚げた芋、切り身にした魚を、ただ乗せられるだけ乗せている。
脂ぎったソースが皿から滴っている。
床やテーブルが汚れていく様を気にもとめず、彼女は目を輝かせる。
「たまりませんわ!」
メアリは言いながら、巨大なジョッキグラスに並々と注がれたビールを飲む。
ごくごくと、豪快に喉を鳴らしながら。
「っぷはー!うまーい!これですわこれこれ!これからかぶりつく肉の匂いをかぎながら飲むビールこそ最高の食前酒ですわ!」
いやだから、食事はさっき終わったはずだが?
「とりあえずケーキを――――っんん!やっぱり空腹に甘いものはききますわ!頭から涎が出てくる感じがしますわ!」
メアリはホールケーキに直接フォークをつきたてながら言った。
ケーキは先ほどデザートに出されたガトーショコラだ。
僕たちが食べたぶん、小さく欠けているが、彼女はたった二口でそれよりも大きな面積を頬張った。
ケーキの横に置かれた巨大なボウル、その中にそそり立つ生クリームの山をたっぷりとすくいあげるのも忘れない。
……というか彼女が持ってるの、フォークじゃなくてレードルだ。
この人、レードルでケーキとすくってクリームに浸しながら食べてる……。
「口が甘い!ビールじゃとても流しきれません!ここで塩!糖で舌が痺れた今こそ揚げ芋ですわ!!!」
彼女は手元にフライドポテトの大皿を手繰り寄せ、てづかみで貪りはじめる。
無言で。無表情で。無心に。
細切りにしてあげた芋を、数本まとめて頬張っていく。
ポテトの山はみるみるうちに平らになる。
皿の底には、芋の端切れだろう、他より短く、やや焦げついた部分がたまっている。
メアリはそれもひとつ残らずきれいに平らげる。
「この部分が一番うまいですわねやっぱり」
皿が空になって、ようやく彼女は口を開いた。
「太い芋を揚げたものじゃダメなんですの。細い揚げ芋を束ねて食べるからこそ、ですわ」
わけのわからないことをのたまって、メアリは満足そうに鼻を鳴らす。
……油で濡れた唇が眩しい。
「さあ次ですわ!」
新しく注がれたビールをまた一息で飲み干し、彼女は次の皿に手を伸ばす。
そこには薄く切られた魚の身が積まれている。
軽く燻されたサーモンだ。
本来それは、サラダなどに数切れ添えられるものだが、メアリはレードルですくいあげ、口いっぱいに頬張った。
「あああ口の中の油が流されていくこの感覚……!これを欲していたんです!!」
いやサーモンにも十分脂は乗っている。
本当にこの人はさっきからなにを言ってるんだ?
「でも、やっぱり、ダメですわ。このままでもおいしいですが……ああ……いけないわ。いけないわよメアリ。あれは明日の朝、討伐に出る前の景気づけとして食べるつもりだったのよ。……ああ、でも、この魚を前に我慢なんてできないわね。むしろこの魚をただこのまま食べ続けることは罪だわ。――――お米!お米を持ってきてください!それから醬油も!」
メアリが叫ぶと待ち構えていたかのように米と調味料が運ばれてくる。
米は東方で食べられる珍しい穀物だ。醤油という調味料は聞いたこともない。
彼女は一体どこで、いつの間に、こんなものを仕入れていたのか。
……いや、そういえば彼女の家は手広い貿易商売をしているんだった。
東方の珍品でも、実家のツテで手に入れることは可能か。
それにしてもあの真っ黒い液体は本当に調味料なのだろうか?
独特の匂いだが、そんな浸るほどサーモンにかけてしまって大丈夫なのだろうか……?
「うまーい!」
僕の心配をよそに、メアリは白米の上に醤油に浸したサーモンを限界まで積み、かきこんでいく。
「天才!天才ですわ!米と醤油と魚!この組み合わせを思いついた人に勲章をあげたいですわ!魚を食べると頭が良くなると東方ではいうそうですが本当にそうですわね!こんな食べ方よっぽど頭がキレなきゃ思いつけませんもの!」
本当になにを言ってるんだこの人。
完全に馬鹿になってしまっている。
「からの肉!肉ですわ!脂身を落とすなんて馬鹿な真似はよしなさい!ありのままを食すんですわ!細かく切るなんて愚かな真似は許しませんわ!分厚ければ分厚いほうがいいんです!噛み切れなければ飲み込むまで!肉は喉越しで味わうものですもの!」
先ほどのフルコースでメインディッシュとして供されたローストビーフが、分厚く切り分けられている。
先ほどは向こうが透けて見えるほど薄く切られていたが、いま彼女がとりかかろうとしているものは、頬張ることも難しいほどの分厚さだ。
メアリは大口をあけて、それにかぶりつく。
「ふはい!にふ!にふをたふぇているってかんひふぁしまふわ!」
……僕、夢でも見ているのかな?
机一杯に並べられた料理を次々平らげていく彼女を見ながら、僕は頭を抱えた。
*
「――――ふう」
小一時間ほどして、メアリはようやくレードルを置いた。
「おなかいっぱいですわあ」
脂ぎった唇をナプキンで拭く彼女は、至福の表情でつぶやく。
「外で食べるのもいいですけれど、お家で食べるごはんに勝るものはありませんわね、やはり」
どうやら食事は終わったようだが、彼女の前に置かれているのは、エスプレッソではなく麦酒だった。
執事は平然とそれを置いたし、彼女も平然とそれを受け取った。
僕は一時間前から少しも減っていない自分のカップの中身を、冷めきったエスプレッソを見つめる。
なんだかすべてに置いてけぼりをくらっている気がする……。
「ようやく落ち着きましたわ」
彼女は麦酒をひとくちだけ飲み、くつろいだ様子で僕に微笑みかける。
「それで、旦那様、なんの話でしたっけ?」
「え?」
「いえ、先ほどなにかお話されていたでしょう?ごめんなさい、わたくし、おなかが減りすぎてうまく耳に入れることができなかったんです。ですからもう一度話してくださらない?」
「だからその……離婚しよう、って……」
「へえ、そうですか」
「うん……」
「……」
「……」
「……え?」
「うん?」
「離婚!?」
彼女は素っ頓狂な声を出した。
「り、り、離婚って!?え!?どうしてです!?」
「本当に話を聞いていなかったのか……」
呆れる僕の話を、しかし彼女は聞いていなかった。
「どうして急にそんな……!わたくしなにかしてしまいましたか!?」
「いや、なにもしていないよ」
「つまりなにもしなかったから、ということですか!?それでしたらもっと気合を入れて魔物の討伐にあたりますわ!もっと戦果をあげてみせますわ!ですからどうか離婚は――――」
「い、いやいや!君は十分に働いてくれているよ!これ以上なにも望めないよ!」
「でしたらどうして――――あっ!やはり食べ方!食い意地が張っているからですか!?そうですわよね。こんなに食べる女、はしたないですわよね。自覚しているんですのよこれでも。でも食べることを我慢はできないし……だからこれまで隠れて食べるようにしていたんですけれど……昨日帰ってきたのが遅くてほとんど一日寝こけてしまってこの時間までろくにものを食べられていなかったものですからつい我慢が出来ず……もう二度と旦那様の前でこんなはしたない食事姿は見せないと誓いますわ」
言いたいことはいろいろあったが、まずなによりも先に、僕は安堵した。
ともかく、彼女は別に、僕と食事をとりたくなかったわけではないのだ。
「――――君がそんな健啖家だったとは、知らなかったよ」
「隠していましたもの」
「どうして隠していたの?」
「それは、だって、世の殿方は小食な女を好まれるでしょう?」
「好んでいるわけではないけど……ああでも、決めつけてはいるかもしれない」
女性はみな小食だと、たしかに僕も、思い込んでいた。
いっぱい食べることは、悪いことじゃないのに。
「わたくし、食べることがなによりも好きなんですの」
彼女は麦酒をぐいと飲み干した。
「それもただ美味しいものを食べたいというんじゃないんですの。とってもおなかが空いた状態で、たらふく食べたいんですの」
メアリはとつとつと語った。
「小さい頃から食べることが大好きだったんです。ごはんもおやつも、人一倍食べていましたわ。当時は運動なんてちっともしていませんでしたから、当然太っていて……十五歳を過ぎたあたりから、いい加減にしなさいと両親に怒られるようになりましたわ。そんなに太ってはどこにも嫁ぎ先なんてないぞ、と」
メアリが昔ずいぶん太っていたということは、僕も噂で聞いたことがあった。
けれど僕が初めて会った時のメアリは、痩せてはいないが、太っているともいえなかった。
ふくよかで、女性らしい体型だった。
「ダイエットの成果ですわ」
メアリは照れくさそうに言った。
「両親にせっつかれて、しかたなく運動と食事制限を始めたんですの。運動は良かったですわ。身体を動かしたあとに食べたごはんは、いままで食べたどんなものよりもおいしくて……わたくしそのとき悟りましたの。真の美食とは空腹時にしか味わうことができないのだと……!」
でも、とメアリは拳を震わせながら続けた。
「両親はわたくしが運動をしすぎることを許しませんでした。極限までお腹を空かしたあとでたらふく食べるのがいいのに……適度な運動適度な食事、なんてことを言ってわたくしの生活を厳しく管理しましたわ」
あの頃は本当に苦痛でした、メアリはまるで拷問を受けた被害者かのように訴えたが、僕にはどう考えても、両親の方がまっとうに思えた。
「ですから旦那様と結婚して、この地にこれて本当によかったと思っていますの!魔物退治という名目で好きなだけ限界まで身体を動かせますし、お腹いっぱい好きなだけ食べられますから!」
ようやく話が見えてきた。
どうやら僕はとんでもない勘違いをしていたらしい。
彼女は本当に、心から望んで魔物退治にあたっていたのだ。
「生存本能なんですかね?身体を鍛えて戦いに挑むようになってから、前よりずっとごはんがおいしいですし、いっぱい食べられるようになりましたわ!なにより兵団のみなさまから教わる庶民の食事!麦酒も薄切りの揚げ芋も、はじめて口にした時雷に撃たれたような衝撃でしたわ!こんなにおいしいものがあるなんて!貴族の凝った料理もいいですけれど、やっぱり量を食べるならシンプルが一番ですわ!油と塩さえあれば大抵のものは美味しくなる!わたくしここにいいて新しい生まれ変わったような心地になりました!」
熱弁するメアリの瞳があまりにも純粋で、輝いていて、僕はもうなにも言えなかった。
「ですからどうか、今一度お考え直しください。一度この生活を知ったらわたくし、もうもとに戻ることなんてできませんわ!」
その言葉が僕に向けられたものだったらどんなによかっただろうか。
虚しさを押し殺し、僕は首を振った。
「君がそう言ってくれるなら、離婚は、やめにしよう」
「本当ですか?!ああ、旦那様。貴方はなんて心の広いお方なんでしょう……!わたくしこれからも食事は見えないところで取りますから、どうか見捨てないでくださいまし」
「いや、食事は、むしろ一緒にとってほしい」
「え?でもーーーー」
「君の食べっぷりは実に気持ちがいいものだった。ちっとも不快じゃないよ。むしろ夫婦なんだから、おかしな遠慮はせず、家にいる時くらいは一緒に食事をとろう」
「旦那様……!」
メアリは立ち上がり、僕にそばに駆け寄ると、ぎゅっと手を握ってきた。
傷だらけで、固い手だった。
フライドポテトの脂で濡れた手だった。
「わたくし、貴方と結婚できて、本当によかったですわ」
満面の笑みを向けられて、僕の心臓は跳ね上がる。
ああ、まったく。
僕は心の底から彼女に惚れているらしい。
貴族らしいメアリに惚れたはずが、彼女の貴族らしからぬ一面を知ってもなおのこと、僕は彼女を愛しいと思ってしまった。
それどころか、前よりもっと、好きになってしまった。
「僕の方こそ、君と結婚できて、本当によかったと思っているよ」
僕は彼女の口の端についた食べカスをそっと拭った。
「僕は頼りない夫だ。妻に魔物の討伐を頼むような腰抜けだ。そんな男と夫婦であることに、君の方は、嫌気がさしたりしないのかい?」
「しませんわ」
メアリは即答した。
「旦那は頑張っているじゃありませんか。自分にできることを精一杯やられているじゃありませんか。わたくし、そんな旦那様を尊敬していますのよ」
「メアリ……」
「それに旦那様の焼く鳥は絶品でしたわ……。わたくしあれ大好きです。旦那様、料理のセンスがありますわ。是非また焼いてくださいね」
結局飯か……。
まあ、どんな形でも、好きだと言ってもらえるのは嬉しかった。
「君のためなら毎日だって焼くよ」
「毎日は飽きるからけっこうですわ」
「……じゃあもっと他にもなにか作れるようになるよ」
「素敵!楽しみにしていますわ!」
貴方の料理を毎日食べたい。
いつか彼女にそう言ってもらえるよう、僕は料理の腕を磨くことにした。