207.開戦ー浅薄愚劣
津波となって押し寄せる毒の息吹。
その勢いはアーサーによって率いられた軍勢六万を丸吞みせんばかりである。
「ウワアアアアアアアアアアアアアッ!」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
迫りくる濁流を前にして、西軍の兵士達から悲鳴の声が上がった。
毒々しいまでの紫色をしたそれは命の危機を感じさせるには十分であり、前方にいた兵士達が身体が芯から凍えるような恐怖を感じた。
「まったく……いきなり働かせてくれるわねえ」
だが……西軍もただ黙って毒に呑まれはしない。
一人の女性が軍勢の頭上に出現して、毒の息吹に向かって右手をかざす。
「最上位範囲結界魔法――【大天使の聖域】」
虚空から出現したのは煽情的なローブを身に纏った女魔法使い……アーサーの側近中の側近である大魔法使いマーリンである。
マーリンの周囲にいくつもの幾何学な魔法陣が出現して発光。次の瞬間、半透明のドームが西軍を包み込むようにして出現した。
結界に阻まれて毒の息吹が避けていく。毒を浴びてしまったのは前方にいた一部の兵士だけだった。
「結界……ミリーシアがやっているのと似たようなものか?」
似たようなものであるが……強度とサイズは段違いである。
カイムの最大級の魔法を見事に防いで、軍勢を守って見せた。
「結界は神聖術の分野じゃなかったのか?」
「長く生きているからねん。それくらいできるわあ」
カイムの独白にマーリンが答える。
宙に浮かんでいる二人の距離は百メートル以上は離れていたが、その言葉は自然と耳に滑り込んでくる。
「『毒の女王』……貴方が出てくることはちゃんと予知していたわ。対策をいくつか練っていたけれど……いきなり切り札を使わせてくれるとは、疲れることをしてくれるじゃないの」
「俺のどこが『女王』だよ。俺は『毒の王』だ」
カイムは鬱陶しそうに答えて、指を鳴らす。
バチンッと大きな音が鳴って火花が発生し、それが毒の息吹に引火する。
「【死爆】」
瞬間、爆炎が戦場を包み込む。
結界によって阻まれていた毒ガスによって炎が燃え広がり、黒い煙と煤によって戦場が二分される。
「今だ……突撃いいいいいいいいいいいいいいいっ!」
そして……東軍の後方でランスが声を上げる。
ビューグルと呼ばれるラッパが吹き鳴らされ、甲高い金管楽器の音を合図に軍勢が動き出す。東軍の兵士が一斉に突撃して西軍に向かって行く。
この流れは事前にランスと話し合って決めていたものである。
開口一番で強力な魔法をぶつける。毒ガスを撒き、火を点けて敵の視界を阻んで、その隙に突撃するという作戦だったのだ。
「怯むな! 全軍、突撃せよ!」
そして、アーサーもまた自軍に向けて叫んだ。
騎馬に跨った騎士が駆け、槍を構えた歩兵が敵に向けて突進する。
「敵軍を食い破れ! ランスの首を獲れ!」
最初の毒ガス、爆炎によって兵士の一部が動揺していたが……アーサーの怒号にはそんな混乱を吹き飛ばせるような『圧』があった。
「ギャアアアッ!」
「グエ、たすけ……」
悲痛な悲鳴を上げたのは西軍前方にいた兵士達である。
彼らは前方にいたためにマーリンの結界が間に合わず、毒を浴びてしまっていた。
カイムが放った【獄界】は攻撃範囲を広げるために毒の強さ下げてしまっている。放たれた毒は致死性のものではなく、身体を麻痺させる程度の威力しかなかった。
「グギャ……」
「ガハ……」
だからこそ、毒を浴びてしまった兵士達の末路は哀れである。
身体が痺れて動けなくなってしまったところに両軍が突撃。無数の兵士や騎馬によって身体を踏まれることになってしまったのだから。
「ク、クソオオオオオオオオオオオオオオオッ……!」
西軍前方にいた兵士……ランスからアーサーに鞍替えした黒竜騎士団。
彼らは裏切り者の最期として相応しく、怨嗟と苦痛の叫びを上げながら踏み殺されてしまったのである。




