爪切りと私
今日、爪を切った。
椅子に座って、足の間にゴミ箱をセット。
まずは、右手に爪切りを構える。左手をゴミ箱の上にかざして、親指から切っていく。深爪にならないように慎重に。パチッ、パチッ、パチッ。親指から人差し指、中指、薬指と切り進め、小指まで切り終われば左手は完成だ。
左手に爪切りを持ち替えて、今度は右手をゴミ箱の上にかざす。親指から小指まで、同じように慎重に切っていく。
右手も切り終わったら、爪切りの中に残っている爪をゴミ箱に捨てる。右手をチェック。左手もチェック。我ながら完璧な仕事だ。
ゴミ箱の中には爪が捨てられている。三日月型で乳白色。大きさは様々だ。ついさっきまで私だったものだ。そして、今は私ではないもの。この爪は、一体いつまで私だったのだろう。
私はいろいろな要素から構成されている。顔があって、手があって、足がある。髪があって、目があって、口がある。鼻だって持っている。目が悪いので、眼鏡もかけている。眼鏡は私の一部だが、今回は遠慮してもらったほうがいいかもしれない。
私が髪を切ったら、私から切り離された髪は私だろうか。違う気がする。では、もし右腕を切り離せばどうなるだろうか。右腕は私と言えるだろうか。
もし、私が真っ二つになっても死なない不思議生物だったとして、頭から縦に真っ二つにされたとしたら。あなたが落としたのは右の私ですか、左の私ですか。金の私が出たら、おもちゃの缶詰をプレゼント。
私って何だろう。
この難問に、明確な答えを出したと主張しているものがある。意外にも仏教だ。
物理学では、物体は、観測されて初めてその存在を確定させると考える。仏教でも出発地点は同じらしい。
私が存在するのは、私以外の他者が私を観測したから。
では、私を観測する私以外の他者は、なぜ存在するのだろうか。私を観測する私以外の他者を、私が観測したからだ。
では、私を観測する私以外の他者を観測する私は、どうだろうか。私を観測する私以外の他者を観測する私を観測する私以外の他者が、私を観測したからだ。
何だこれ、一生終わらないじゃないか。
この終わらない設問に、釈迦は大胆な論理展開で答えを出した。いわく、終わらない問いに意味はないらしい。
「私は存在するのか」という問いが無意味ならば、私の存在は無意味になる。そうやって、私というくびきを取り去って、外側の視点から私と世界を定義し直していくのが仏教なのだとか。
私という存在が無意味なのだから、私から発生する苦しみや悲しみもまた、無意味である。そこにはだた、原因から導かれた結果があるだけで、結果が定まったことで生まれた原因があるだけだ。
そうやって、今日のセールの目玉、たまご十個入り一パック一〇八円(税込)を買いそこねた悲しみをやり過ごしている。