82.魔境の脅威
リュカオンの森。中層。
本格的に魔境に足を踏み入れるにあたって、案内役であるロータスが背嚢を下ろして中を手で探る。
「ここからはコレを握っていてくだしゃい。絶対に離さないように気をつけて……」
「これは……ロープか?」
ロータスが背嚢から取り出したのは太いロープだった。金属が編み込まれているのかずっしりと重く、通常の刃物では切断も難しそうだ。
「命綱でしゅ。はぐれるといけませんから、絶対にはなしゃないで」
「それは構わないが……大げさすぎないか? そこまで視界が悪いようにも見えないが……?」
「ここはもう魔境の一部でしゅ。まっすぐ歩いているようでグルグルと回っている。前の人の背中を追っているようで、いつの間にか独りになっている……ここはそういう場所でしゅ」
「……了解した。案内人の意見に従おう」
カイムは実力こそ『侯爵級』の魔物にも引けを取らないが、冒険者としては素人である。熟練の案内人であるというロータスの進言に逆らうつもりはない。
振り返って後方の仲間に目配せをすると、ミリーシア、レンカ、ティーの三人はそれぞれ頷き返してくれる。
「それじゃあ、いきましょう。ゆっくり歩きましゅね……」
ロータスは慎重に、それこそ臆病すぎるとしか思えないような緩慢な足取りで歩いていった。
さすがに怪訝に思うカイムであったが……すぐにその意味を悟ることになる。
「…………!?」
森の中層に足を踏み入れて数分。急に視界がぼやけてきた。
霧が出ているわけでもないのに視界が霞む。前を歩いているロータスの背中が左右にぐらついて見える。
周囲にある木までもが揺れているように見える。まるで歩いているように……。
「いや……違う。本当に歩いているのか!?」
『見える』のではない。実際に動いているのだ。
その木々はゆっくりと地面から根を引き抜き、一歩ずつ、一歩ずつではあるが着実に移動している。
注意深く観察しなければ気づくことはできなかったが、周囲の景色は確実に変わっていた。
「『散歩する木』……魔境では普通に生息している魔物でしゅ」
「魔物? これが生き物だというのか!?」
後ろでレンカが驚きの声を上げる。
『散歩する木』と呼ばれたそれは動いてこそいるものの、外見上は普通の木と変わらない。魔力だって感じ取ることができず、カイムの目にもただの植物に見えた。
「ストローク・ツリーは植物だけど魔物でしゅ。ちゃんと魔力だって持ってます。感じ取ることができないのは、辺り一帯に魔力を帯びた花粉を飛ばしていて感覚を麻痺させているからでしゅ」
「魔力の花粉。そうか……どうりで目が霞むと思ったら、これの仕業か」
カイムが腕で目をこする。
『毒の王』であるカイムには薬物の類は効かない。しかし、花粉などによるアレルギー反応は別である。
先ほどから目が霞んで周囲の景色がぼやけているのも、魔力による感知能力が鈍っているのも、周囲一帯を魔力の花粉が包み込んでいるからだろう。
「これは……さすがは魔境ですね。命綱がなかったら、全然、別の方角に歩いていたかもしれません」
「がう、はぐれたら合流できる気がしませんの。獣人の鼻も鈍ってますの」
ミリーシア、ティーも花粉に顔をしかめている。
実際、背後を振り返ってみると、先ほどとはまるで別の風景になっていた。もはや来た道を引き返すことすら至難である。
「ロータス、お前はどうやって方角を判別しているんだ?」
「あうっ……えっと、その……勘、でしゅ」
「勘? 勘だって!?」
「そ、そうでしゅっ! お、怒らないでくだしゃいっ!」
ロータスが振り返り、ロップイヤーの耳をピクピクと震わせた。
「別に怒ってないが……直感だけで、この森を抜けることができるのか?」
「は、はひっ、私はおじいちゃんに連れられて、この森に来てましたからっ! な、なんとなく、どっちがどっちなのかわかるのでしゅ……」
「……理屈ではなく、経験というわけか。真似できる気がしないな」
一部の魚は川から海に旅立ち、世界中を巡った後に生まれた川に戻ってくるという。
道しるべはなく、方位磁針など持っていなくとも、思考や記憶を超越した本能が進むべき道を理解しているのだ。
「だいじょぶ、です。この花粉の効果は長くはないでしゅから、すぐに慣れて目もしっかり見えるようになるです。だけど……もっと奥に進んだら魔物も出てきましゅ。その、私だけなら、隠れてやり過ごすでしゅけど……」
「そっちは問題ない。俺達に任せてもらおう」
不安そうに振り返ってくるロータスに、カイムは力強く頷いた。
「得意分野くらいはカッコつけさせてもらおうか。君は道案内だけに専念してくれればいい。戦闘は任せておけ」
「……………………はいでしゅ」
ロータスは不安そうな顔でへにゃりと耳を揺らし、前方に視線を戻したのである。
半信半疑。会ったばかりで、カイムらの実力を信用できていないようだ。
(本格的に良いところを見せておかないと、さっさと逃げてしまいそうだな……)
彼女に逃げられたら、自分達は全員遭難である。
信頼関係を築くためにも、危なげなく魔物を倒せるところを見せなければ……カイムはそっと心に誓うのであった。
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