87.魔狼王
「オオオオオオオオオオオオオオオッ!」
カイムが全身から魔力を振り絞っていく。
この旅の道中、幾度か強敵と呼べる敵と戦ってきたが……これほどまでに力を発しなければならない敵は初めてだ。
遠慮はいらない。するつもりもない。
カイムは最初からフルスロットルで魔力を放出し、目の前の難敵に立ち向かう。
「紫毒魔法――『王水』!」
カイムの身体から放たれた膨大な量の魔力が、強力な酸へと性質を変える。
万物を腐食して溶かしてしまう最強の酸。液状化した魔力が大蛇となって巨狼に向けて襲いかかった。
「毒に溺れろ!」
「ガルウッ!」
リュカオンの長――『魔狼王』とでも呼ぶべき怪物が背後に跳ねて酸を躱す。酸の大蛇が地面に喰らいつき、草木と土を溶かしてクレーターを作る。
「逃がすかよ! 喰い殺せ!」
カイムは毒を操作して魔狼王を追撃した。
強酸の大蛇が木々を巻き込んでうねりながら、駆けまわる魔狼王を追いかける。
魔狼王は四本足で飛ぶようにして木々の間を駆けていき、酸の大蛇をかすらせることすらしない。
「グルッ!」
それどころか、魔狼王が毒をかいくぐってカイムに攻撃を仕掛けてきた。丸太のような巨大な腕と日本刀のような爪がカイムめがけて放たれる。
「クッ……!」
カイムはバックステップで魔狼王の腕を回避する。
地面が爪で引き裂かれて砂塵が舞う。もう少し回避が遅ければ、あの一撃で三枚に下ろされていたかもしれない。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「なっ……!?」
攻撃の射程外まで飛びのいたカイムであったが、魔狼王の咆哮がその身に浴びせられた。
強烈な咆哮が衝撃波となってカイムを吹き飛ばし、そのまま後方の巨木へと叩きつけられる。
「グッ……遠距離攻撃ができるのはそっちも同じってことかよ! やってくれるじゃねえか!」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「二度も喰らうか!」
再び放たれた衝撃波を横に飛んで避ける。
「飛毒!」
地面を転がり、すぐさま体勢を立て直して毒の弾丸を放つ。
ライフルのように狙いすました弾丸が咆哮を放った直後で動きを止めていた魔狼王に命中する。
だが……効果は薄い。白い体毛から焼け焦げたように白い煙が生じ、酸性の薬品臭が上がるのみ。魔狼王そのものにダメージは無さそうである。
「鋼鉄と同等以上の硬さの体毛か……凄まじい速さに防御力まで兼ね備えていやがる。まるで隙が無いとは恐れ入るぜ」
「ガルウッ!」
「ムンッ!」
再び接近して魔狼王が腕を振るってくる。
今度は避けない。カイムは圧縮した魔力を腕に纏わせ、斬撃に変えて迎え撃つ。
「闘鬼神流基本の型――【青龍】!」
刃に変えた圧縮魔力が魔狼王の巨腕が衝突した。
カイムの腕に宿った魔力の刃が魔狼王を斬り裂こうとする。同じように、魔狼王の腕に生えた爪がカイムを引き裂こうとしている。
魔力の刃と狼の爪。必殺の一撃同士が正面からぶつかり合い、互いに削り合って火花を散らす。
「グッ……!」
「ガウッ!」
衝突の結果は……相討ち。
必殺の一撃がお互いに相手を弾き飛ばした。
カイムが腕から血を流して吹き飛ばされ、地面を転がる。魔狼王もまた同じように地面を転がっていた。
「痛ッ……!」
腕に走る鋭い痛み。カイムが身体を起こして、奥歯を噛みしめる。
見れば、カイムの腕が爪で斬られて血が流れていた。傷は骨にまで達するほど深い。常人であれば致命傷になったことだろう。
「威力は互角…………じゃないよな」
悔しそうに呻きながら、少し離れた場所で転がっている魔狼王を睨みつける。
互角のぶつかり合いによる相討ち。一見するとそう見えた攻防であったが……ダメージの量は互角ではなかった。
カイムが腕を裂かれて血を流しているのに対して、魔狼王は爪が一本欠けただけで目立った傷はない。
案の定、すぐに起き上がってこちらに赤い眼を向けてくる。
「これは不味いな……本気で強いじゃないか」
カイムは表情を歪めながら、傷ついた腕を撫でて魔力を流し込む。
魔力による治癒力の強化。闘鬼神流のそれは一般的な戦士が使うそれとは次元が違うが、さすがにこれほどのダメージをすぐに完治することはできない。
片腕が使い物にならない状態で目の前の怪物と戦うとなると、いよいよ命の危機を感じてしまう。
対する魔狼王はほとんどノーダメージ。明らかな格の違いを見せつけられているようだ。
巨大な体躯から繰り出されるパワー。
大きな身体には似合わないスピード。
おまけにカイムの毒を浴びても腐食されることのない体毛を持ち、爪は名刀の鋭さ。
魔境の頂点に君臨する狼は伊達ではない。とんでもないチート級の怪物である。
圧倒的な力で勝利を収め続けてきたカイムでさえ、これまでの戦い方で目の前の巨狼を倒せるビジョンが浮かばなかった。
このままだと、殺されてしまうのも時間の問題である。
「となると……限界よりもその先、さらにレベルを上げる必要がありそうだな」
久しぶりに感じる死神の刃。命を引き裂かれんとする感覚に、カイムはかえって精神が研ぎ澄まされるのを感じていた。
死の恐怖よりも先に予感がある。
この敵を倒せば、自分はさらに強くなることができるという予感が。
自分ならば……必ず、そこにたどり着くことができるという確信があった。
「フー……」
カイムは精神を研ぎ澄まし、魔力を練りに練った。
先ほどのように無駄にタレ流しにしたりはしない。膨大な魔力を一滴すらも逃すことなく、圧縮魔力として再構築する。
「グルルルル……」
魔狼王は力を練っているカイムに追撃することはせず、間合いを取って様子を窺っていた。
試されているのか、それとも舐められているのか……どちらにしても、カイムにとっては好都合である。
(そのまま余裕ぶってろよ……すぐに追いついてやる)
そうやって魔力を練る間にも、カイムは脳内で無数の模擬実戦を繰り返していた。
カイムは自分よりも強い相手と戦った経験が極端に少ない。
明らかな格上の敵など、父親であるケヴィン・ハルスベルクくらいのものだろう。
どこかのゲームではないのだ。自分よりも弱い相手と戦って得られる経験などない。戦士を成長させるのは強敵との戦い。命を削り合う死闘だけである。
カイムは闘鬼神流という東方無双の古武術を、父と双子の妹の鍛錬を盗み見するだけで修得した。
圧倒的な武術の才能。巨大なダイヤモンドの原石がかつてない命の危機によって研磨され、形作られていく。
「オーケー。準備完了だ」
脳内で数千回、数万回と魔狼王と戦うことにより、カイムは目の前の敵を屠る手段を構築した。
カイムの全身を極限まで練りこまれた圧縮魔力が包み込む。
「闘鬼神流、秘奥の型――【蚩尤】!」
それはかつて、父親がカイムを殺すためにと使用した奥義。
たった一度、目にしただけの闘鬼神流の秘技が一人の天才の手によって再現されようとしていた。




