旅行
一昔前に取った小型クルーズの免許が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
薩川一太は、一過性の海釣り熱がもたらした出費と労力が、全くの無駄に終わらなかったことについて、人生とは分からないものだなと、妙な感慨を覚えていた。
思い返してみても、つくづく不思議な旅行であった。旅行の醍醐味が非日常にあるとすれば、ここ数日間はまさしく「旅行」であった。
まず、きっかけからして、それは日常の線上からかけ離れていた。
旅行のきっかけとなったのは、突如送られてきたメールであり、その差出人は、疎遠となっていた親戚だったのである。
メールの送信者は、薩川沙耶斗、一太の叔母の子ども、つまり、従兄弟であった。
沙耶斗とは、一太が十代の頃には、年末年始の親戚の集まりなどで顔を合わせていたのだが、一太が実家を出てからは一度も会っていなかったはずである。
沙耶斗はベンチャー企業を立ち上げて社長をやっているという噂はどこかで聞いたが、その真偽も分からないし、その噂をいつどこで聞いたのかも思い出せなかった。
そんな沙耶斗から、突然、一太にメールが届いたのである。
無論、メールアドレスを沙耶斗に教えた覚えもない。一体沙耶斗がどうして一太のアドレスを知っているのかということ自体、一太にとって首を傾げたくなることだったが、さらに首を傾げざるを得なかったのは、その内容だった。
そのメールには、時候のあいさつと、疎遠となっていたことを詫びる言葉に続き、旅行の誘いが書かれていたのである。
「ふと自分の人生を振り返ってみたときに、自分と血のつながりのある方々といつの間に疎遠となっていることが、とても勿体ないような気がしてきました。幸運によって、私が経営する会社にはそれなりの売り上げがあり、お金にも時間にも余裕があります。そこで、誠に勝手ながら、親戚の皆様との旅行を企画しました。交通手段、行程、必要なツアーの予約等はすべて私の方で用意しますので、皆様には労力的にも金銭的にも一切の負担はございません(お土産を買う場合は別ですが)。ぜひご参加いただき、久々に「水入らず」の関係を楽しんでいただければと思います」
メールは、一太に対して個別に送信されていたが、おそらく文面的に、他の親戚にも同様の内容のメールが送られているのだろう。
何かの悪ふざけかと思いながらメールを読み進めていた一太だったが、メールの末尾に示された緻密な行程表を見て、少なくとも沙耶斗は真剣であることが分かった。
最初は返信する気もなかったが、メールを最後まで読み切った一太の心は完全にすり替わっていた。
一太を支配していたのは、好奇心であり、探究心だ。ただし、それは旅行そのものに対して向けられたものではない。
対象は沙耶斗である。
一体沙耶斗が何のために疎遠になっていた親戚を旅行に誘い、その旅行で一体何を実現するつもりなのか、ということが純粋に気になった。
お手並み拝見、という感覚に近いのかもしれない。
気持ちさえついてくれば、一太には参加のハードルはなかった。
一太は投資で生計を立てているため、おそらく沙耶斗以上に「お金にも時間にも余裕がある」。旅行に参加するのにスケジュールを調整する必要もなければ、機会損失を気にする必要もない。むしろこの沙耶斗が提案してくれた旅行こそが、一太が日頃熱望している最適の「暇つぶし」なのではないか。
そこで、一太は、一言、「旅行に参加します」とだけ返信した。
しばらくの間、返信はなかったが、数日後、沙耶斗から、メールで、飛行機の予約番号が送られてきた。
沙耶斗の提案した旅行当日となり、待ち合わせ場所として指定された空港の国内線ゲート前に到着した一太は、まず、自分が思いつく「親戚」のほとんどがこの旅行に参加していることに驚いた。
一太の妹の薩川安曇、弟の薩川幹康とその妻の薩川未優、従姉妹の薩川月奈がすでにキャリーケースを持ち、ゲート前の時計の前に立っていたのである。
みんながみんな一太のように時間を持て余しているわけではないと思うので、もしかすると沙耶斗が費用を全て負担するという条件が彼らにとって魅力的に映ったのかもしれない。
もっとも、一太にとっての最大の驚きは、沙耶斗本人のドタキャンだった。
空港でいくら待っても沙耶斗は現れず、搭乗予定時刻直前、親戚たちに一斉に謝罪メールを送られてきたのである。
「すみません。急な仕事が入って、旅行に行けなくなりました。私がすべて根回しをし、費用も支払ってあるので、私なしでも旅行の全行程を楽しむことができるはずです。ですので、皆様だけでお楽しみください」
集まっていた他の親戚同様、一太も開いた口が塞がらなかった。
一から旅行を計画し、親戚たちに連絡を取り、それなりの出費をしておきながら、「急な仕事」ごときで肝心の自分自身が旅行に参加しないということが理解できなかった。もしかすると会社の存亡にもかかわるほどの「急な仕事」なのかもしれないが、だとしても、うまく調整することはできなかったのだろうか。
突然凍りつくほどの冷や水を浴びせられたわけだが、空港に集まった5人に、進路変更を検討する時間など微塵もなかった。
5人は空港のアナウンスに追い立てられるように搭乗ゲートをくぐり、出発ギリギリで最後の空席を埋めたのであった。
このようにスタートから想定外のトラブルに見舞われた5人であったが、その後の旅行は、沙耶斗の入念な準備によって、順調であった。
飛行機が到着したのは、九州の某県の空港であり、そこには沙耶斗が事前に用意していたリムジンが5人を待っていた。
5人はそのリムジンに乗り、沙耶斗の計画通りのルートを回った。おそらく沙耶斗は相当な旅好きであり、通なのだろう。
一太は九州には過去に何度も旅行に出掛けており、ここの県にも何度も訪れたことがあったが、沙耶斗の指示通りに訪れる先は、いずれも一太の知らない場所であり、観光マップにも乗らないようなスポットであった。
そして、そこでは必ず俊逸な景色と絶品料理が5人を待っていた。
あっという間に一太は、この旅行を楽しむようになっていた。
親戚たちとは、自分の弟妹を含め、かなり疎遠になっていた。
それでも共通する過去があり、共通する知り合いもいる分、知らない人と過ごすのとは全くわけが違った。
沙耶斗のメール通り、「水入らず」の関係となるまで、それほど時間を要しなかった。
無論、これには、旅行行程の面白さが大きく加勢しているとは思う。
5人は終始良い雰囲気に包まれていたのだ。沙耶斗の「お手並み」は、一太の想像を遥かに上回っていたのだ。
至れり尽くせりの旅行は、あっという間に4泊5日の全行程の半分以上を消化し、残り1泊となった。
最終日は、お土産の購入、及び、帰りの飛行機に乗るための移動等に大きな時間が割かれていたから、4日目は、観光ができる最後の日だった。
この日は、全行程の中でも、一太的にはもっとも興味深いスケジュールとなっていた。
沙耶斗が用意した5人の行き先は、聞いたこともない名前の無人島だったのである。
「一太兄さんは、運転してて酔わないの?」
妹の安曇が、小型クルーズ船のハンドルを握る一太に声を掛ける。自分はすでに船酔いを発症していることを自白するような、如何にも気怠そうな声だった。
「不思議と運転していると酔わないんだよ。車もそうだろ?」
「車だと運転しててもしてなくても酔わないんだけど、やっぱり船というのは特別なのね。正直言ってナメてたよ。こんなに波が強いなんて」
「今日の波は穏やかな方だよ」
「そうなの? じゃあ、私はクルーズ自体をナメてたんだね」
当然のことながら、公共交通機関等で無人島に行くことはできず、レンタルクルーズを借りて向かうしかなかった。
当初の予定では、沙耶斗がクルーズの運転手を務めることとなっていたが、沙耶斗の不参加により、沙耶斗以外で小型クルーズ船の免許を持っている一太が舵を握ることになったのである。
クルーズを運転するのは約5年ぶりだったが、港から無人島までは大して距離がなかったし、波も落ち着いていたので、不安はそれほどなかった。いざハンドルを握ってみると、わずかな不安さえも吹き飛び、運転に熱中してしまった。
クルーズの船内を見渡す限り、顔色が悪いのは安曇だけのようである。その安曇のことも大して心配する必要はないだろう。なんせ無人島のシルエットはもうすでにかなりはっきりと見えている。
「安曇、見てみろよ。もうすぐそこだぜ。建物もはっきり見えるだろ」
その無人島——不磨島には、ちょうど中央付近に一棟の建物が建っていた。
見た目としては特徴に乏しく、長方形をした、地方の役所のような建物である。そのなんら変哲のない見た目とは裏腹に、沙耶斗のメールによれば、その建物には「メビウス館」という、お世辞にも普通とはいえない名前が付されている。
不磨島には、そのメビウス館の他には特段目立つものは何も見えなかった。
まるで不磨島全体が、メビウス館の庭のような、そういった造りになっているのである。
「やっと着いたのね。砂漠でようやくオアシスにたどり着いた気分だわ」
安曇がクルーズ船の甲板を見下ろしたまま言う。
クルーズ船に乗っていたのはわずか30分程度だったので、安曇の例えはあまりに大袈裟過ぎた
このとき、一太は知る由もなかったのだが、この「オアシス」という例えは、大袈裟どころか、大きく間違っていた。
不磨島、そしてメビウス館は、癒しも救いも一切与えない。
それは、5人を死へと誘う「魔界」そのものだったのである。