解錠
安曇の客室の前で、一太は立ち尽くす。
最悪な予感は的中したのだ。
悪夢は正夢だった。
「一太さん、何かあったんですか?」
突然女の声がして、一太はビクッとする。
もっとも、それはよく聞いたことがある声である。
未優の声だ。
「何かあったんですか?」
一太が衝撃の光景から目を離し、右を見ると、シャンデリアの向こうに、未優がいた。
ショックを受けているせいか、一太は、今見た光景をそのまま未優に伝えることができなかった。
ショックのせいだけではない。チェーンで視界が限られているため、完全には中身が見えていないからだ。
一太の目に映っているのはたしかに血であるが、肝心の安曇の姿が見えていない以上、安曇の安否はわからない。
もしかすると、この血は安曇の血ではないかもしれない。
一太が真っ先にしないといけないことは、安曇の客室で起こっていることを正確に把握することである。
そのためには、このチェーンロックを解除しなければならない。
物理的に切断するしか方法はないだろう。もちろん素手では無理だ。何かしらの道具が必要である。
ふと、一太は、1階の広間で見つけた工具箱を思い出した。
チェーンを切るための道具があるとすれば、その工具箱の中しかない。
さらに声を掛けてくる未優を無視し、月奈の客室を横切り、一太は階段室に向かった。
一太の客室から見て、この階段室はシャンデリアを挟んで向こう側にある。
一太がこの階段を使うのは初めてだった。
この階段も、当然、螺旋階段である。メビウス館はシンメトリーの造りになっているのである。
一太は螺旋階段を一段一段、しかし素早く駆け下りた。
急いでいるせいか、階段が長く感じる。
そして、まだアルコールが抜けていないせいか、それとも精神的なものなのか、最後まで降り切ったときには、まるでジェットコースターで頭が揺さぶられたような気持ち悪さがあった。
階段の終着点には、階段室の出入り口のドアがある。このドアが1階の広間に通ずる。
まさかこのドアが閉まっているなど、一太は少しも想像していなかった。
そのため、ドアを引いてもびくりともしなかったとき、一太は何が何だか分からなかった。
一太はようやく思い出す。ここのドアはとても不思議な構造をしていて、広間側から施錠できるのであり、そして、幹康は一太の目の前でここの鍵を施錠したのだ。
幹康と一太は2階に上がってくるとき、この階段を使っていない。
そのため、未だにここの鍵は施錠されたままなのである。
一太は踵を返すと、今降りてきた螺旋階段を、ぐるぐるぐるぐると上った。
2階の様子は一切変わっていなかった。シャンデリアの向こうには不安げな表情をした未優が立っている。
一太はもう一度シャンデリアの川を渡るしかなかった。足元を見ると、一太の素足は血まみれである。しかし、他に選択肢はない。
一太はまた半身でシャンデリアの川を渡った。すでに先ほどできた傷が刺激されたせいか、来たときよりも帰りの方が痛みが強かった。一太は表情を歪ませる。
未優はすぐにでも一太に事情を聞きたそうだったが、まだその段階ではない。
しかし、事情を説明しなくても未優は何か良からぬことが起きていることを察して、一太の後ろをついてきた。
階段室のドアを開け、螺旋階段を下った。こちらは鍵が開いているはずである。
しかし、こちらのドアもビクリとも動かなかった。
--なぜだ。
考えられることは1つしかなかった。
つまり、現在も広間には幹康がいて、両方の階段室の鍵を施錠し、一人で飲んでるということだ。
一太は、ドアを激しく何度も叩く。
「おい。幹康! いるんだろ!! 開けてくれ!! 安曇が大変なんだ!!」
一太がしばらくドアを叩き続けていると、ようやくドアが開いた。
「安曇が大変? どういうことだ?」
幹康に説明している暇はない。一太は、工具箱を目指し、カウンターに入った。
「おい、何してるんだ。まさかそこにあるトンカチで俺を殺す気なんじゃないだろうか」
幹康が半笑いであまりにも笑えないジョークを飛ばす。それも無視して工具箱を漁ると、急に幹康に肩を掴まれた。
「おい、何してるんだ。こんな時間にいきなり起きてきて工具を漁って。なんかおっかないことでも考えてるんじゃないだろうな。説明しろよ」
振り返ると幹康の目は真剣だった。
一太は兄妹の中で幹康をもっとも信頼している。
一太は幹康に簡単に事情を説明すると、幹康は、それは急いだ方がいいな、と工具箱に手を突っ込み、中から刃先部分の長いペンチを取り出した。
たしかに、見た限り、これが一番チェーンの切断に向いている。
「よし、これで行こう」
幹康は、玄関から見て左側の階段室の鍵を開け、螺旋階段を走って上っていった。一太も未優もこれに続いた。
一太が2階についたときには、すでに幹康は安曇の部屋の前にいた。
幹康はドアを開き、チェーンを張った状態にする。
そしてペンチの刃先をチェーンに当てた。
「こう見えてこういう作業は得意なんだよ」
その言葉のとおり、チェーンはものの数秒で真っ二つに切れた。
チェーンが床に落ちて音を立てるとほぼ同時に、幹康はドアを引いた。
そこには、案の定、最悪の光景が広がっていた。
刃物で背中を一突きされた安曇が、血で染まったベッドの中心に横たわっていたのである。