鴻守渓大について
昨年アップした「潜水館の殺人」に次ぐ「館シリーズ」第2弾です。もっとも,登場人物・設定に一切の連続性はありませんので,ぜひとも本作からお読みください。
本格ミステリを期待されて本作に興味を持った方,大正解です。
とにかく本格です。本格に本格を重ねて書き上げました。
数年前の菱川のように「本格ミステリって何?」っていう方も,第1話で本格ミステリについて説明してますので,ぜひお読みください。
見取り図もたくさん出てきます。
八雲渉は、出版社である「草奏社」の社長を務めている。
会社とはいっても、個人事業に毛が生えたようなもので、従業員はわずか1名しかいない。
半分は八雲の趣味のような会社である。
銀行の融資に依存しない範囲で、十余年あまり、細々と経営を続けている。
西神田の狭小ビルのワンフロアにある草奏社のオフィスに、唯一の従業員——秋田潔が出勤してきたのは、正午過ぎのことであった。
労働契約上、草奏社の定時は10時〜18時に設定されているため、秋田は大幅な遅刻ということになるが、社長である八雲はそれを咎めることはなかった。
八雲が風紀や規律に厳しくないから、ということもあるが、何より、数年来の付き合いの中で、八雲は秋田を信頼していたからだ。
秋田はこの仕事に情熱を持っていて、決して怠けたりはしない。遅れて出勤してくることには、仕事上の何らかの事情があるのだ。
案の定、秋田は、遅刻の理由について「昨日届いた原稿を徹夜で読んでいた」と説明した。
目にハッキリと残った隈から見るに、秋田の言葉には信用性があった。
本棚に囲まれた八雲の机の上に、秋田は、その、徹夜で読んでいたという原稿を、八雲に正対する向きで置いた。
「これは……」
「そうです。鴻守渓大先生の最新作です」
束になった原稿には表紙が付いており、そこには著者名として「鴻守渓大」の名前が、その上にさらに大きなフォントで「メビウス館の殺人」というタイトルが冠されていた。
「メビウス館の殺人……いかにも本格っぽいタイトルだな。実に鴻守先生らしい」
八雲は少し皮肉を込めて言う。
鴻守は、いわゆる「本格ミステリ」の書き手である。いわば「非現実」的な装置である、「嵐の山荘」や「名探偵」といったものにこだわる作家なのだ。
日本で本格ミステリブームが巻き起こったのは、横溝正史などを生んだ戦後まもなくであり、一旦熱の冷めた本格を、島田荘司や綾辻行人らが「新本格」として蘇らせたのも80年代後半から90年代にかけてである。
本格ミステリの古典的な仕掛けはすでに手垢がつききっており、アイデアもほぼ出尽くしているといって過言ではない。
ゆえに、2010年代後半、新たな本格ミステリの書き手として現れた鴻守は、業界的には時代錯誤の存在として受け取られた。
出版社も、その実力は認めつつも、商業的には成功しないだろうと高を括り、出版元として名乗り出ることには及び腰だった。
そんな中、鴻守を「拾った」のが草奏社だったのである。
「八雲社長、よだれが出てますよ」
秋田の言葉が比喩だと気付かず、八雲は乾いた唇を手で触ってしまった。
「タイトルからご察しのとおり、本作も八雲社長の大好物だと思います」
何を隠そう八雲は本格ミステリの大ファンだった。
脱サラして草奏社を立ち上げたのも、時代に置いてかれてしまった本格ミステリを支援し、もう一度表舞台で輝かせたいと思ったからである。経営のために本格色の薄いミステリやその他の一般文芸作品も出版することはあったが、商材の多くは本格ミステリである。
そして、今の草奏社の主力商品が鴻守作品なのである。本格ブームの再々到来、とまでは言えないかもしれないが、鴻守作品は、一部の熱狂的な本格マニア以外からも広く支持を受け、今や大体の書店で平積みで置かれている。
「この『メビウス館の殺人』はすごいですよ。舞台は絶壁の孤島。怪しげな名前の館に集められた親戚5人が、『不可能犯罪』によって1人ずつ殺されていく。そして最終的には……」
「誰もいなくなる……か?」
秋田はパチンと指を鳴らした。
「そのとおりです。ね? よだれが止まらないですよね?」
あまりにも有名な古典ミステリの名作であるアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」。孤島の館に集められた人々が1人ずつ殺されていき、最終的には島にいた人間全員が「いなくなる」、という設定は、この超名作以降、国内外問わず多くのミステリ作家が挑戦してきたテーマである。日本の新本格ミステリの代表作である綾辻行人の「十角館の殺人」だって、「そして誰もいなくなった」のオマージュといえる。
ミステリの基本型としての「そして誰もいなくなった」にはミステリファンを惹きつけてやまない何かがあるのだ。
秋田の指摘通り、鴻守版「そして誰もいなくなった」を目の前にした八雲は、胸の高鳴りを止められなかった。
「秋田君、君はもう読んだんだろ? この『メビウス館の殺人』を」
「ええ」
「どうだったか?」
「とても面白かったですよ。大胆かつシンプルなトリックは僕好みでした。ただ……」
今まで嬉々として鴻守の新作について語っていた秋田の顔が突然曇った。
「どうしたんだ? 何か問題でもあるのか」
「……実はそうなんです」
秋田は鴻守の編集担当者である。
鴻守の書いた原稿は、まず秋田の手に渡り、秋田が校正等手を加えた上で、最終的な内容を八雲がチェックすることになっている。秋田は原稿が「昨日届いた」と言っていたため、まだ校正前だろう。その段階で八雲に相談してくるということは、原稿にはそれなりに大きな問題があるということだ。
「なんだ? 何が問題なんだ?」
「原稿全体として見たら、概ね問題はないんです。ミステリとしても成立しています。ただ、最初と最後にちょっと難が……」
「最初と最後?」
「はい。プロローグとエピローグの部分です。そこには『犯人の独白』があるんですが」
これも非常に古典的な構成である。プロローグに犯行を犯す前の、エピローグには真相が判明した後の、犯人の心情がそれぞれ描かれるという、本格ミステリにありがちな構成だ。
「その『犯人の独白』がおかしいというのか?」
「ええ。明らかにおかしいんです。ですので、僕は今朝、出社する前に鴻守先生に電話をしたんです。それで、僕の思っていることを先生にぶつけてみました」
「で、鴻守先生の反応はどうだったんだ?」
「聞く耳持たず、でした。修正するつもりは全くない、と」
「その『犯人の独白』部分を変えてしまうと、ミステリとして成り立たなくなるんじゃないのか?」
秋田は大きく首を振った。
「いいえ。そんなことはありません。むしろ、僕の指摘するとおりに修正さえすれば、本編との矛盾は容易に解消されるはずなんです」
——本編と矛盾したプロローグとエピローグ。
いわずもがなミステリ小説でもっとも避けるべきものである矛盾を、鴻守はあえて残そうとしているということなのだろうか。
「ですので、僕は八雲社長に『メビウス館の殺人』を読んで欲しいんです。社長も違和感を感じるはずです。僕からの意見は聞き入れなくても、社長からの意見だったら鴻守先生は聞き入れてくれるかもしれません。社長お願いします。鴻守先生を説得してください」
「うむ」
八雲はコクリと頷くと、「メビウス館の殺人」の原稿を持ち上げ、手元に置いた。
そしてゆっくりとページを開いた。
最終チェックを除き,すでに最後まで書き上げてますので(6万2000字強),今日明日中に完結させます。ミステリは鮮度が重要ですので。