88.蚩尤
「グルッ!?」
つい先ほどまで様子を窺っていただけの魔狼王が、大きく跳躍してカイムと距離を取った。
攻撃を受けたわけではない。魔法の発動を感じ取ったわけでもない。
ただ……カイムの身体から放たれている威圧感が、明らかに性質を変えていることに気がついたのだ。
「野生の勘か……流石だな」
警戒する魔狼王に称賛を贈りながら……カイムは自分の身体の状態を確認する。
闘鬼神流、秘奥の型――【蚩尤】
それは闘鬼神流に八つ存在する秘技の一つであり、人間の魔力の源であるチャクラを全開放することで限界を超えた魔力を放出する技である。
通常、人間は八つのチャクラのうち一つしか開放することはできない。達人と呼ばれる戦士や魔法使いであっても、三つか四つがせいぜいだ。
それを同時に八つも解き放つとは離れ業を飛び越して自殺行為。全身の魔力を使い切り、衰弱死しかねない荒業だった。
カイムの父親であるケヴィンも【蚩尤】の発動時間を五分に限っており、それ以上の時間使い続ければ、魔力を絞り切って干物になってしまうだろう。
「俺の魔力でも三十分が限界というところか……扱いづらい技だな」
カイムは肩をすくめる。
『毒の女王』――『魔王級』の災厄から魔力を引き継いだカイムですら、三十分の発動がやっとの様子。
それがどれほどの異常であるか、カイムは気がついていなかった。
「闘鬼神流の奥義は八つ。これで一つ修得できたとして……残りは七つか」
残りの七つがどんな技であるかすら、カイムは知らない。
こんなことならば、父親を締め上げて聞き出しておけば良かったと少しだけ後悔した。
「まあ、いいさ。いずれ全てをものにしてやろう。そのためにも……」
「グルルルルルッ……」
「眼前の敵を倒さなくちゃいけないな。決着をつけようか?」
カイムは軽く肩を回しながら、唸り声を上げている魔狼王を睨みつけた。
戦いの準備は整った。後は決着をつけるだけである。
「お前との出会いに感謝しよう。おかげで、俺はまた強くなることができた……!」
カイムが地面を蹴り、魔狼王に向かって飛んだ。
もう小細工はしない。正面から巨大な狼の顔面を殴りつける。
「ギャンッ!」
横面を殴られて、魔狼王が初めて苦悶の声を漏らす。
「フンッ!」
そのまま魔狼王の体毛を掴み、力任せに投げ飛ばす。
カイムの何倍もの大きさがある魔狼王が、抵抗もできずに宙を舞った。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
それでも、流石は魔境の主である。
宙を回転しながら、咆哮の衝撃波をカイムに向けて放ってきた。
「喝アアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
しかし、カイムもまた腹の底から声を発して衝撃波を相殺した。
音や声を操るなどという能力はカイムにはない。ただ腹に力を入れて思いっきり声を出して、強引に打ち消しただけである。
「ただ怒鳴っただけでそれが攻撃になる……これが【蚩尤】!」
どんどん湧き出してくる力に興奮しながら、カイムは飛んでいく魔狼王に向けて距離を詰めた。
地面に着地すると同時に、魔狼王が接近してくるカイムを爪で迎え撃つ。
「ハアッ!」
日本刀のように鋭い爪が襲いかかってくるが、カイムはそれを裏拳で叩き割る。
そして、無防備になった魔狼王の胴体にボディブローを喰らわせた。
「ギャウッ!」
「かーらーのー……うらあっ!」
ボディへの打撃で怯んだ魔狼王に、今度は渾身の蹴りを浴びせかける。
魔狼王の巨体がボールのように跳ねながら地面を転がり、大木の幹に衝突した。
ただ殴る。ただ蹴る。
【蚩尤】を発動させるとあらゆる身体能力が向上し、殴る蹴るだけの行動が必殺の一撃へと変化する。
【蚩尤】を発動している状態だと、【青龍】や【麒麟】のような他の技を発動させることはできない。
ひょっとしたら出来るのかもしれないが……チャクラ開放による膨大な魔力を圧縮させて維持するのが精いっぱいで、それ以上の技が使えないのだ。魔力を毒に変換することすらできない。少なくとも、今のカイムの力量では。
(だが……それでいい。今はそれで十分だ……!)
まるで竜を飲み込んだように力が湧いてくる。
灼熱のマグマのように噴き出すエネルギーを打撃に変えて、叩く、叩く、叩く。
(もっとだ! もっともっと強く……!)
カイムは限界を超えて強化された肉体で魔狼王を殴りながら……心の中で吠える。
もっと強く。もっと速く。
どこまでも、ひたすらに強く強く強く……限界を超えたその先まで、ひたすらに強く!
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ガ……ウ……」
そうしているうちに、いつの間にか魔狼王は動かなくなっていた。
地面に倒れ伏し、そのまま力なく鳴いている。
カイムは戦闘が終了していることに気がついて、魔狼王を殴打する手足を止めた。
「終わった……」
終わった。勝った。
戦闘は終了している。【蚩尤】の発動から十分と経たない間の出来事だった。
あっさりと終わり過ぎて拍子抜けすらしている。出来ることなら、もっと戦いたかった……そんな思いが胸にあった。
「ム……」
【蚩尤】を解除すると、身体を包んでいた万能感が消えていく。
変わりにやってくるのは、やり遂げた満足感を孕んだ虚脱感である。フルマラソン……あるいは激しいセックスを終えた直後のような感覚だ。
「か、カイムさん?」
「終わったですの……?」
戦いが終わったのを見計らい、避難していた仲間達が戻ってくる。
ミリーシアとティーが木の影からカイムの方を覗き込み、倒れている魔狼王の姿に安堵の息をつく。
ロータスはレンカに抱き着いて震えていた。
レンカは困ったようにロータスの頭を撫でながら、ゆっくりと連れてくる。
「苦戦していたようだが……よくぞまあ、勝てたものだな」
「ああ、かなりギリギリだった。一歩間違えれば死んでいただろうな」
最終的には圧勝だったが……殺されたとしてもおかしくはない戦いだった。
実際、カイムが脳内で繰り広げたシミュレーションでは千回以上は殺されている。
「ど、どうしちぇ、狼の王様が……」
「ん……?」
「王様は、人をむやみに襲わないはず……だって、賢くて争いが好きじゃにゃいから……」
レンカに抱き着いたロータスが震える声で言っている。
「食べるためじゃなくて、ナワバリを荒らされたわけじゃなくて……それで人を襲うだなんちぇ、ありえないです……」
「ありえないねえ……まあ、確かに最初から妙だったよな」
カイムは目を細めて、地に臥している魔狼王を見やる。
襲ってきたときに口にしていた『力を示せ』という言葉の真意もわからないし、戦闘中も殺気らしいものは感じられなかった。
魔狼王はカイムを殺そうとしていたというよりも、本当に試していたのではないだろうか。
「もしも手加減をされていなかったら、こうも簡単に勝利できなかったかもしれないな。【蚩尤】を使ってもなお簡単には勝利はできなかっただろう」
それは素直な感想である。
魔狼王は強い。あまりにも強かった。
今のカイムでは……あるいは、カイムの力の源である『毒の女王』でさえ、容易に勝利を収めることはできない難敵だった。
「お前の目的はなんだ? 何のために、俺達を襲ってきた?」
「…………グルル」
訊ねると……倒れていた魔狼王がゆっくりと起き上がる。
赤い瞳が向けられると、カイムの脳裏に人間の女性の声が響いてきた。
『強き者よ。あの子を任せた』
「あ?」
『共に生きよ。人の子は人の子として』
「おい、何の話を……」
「グウウウウウウウウウウウウウウッ!」
カイムが問うが……魔狼王はそれに答えることなく、こともあろうか自らの胸を爪で引き裂いた。
真っ赤な血液が噴き出して地面を濡らす。赤黒いシミが広がっていき、むせ返るような生臭い匂いに辺りが包まれる。
「なっ……」
「自殺しましたわ!?」
カイムはもちろん、その場にいた全員が息を呑む。
自らの胸を裂いた魔狼王は、さらに爪を奥へと突き刺していき……やがて身体の奥から赤い球体をえぐり出した。
「ま、魔石……」
ロータスがつぶやいた。
魔狼王が身体の中から取り出したのは魔物の魔力が凝縮した核……『魔石』と呼ばれるものだった。
魔石はどんな魔物にも存在するものだが、弱い魔物、若い魔物のそれは小さくて体内から見つけ出すことも困難だ。
しかし……魔狼王ほどの古き魔物の魔石は人間の頭部ほどの大きさがあり、色も深紅で濃厚な魔力が伝わってくる。
『うけとり、なさい……これは、たい……か……』
「おい! 勝手なことをぬかして死んでるじゃない! ちゃんと説明しやがれ!」
『…………』
カイムが叫ぶが……魔狼王はすでに息もなく返答はなかった。
カイムは苛立ちながら、大きく舌打ちをする。
「結局、何がしたいのかわからずじまいかよ……! 本当に何がしたかったんだ、コイツは!?」
「カイムさん……」
ミリーシアが痛ましそうな表情でカイムに声をかける。
カイム自身、自分がどうしてこんな風に苛立っているのかわからない。
だが……かつてない戦いに勝利したことへの爽快感は、強敵の自殺という思わぬ決着に吹き飛んでしまっていた。
一人、苛々としているカイムに仲間達もどうして良いのかわからず、困惑した様子になっている。
「ま、まあ、とにかく勝利したのだ。こんなところに立ち往生しても仕方がない。先に進もうではないか」
一同を代表して、レンカがカイムに声をかける。
「…………」
「その魔石ももらっていくとしよう。魔境の主の魔石ともなれば、城が買えるほどの金額がつくかもしれん」
「…………そうだな」
レンカの言葉に、カイムも大きく深呼吸をして頷いた。
ようやく倒した強敵が自殺するところを見せつけられて気が立っていたが……考えても見れば、魔狼王がどんな死に方をしたところでどうでも良いではないか。
どうして襲ってきたのかも関係ない。
人間らしからぬ狼の考えなど、わかるわけがなかった。
「……先を急ごう。血の匂いを嗅ぎつけて、他の魔物が集まってくるかもしれん」
「そうですね……魔境の主が倒れたともなれば、この森の生態系が根本から崩れてしまうかもしれません。巻き込まれる前に森を出ましょう」
ミリーシアの言葉に、ロータスがコクコクと頷く。
「お、狼の王様が倒れたら、次の主を巡って戦いが起こるでしゅ。早く逃げにゃいと巻き込まれて…………ふえ?」
不意に言葉を止めて、ロータスが背後を振り返る。
すると……森の茂みがガサガサと揺れて、小さな影が飛び出てきた。
「ふあっ!?」
「あ……?」
目の前に現れたそれの姿に、カイムが思わず眉をひそめる。
茂みから飛び出てきたのは小柄な少女……否、『幼女』と言っていいような年齢の娘だった。
「あー……うー……」
金色の髪を伸ばしてボサボサにした幼女は、赤い虚ろな目でカイムを見つめて小さく唸るのであった。
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