194.裏切りの影
ランス・ガーネットのお膝元。港の交易都市ベーウィックでは、刻一刻と来るべき戦いの準備が進められていた。
敵は強大、格上の武闘派王子。おまけに主力の一つであった黒竜騎士団の半数が敵側に寝返ってしまっており、ランス陣営は大きく不利に陥っている。
唯一、救いがあるとすればランスの側にミリーシアがついたことだ。
ミリーシアは優秀な神官である。心優しい性格、美貌の容姿から民衆の支持も厚い。
ベーウィックの町に到着してからというもの、ミリーシアは神聖術を使って傷病人の治療に励んでいる。
皇女という地位でありながら、怪我人や病人に丁寧に接しているミリーシアに、人々は誰もが好感を抱いた。
治療を受けた人々は「ミリーシアのために」と、ランスを国王にするべく協力を惜しまなかった。
一騎当千の力を持った『毒の王』であるカイムが参入したことも大きい。
青狼騎士団の副団長であるオーディー・イスコーに因縁を吹っ掛けられ、決闘騒ぎにはなったものの……雨降って地固まる。オーディーは自分を倒したカイムを兄貴分として慕うようにより、仲間の絆が芽生えたのである。
「……来たぞ」
「おお……よくぞ、お越しくださいました」
だが……町が一丸になりつつある一方で、不穏な動きをしている者もいた。
時間は深夜。場所はベーウィックの町の大通りにある、とある商店の二階。
交易都市ベーウィックの経済を牛耳っている商業ギルド……そのギルドマスターであるエイブスの私室だった。
「お待ちしておりました。どうぞ、そちらにお掛けになってください」
深夜の客人を出迎えたのはこの部屋の主であるエイブスだった。
いかにも裕福な商人らしくデップリとした腹を揺らして、朗らかな笑顔を顔に張り付けて客を出迎える。
「…………」
一方、勧められた椅子に座ることなく直立しているのは、黒いフードを被った人物。
それだけでも怪しいのだが、性別も年齢も不明なその人物は顔に白いマスクを被っていた。
「用件は?」
マスクの人物が淡々として訊ねる。
感情のない声に得体の知れないものを感じながら、エイブスが媚びるような笑みで口を開く。
「以前、お誘いいただいた件に応じたいと思います……私はアーサー殿下の側に付かせていただきます」
マスクの人物の正体は第一皇子アーサーの配下。
大魔術師マーリンの弟子……『湖の乙女』と呼ばれる魔術師団のメンバーだった。
エイブスは以前より、アーサー陣営から調略を受けている。
地位と財産の保証、いずれこの町の領主に任ずることを条件として提示され、ランスを裏切るように誘われていた。
これまで、エイブスはその勧誘を保留し続けていた。
報酬は魅力的であったが、裏切りには相応の覚悟がいる。
失敗したら間違いなく悲惨な目に遭うし、成功したとしても周りから白い目で見られるようになる。
信用を重んじる証人としては、致命的だった。
(とはいえ……沈む船に乗っているわけにはゆかない。ランス殿下には世話になったが、あのお人好しの間抜けのために死ぬわけにはいかないからな)
エイブスは心中で毒を吐く。
エイブスに裏切りを決意させた切っ掛けは、黒竜騎士団団長の裏切りである。
ただでさえ不利だった情勢下での大幅な戦力ダウン。もはや、エイブスにはランスが泥船にしか見えなかった。
(勝ち馬に乗り換えるのは早い方が良い……戦いが始まってから寝返るのでは遅すぎる)
敗北が決定的になってからの裏切りよりも、勝敗が着く前に裏切った方が、相手の心証が良い。
証人としての信用は失墜するだろうが……町ごと滅ぼされるよりは遥かにマシである。
「そうか……マーリン師に良い報告ができそうだ」
エイブスの言葉に、『湖の乙女』の魔術師がマスクの下で笑ったような気がした。
しかし、喜色が滲んだのは一瞬のこと。すぐに硬い雰囲気が戻ってくる。
「だが、手ぶらでの裏切りは認められぬ。アーサー殿下に忠誠を誓うのであれば、相応の証を立てていただこう」
「……当然ですな。大きな取引です、手形は必要でしょう」
エイブスは自らの忠義の証明として、手に入れたばかりの情報を売り飛ばすことにした。
「明後日、アトラウス伯爵と中立派貴族の軍勢が我が町の戦力として加わります。彼らは密偵の目を避けて、街道を外れた峠を通って合流するとのことです」
「フム……」
「峠は人目に付かず、身を隠せる場所も多い……よろしければ、町に到着する前に奇襲を仕掛けて、各個撃破しては如何でしょうか?」
「…………」
エイブスの提案を受けて、マスクの魔術師は考え込むように沈黙した。




