読後感
「メビウス館の殺人」を読了した八雲は、フーッと大きく息を吐いた。
物語がクライマックスに行くにつれて高まっていた興奮を鎮めるためである。
この「メビウス館の殺人」はだいぶアクが強いものの、「新本格」という意味では、鴻守作品の中でも、かなり純度が高いように見える。
大胆かつトリッキーな構造の館、一見すると不可能犯罪に見える密室トリック、犯人自身が被害者を装う焼却炉のトリックなど、骨の髄まで新本格が詰まっている作品である。
新本格ファンの八雲は、オードブルを一皿平らげたかのような満足感を得ていた。
とはいえ、たしかに、秋田の言うとおり、この小説は何かがおかしい。
そしてその部分は、間違いなく、「犯人の独白」部分である。
具体的に何かがおかしいのかを言葉にすることはできないが、印象だけを述べれば、終わり方があまりにも唐突である気がする。
「画竜点睛を欠く」というよりは、「竜頭蛇尾」。
そんな印象だ。
八雲がもう一度最初から「メビウス館の殺人」を読み返そうと、表紙をめくろうとしたとき、電話の呼び出し音が鳴った。
ディスプレイに表示された番号は、秋田の携帯のものだった。
八雲が「メビウス館の殺人」を読んでいる間、秋田は営業先に出向いていたのである。
「もしもし、八雲社長。そろそろ鴻守先生の最新作を読み終わった頃ですよね?」
「なぜ分かるんだ?」
「社員なんで、社長の読書スピードは把握しています」
眉唾であるが、数年来の付き合いである秋田であれば、ありえない話ではない気もする。
「どうでした?」
「とても良かったよ。これはなかなか売れるんじゃないか。新本格ファンに見つからないはずがない」
「いや、まあ、そうかもしれないんですけど、八雲社長、僕が言っていた話覚えてますか?」
「ああ、覚えてるよ。最初と最後の独白部分がおかしいという話だろ」
「そうです。八雲社長もそう思いませんでしたか?」
「それは思ったよ。ただ、年のせいなのか、一読しただけじゃ指摘できなくてね」
「大丈夫です。そこは編集担当者の僕の仕事ですから。独白部分でおかしなところが、大きく分けて3つあります」
指摘すべき点をちゃんとまとめているあたり、さすが編集担当者である。
「まず1点目は、冒頭の独白です。この独白、犯人が幹康であると分かった上で読み返してみると、どこかおかしい点はありませんか?」
「えーっと、どこだ……」
「すぐに気付くはずです。ミステリとして致命的におかしいので」
八雲は、間違い探しでもするかのような気分で、視線を上下に行き来させる。
「……分かった! 分かったぞ! たしかにこれは致命的におかしい! 独白部分の犯人は『生涯独身』と言ってるじゃないか!!」
「そうなんです。本作の幹康は、明らかに既婚者です。4番目の被害者である未優が妻ですからね。それにもかかわらず、独白部分で『生涯独身を通している自分』と書くのは明らかなミスリードなんです」
ミスリードなんてものではない。これは明らかに虚偽であり、反則である。
「だとすると、鴻守先生にその旨を指摘して、独白部分の記述をカットしてもらえればいいんじゃないか? 別にこの記述がなかろうが、作品全体には一切影響はないだろ?」
「そうなんですが……」
秋田が言葉を濁す。
「どうしたんだ? 鴻守先生が修正に応じてくれないのか?」
「それが、そうなんです。単にカットするだけで、鴻守先生に加筆を頼むわけではないので、二つ返事で応じてくれると思いきや、頑なに修正を拒否してるんです」
「どうしてだ?」
「分かりません。理由は話してくれなくて」
察するに、と秋田は続ける。
「これは本当に僕の推察でしかないのですが、この作品、明らかに幹康が『犯人臭い』んですよね。いろんな場面で率先して行動しているのは幹康ですし、月奈殺しの際にタバコで中座するというのも怪しいですし、唯一死体が現認されていないのもピンとくる人にはすぐにピンときますよね。だから、鴻守先生は、幹康を犯人候補から遠ざけたかったのかなって」
八雲は、犯人が誰かということを真剣に推理しないままで読み進めてしまっていたため、「2」の客室で死んだはずの幹康が現れたときには、それなりの驚きがあったが、秋田に指摘されるとたしかにそのとおりのような気もする。
とはいえ、鴻守ともあろう人が、まるでつまみ食いをした子どもが、「つまみ食いはしてないよ」と嘘をつくような、そんな稚拙な手段を使って、読者を欺こうとするだろうか。
秋田の推察は、八雲にはあまりしっくり来なかった。
とすると、鴻守は、何らかの理由で、犯人が生涯独身であることにこだわっているように思える。
とすると、むしろ間違っているのは、幹康と未優が夫婦であるという認識であり、実は偽装結婚ということになろうか。
与えられた文章からそれを読み取ることは不可能に思えるが。
「うーん、よく分からないなあ。鴻守先生は少し気難しいところがあるからな ……」
「気難しさ」とはだいぶ違う問題である気もしたが、八雲としては、そのようにまとめるしかなかった。
「次に2点目のおかしな点です。それは、犯人が現場に残したバツマークです」
「……何がおかしいんだ? あれは犯人の仕業なんだろ?」
この「メビウス館の殺人」では、死体とともに、黒いインクでバツマークが描かれていた。
これは幹康の仕業であることが、一太の殺害シーンでハッキリと書かれている。
「ええ、そうです。あれは幹康が描いていたんです。そのことが不可能だとか、矛盾しているということはありません。しかし、鴻守先生がそれを描きっぱなしにするのは、どう考えてもおかしいんです」
「描きっぱなし?」
「ええ。犯人が何のためにわざわざインクを持ち込んでバツマークを描いたのか、ということについて、最後の独白部分において一切説明がないんです」
言われてみるとその通りである。
大胆な館トリックに驚愕し、他の部分については失念していたが、たしかに、犯人がどのような目的でバツマークを描いたのか、ということについては、この「メビウス館の殺人」における謎の一つなのである。
それを一切解決しないまま、ストーリーを終わらせてしまうのは、肩透かしも良いところである。
単なる書き忘れなのか。
まさか、見切り発車で「描いて」しまったものの、最後までその意味を見出すことができずに完結に至ってしまったなどということはあるまい。
「それから、おかしな点はさらにもう1つあります。こちらも『生涯独身』と『バツマーク』に負けず劣らず、ミステリとしての大欠陥です」
「何なんだ? 教えてくれ」
「この『メビウス館の殺人』には動機がないんです」
——なるほど。言われてみるとたしかにそのとおりである。
この作品には、動機の部分がすっぽりと抜けてしまっている。
それこそが、八雲が「竜頭蛇尾」という印象を抱いた違和感の正体なのだ。
「まず、エピローグの独白、これはとても短い章なのですが、ここには動機についての記載は一切ありません。ただ『私は、ついに、望んだすべてを手に入れたのである』と書いてあるだけで。そして、種明かしの最初の部分に『憎き親戚』との記載があり、最初の独白に『私は親戚との折り合いが悪い。幼少期から要領が悪く、愚直な私のことを、彼らは見下していた』という記載、そして『恨んでいた』という記載もあるので、こうした関係性の悪さが動機になっているようにも思えますが、これは動機たり得ないんです」
「なぜだ?」
「だって、プロローグの独白にそう書いてあるんですもん。『もっとも、それは親戚全員の殺害を思い立った動機ではない』ってハッキリ書いてあります」
「たしかにそうだな……」
「かといって、単なる愉快犯や狂人による犯行でもありません。これもプロローグの独白に書いてあります。『私が彼らを殺したいと思ったのは、憂さ晴らしなんかよりももっと重要で、私にとってのっぴきならない事情だった』ってね。犯人には強固な動機があるはずなんです。ただ、それがエピローグには一切書かれていません」
「たしかにそれはミステリとしての大欠陥だな」
ワイダニット(なぜ殺したか)はミステリの根幹と言ってもいい。
ワイダニットのないミステリは、ミステリではなく、ただのパズルに過ぎない。
しかも、本作に関しては、なぜ親戚を殺そうと思ったかという動機だけでなく、なぜこのような方法で親戚を殺そうと思ったのかという動機についても、説明を要するように思う。
単に館にいる親戚を皆殺しし、その上で自分も死ぬのであれば、最初から館に火を放つなどすればいいのである。
何もわざわざ館の構造を使った密室トリックを用いたり、焼却炉を使って「死んだふり」をしたりする必要などないのだ。
「動機が抜けている点については鴻守先生は何と言ってるんだ?」
「『生涯独身』の件と一緒です。断じて修正も加筆もしない、と。『バツマーク』についてもそうです。このままで良いと」
「なぜだ?」
「分かりません。これに関しても、鴻守先生はだんまりを決め込んでます」
「うーん、不思議だな。鴻守先生なりの考えがあるのかな……」
「そうかもしれませんね……。おかしな点を大きく分けると今言った3つなんですが、もう少し細かいことを言うと、本編で幹康の一人称は『俺』なのに、独白だと『私』になっていることとか、そもそもなぜ幹康が5人を殺害後に羊皮紙に事件の全容を記し、そして自殺したのか、ということもよく分かりません」
たしかにそのとおりだ。
やはり本編と独白部分とがどこか噛み合っていない。
それは「独白部分」での説明が足りない、とも言えるが、八雲には、もっと何か大きな齟齬が生じているような気がしてならなかった。
「それで最初の用件に戻るが、たしか秋田君は、俺に頼みがあるんだったよな?」
「ええ。僕が何度言っても、鴻守先生は、僕がさっき指摘したようなおかしな点を一切修正してくれないので、八雲社長に一肌脱いで欲しいんです。八雲社長の鶴の一声があれば、鴻守先生の頑なな態度は崩れるかもしれないんです」
秋田の依頼の趣旨はよく分かる。
そして、日の当たらない作家であった鴻守を拾ったのは、草奏社であり、八雲であったため、八雲は鴻守に貸している恩もある。
ただ——
「秋田君、ここはすべて鴻守先生の意思を尊重しよう」
「え!?」
八雲は、その素っ頓狂な声だけで、電話口の者が目を丸くしていることが見て取れた。
「つまり、一切修正をせず、鴻守先生が出した原稿のまま、書籍を世に出すんだ」
「どうしてですか? 八雲社長も、独白部分を直すべきと感じたんじゃないんですか?」
実は、と八雲は重い声で切り出す。
「先日、秋田君が不在中、鴻守先生がわざわざこの事務所を訪れてだな、俺に大事な話をしてくれたんだ」
「大事な話?」
「ああ。鴻守先生は、ガンに侵されていて、余命があとわずからしい」
電話口で息を飲む音がした。
「だから、今回は鴻守先生が譲らない部分に関しては、鴻守先生の意向を尊重して欲しいんだ。もしかするとこの『メビウス館の殺人』が鴻守先生の遺作になるかもしれない。さらに最悪の場合には、『メビウス館の殺人』を発刊する前に、鴻守先生が亡くなってしまうということだって考えられる」
電話口からは一向に声が聞こえて来なかったので、八雲はさらに続ける。
「もしかすると、秋田君や俺が修正したいと思っている点は、俺らが鴻守先生の発想に及んでいないだけかもしれない。修正することによって、作品の良さが失われてしまうのかもしれない。なんとなく、俺は今の鴻守先生だったら、ミステリを超えた何かを生み出しそうな、そんな気がするんだ。駄作かどうかは世間が判断することだ。俺らが判断することじゃない。とにかく、俺らの一番大事な仕事は、鴻守先生の作品を世に送り出すことなんだ。それが俺らができる鴻守先生への恩返しじゃないのか?」
長考の末、秋田がようやく結論を出した。
「分かりました。そういう事情があるのであれば、修正なしで行きます。印刷・出版もできる限り早いラインに乗せます。世間の判断を仰ぎましょう」




