固着性
都会は文字通り、ごみごみとしていた。
人、車。毎秒蠢く雑踏。歩けば落ちているゴミが足に当たり、鼻をひくつかせれば肛門を拭いたトイレットペーパーのような香りがした。
息苦しい……。そう感じた彼は立ち止まり、遠くを見つめる。尤も、伸ばした視線はすぐに目の前のビルに衝突し、ギラッと跳ね返る太陽光に目を背ける。
せめてこの精神だけでも逃がしたい、と彼はそのまま目を閉じ、思い馳せる。連なる木々。流れる小川。風に揺られ……
「おい、おーい」
「あ、うん、なんだ?」
「まーた、別世界へ行ってたのかよぉ」
オフィス街。小さな広場のベンチに座る男に声をかけたその同僚はキキッと笑った。
「仕方ないだろ。お前だって、どっか行きたくなるときがあるだろ……」
「まーた、その話かぁ。現代人に多いんだよなぁ。なんて言ったっけなぁ。ホームシックじゃなくて、ええと何とか症候群とかでもなくて」
「なんでもいいよ、どうせ馬鹿にしたような言い方なんだろう。この都会の人間が作ったさぁ。そういうのが嫌なんだよなぁ」
「お前も都会暮らしの都会勤めだろうが。何なら都会育ちだし都会人間だ」
「いいんだよ今それは。たまにはどっか自然豊かなところに行きたいなぁって話だよ」
「まあなぁ。風に揺れる木の影」
「鳥の囀り」
「川のせせらぎ」
「広い青空」
「心温かな田舎の人……ふっ、ひひひっ! キキキッ!」
「笑うなよ。良い感じに思い浮かんでたのに……。なあ、今度休みを取って一緒に田舎に旅行にでも行くか」
「冗談よせよ。行くならせめて海外の観光地だろう。田舎は危険だ」
「二人いれば大丈夫だろう」
「ばっか。二年前に大下のやつが登山に行って死んだの忘れたのかよ」
「ああ、そうだったな。油断して酸素マスクの替えを忘れたってな」
「違う違う。連中に奪われたんだよ、田舎のな」
「ええ? でも大下が行った辺りは確かまだ空気が綺麗で」
「いいや、もう大分汚染されてたってよ」
「うへぁ、この国の、いや世界の汚染は歯止めがかからないなぁ」
「環境に配慮せず、好き放題やったツケが見事に回ってきているなぁ。ムカつくぜ。その連中は墓の中でぐっすりだ。まあ、こういった都市部はうまくやっているが」
「ああ、システムが機能しているが、それでもやっぱりどこか息苦しく感じるんだよなぁ……」
「田舎よりはマシだ。連中はまだ古い自動車を乗り回し、クソもそのまま川に垂れ流しているってな」
「政府が出した環境政策についていけない企業はこぞって田舎に逃げ出したってなぁ。そのせいでどこもかしこもあっという間に荒れたってね」
「ああ、それで田舎の連中ときたら大気汚染のせいで全身が毛深くなり、喉にまで毛が生えるようになったからな。それに目だってこぉーんな風に常にひん剥いてよぉ」
「それもまた進化の道なのかねぇ。でもまだどこかに綺麗な場所はあると思うんだがなぁ」
「キキキ、あるもんか。どこもみーんな同じさ。だから田舎者は一目でわかる。毛を剃っていてもな。ほら、あそこ」
「ああ、さっきからそこにいるやつか。キキキッ」
「そう、聞き耳立てているんじゃないか? キキキキキッ!」
と、彼は耳まで顔を真っ赤にし、慌ただしくその場から離れた。
後ろから耳を刺すような笑い声がする。早く離れなければと思うほど、前傾姿勢になり、やがて彼は地面に手をついて走り出した。その姿を見て、「田舎者だ」とまた笑い声がし、彼は前から吹く風を躱そうとするように頭を、精一杯整えた髪を振り乱し、ひた走った。無我夢中。行く先など考えていないはずが彼は無意識に来た道を引き返していた。
そうすることで心が落ち着いていくことを彼はじわじわと自覚し、そして自分が乗ってきたバス会社の小汚いバスを目にすると、溢れんばかりの安堵感に涙をこぼしそうになった。
バスに乗り込み、座席に腰を下ろした彼は、未だ激しく脈打つ心臓、胸に手を当て大きく深呼吸した。
むせ返り、大きく咳をすると向けられた周りからの視線にさっと顔を伏せる。やはり、ここの空気は自分には合わないな。彼はふとそう思った。
『バス、発車しまーす』
走り出したバスの窓から外を眺め、彼はこの冒険と呼ぶにはあまりに短いその山場を思い出し、震える。
都会の連中はなんと悍ましいのだろう。痩せこけ耳を劈くような高音で笑うあれらはまるでネズミのようじゃないか。
鮮やかな色、華やかな生活を夢見て勇気を出し、田舎からここまでやって来た彼は、都会から離れ、空を覆う灰色の煙が徐々に色濃くなっていくその様を見ながら、静かに涙を流したのだった。