序ノ三
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ある夜のこと、集落のある地点よりも遥か上、山肌の崖近くにある鬼たちの信仰する小さく古い祠にヨウは来ていた。
祠の奥には石と木で組まれた台座と、その上に乗るヨウより一回り小さな鬼の像が一つあるだけ。
台座の上の像は前見た時と変わらず、両の手を合わせた姿の簡素な佇まいの像だった。
ここに来た目的は、年に一度の掃除とお供えのためであった。
これまでは一族の誰かが数人で来てやっていたことなのだが、還っていく者たちが増え、手が足りなくなっていたからだ。
夏が終わり、集落に残った一族の数は十を切ってしまっていた。
年寄りにここまで来させるのはひどい仕打ちにおもえたし、そういう経緯もあってヨウはここに足を運ぶことになったのである。
汲んできていた水と布、葉の茂った枝を使い祠の中を掃除し、猪肉と酒を供えて像に向かい手を合わせる。
【じょうこひゃっき】という名の、一族の一番古い祖先の鬼なのだという。
会ったことのない祖先を模した像になんの感慨もないが、だからといって雑に扱う理由もない。
集落にはヨウのできる仕事などなかった。
狩りもさせてもらえず、家のことは母が、集落で何かと必要になる木材を集めるのは父がしていたし、することなど本当に何もないのである。
代わりと言っては不満はあるが、ヨウは祖父に毎日のようにしごかれ、ものを教わっていた。
そして今日も祖父といつも通り修行し、話を聞き、ここに来たのだ。
「近頃は親父もお袋も小言をゆわんくなったし、じいちゃんも優しくなったしでいいんだけども、なーんか暇なんよなぁ」
頭と服にかぶったほこりを手で払いながら、ぽつりとこぼした。
旦那から品を受け取った日から八十日が過ぎていた。
刀二本のしつらえは祖父が頼んだと聞かされ、それからは刀を使って修行することも増えた。
なぜか祖父は月噛丸を見て驚いていたので、もしかして知ってるいるのだろうかと尋ねてみたが、何も教えてはくれなかった。
「初めは邪魔くさかったけど、この下駄もなんか格好がいいし、刀もぶつけんでうごけるようになったし、それは嬉しいんだけどな」
着流しを纏い、腰には雲撫切を佩き、足には祖父からもらった下駄をはいていた。
あの日から着流しを毎日来ていたおかげか、旦那が言う通り布が柔らかくなって動きやすくなっていた。
ただ今はまだ少しばかり大きいので、修行中は腕を袖に通さず腰に巻き付けているのだが、それでもいままで身に着けていた物より肌触りがいいし気に入っていた。
祖父に言われて日々腰に刀を佩いているが、月噛丸はどうしても持って居たくなかったし、リボルバーは持たないと決めていたので、その二つは旦那から与えられた風呂敷に包んで保管してあった。
両親はいい顔はしないが、どうやら祖父が伝えうまく言いくるめたようで、今では麓村に行ってることも知られているし、人に貰った物を使っていても何も言われることはなかった。
「次はいつ行こうかいねぇ……」
麓村にはあの日を最後に行くのをやめていた。
誰言われたのでもなく、ヨウは自分の中で鬼と人の関係を考えていたのだ。
今のところ、ヨウが出会い話した人からは害を与えられたことがなければ悪意を向けられたこともない。
しかし旦那と祖父から言われたことが頭から離れず、自分と周りのことをもっとよく考えて行動しようと思ったのだ。
ヨウ自身、未だになんの答えも出ていない問題なのだが、心のどこかで鬼である自分にとって人とは危険なものなのかもしれないのだと思うようにしていた。
祠の中でそんなことを考えていると、ふと嗅ぎなれない匂いが鼻に届いた。
「煙?」
まだ雪は降らないが寒くなり乾燥した時期のことだ、燃えるような匂いと別の匂いを嗅ぎ間違えるはずがなかったのだ。
祠の外へ出て、崖の上から下を見下ろした。
集落が赤く燃えていた――。
―――――
同じ頃、麓村は壊滅していた。
百には満たないだろうが、何十人もの大規模な野盗に襲われたのだ。
日が暮れても灯りを灯し働く者たちのいる交易の中間地点でもある。
そこに目を付けられていたのだ。
大勢にもかかわらず、奴らは静かに近づき、一気に襲い、荷を奪って山に逃げて行ったのだ。
旦那や働く者たちは抵抗できる人数ではないことに悟り、急いで木々に身を潜ませたのだが、野盗も目的は荷だけと男たちを襲うことなく迅速にその場を後にしたようだった。
「……だんはん、これからどないされるんですか」
野盗がいなくなった村に戻った男たちの中から声が上がった。
「荷はしかたねぇ、金はまだあるんだ、やり直せばいいだろうよ」
そう答えた旦那の目は、野盗どもが消えていった森の奥を睨んでいた。
「なぁだんな、奴ばらが向こうたんは籠の坊主がいっつも帰る方でんないか」
そう言われても旦那には何も言えなかった。
ヨウがどこで暮らしているのかを知らない旦那は、どうすることもできなかったのだ。
ただ、野盗が逃げて行ったヨウがいつも帰っていく方向と一緒だった。
けれどここは樹海とも呼ばれる広い森である。
旦那はヨウに何も無いようにと祈るしかできなかったのだ。
―――――
大量に盗んだ荷を抱え、野盗たちは暗闇の森を駆け上がった。
元々は武士だった者たちが、情勢と時代に負け身分を卑しいものに落としたのだ。
目を付けていたところを襲い、目的を果たした彼らは、人目を避けながら夜が明けるまで森に身を隠すつもりだったのだ。
ただし向かった方向が悪かった。
『貴様ら、それ以上山に上がるな』
生暖かい突風と内臓が震えあがるような声に野盗たちは慌てた。
口々に化け物が出たいやあやかしだ喰われちまう、と取り乱す者も出たが、何十人といる数の安心感からか、集団は次第に落ち着きを取り戻していった。
「なんだってかまわねぇ! 獣だろうがバケモンだろうが返り討ちにしてやらぁ! おい、火を付けろ!」
野太い声が響いた。
野盗たちは手に持った枯れ枝に奪った布を巻き付け、即席の松明を作りそれに火を付けた。
「いいから行くぞ、早く山裏にむかうんだ!」
忠告は聞かれなかった。
その後も何度か声と風が男たちを襲ったが、身を寄せ合い明かりを手にした男たちは気にするものかと森を突き進んでいった。
やがて前方に粗末な集落が目に入った。
男は思った。
こんな奥深い森の中にある集落なのだ、捨てられた廃村かはたまた身寄りもない者たちが住んでいるだけの誰も気にしないようなところなのだろうと。
そうだ、どうせ一夜を森で過ごすくらいなら、その間だけでもここを自分たちの居場所にしてしまおうと、そう考えた。
そして男たちは集落を襲った。
男たちは家の中に居た者を切り殺した。
殺した者たちが頭に角を生やしていたことには驚いたが、そんな相手を殺せたこと野盗どもはもう止まらなくなった。
けれど抵抗した鬼も居たことで野盗も必死になった。
そして男の手から離れた松明が、枯れ葉の上に投げ捨てられた――。
―――――
燃える森を、集落を見てヨウは急いで崖を滑り降りた。
なんで、どうして、なにが……。
纏まらない思考の中、自分に何ができるかわからぬまま森を駆け抜けた。
『来てはならん! 隠れていろ!』
祖父の声が聞こえた。
「じいちゃん、なにがどうなってんだよ!」
ヨウは祖父に呼びかけるが、声が帰ってくることはなかった。
止まらず突き進んだ。慣れた道を全速力で走った。
やがて集落が見えてきた。
今日まで暮らし、見慣れたはずの集落。
しかしそこはもう、ヨウが見慣れた場所ではなかった。
赤々と炎があがり、灰は降りそそぎ、見たこともない人の死体で溢れていた。
「とおちゃん! かあちゃん!」
ヨウは自分達の住んでいた家に飛び込んだ。
まだここまで火は回っていなかった。
だが家の中には誰も居なかった。
父も母も姿はない。
どうすればいいのかわからずにその場に立ち尽くし、固まってしまう。
『わしは今、火を抑えるため離れられん! おまえの母は上に向かった、おまえも刀を手に山へあがれ!』
今になってようやく祖父から声が届いた。
ハッとなったヨウは月噛丸とリボルバーの入った風呂敷を肩に担ぎ、急いで外へと飛び出した。
今下ってきた道を戻ろうとしたとき、目の前に燻る煙のむこう側、向かいの家の入口に人影が見えた。
「ひいぃぃ、なんなんだよおまえらぁ、死ねよぉ、死ねよぉ」
男が一人、そんなことを言いながら手に持った物で何かを刺し続けていた。
向かいの家に住んでいたじいさんは、松の木の根元に生える茸を好んで食べていた。
ヨウも何度となく口にしたことがあった。
森の松を増やせればもっと沢山の茸を食えるのにと、いつも同じことを言うじいさんだった。
じいさんと一緒に住んでたばあさんは、前の冬に還ったのだったかとヨウは思った。
ばあさんが居なくなってから、じいさんはこれまでばあさんがしていたように、石を重ねて積んで、手を合わせて祈っていたっけな、と考えた。
「しねっしねっしねっしね!」
茸が旨いのだと笑って話しかけてくるじいさんに、ヨウはいつも適当な言葉で返していた。
何度も何度も同じことを言うもんだからと、聞き飽きてしまったのだ。
けど、何度同じ話をされても嫌ではなかった。
楽しそうに喋るじいさんの相手をするのは、それはそれで嫌いじゃなかったな、なんて考えた。
そして、ふと思った。
目の前のあいつは、どうしてじいさんを突き刺しているんだろうか。
それも刀なんて危ないもので、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も突き刺したりして。
そんなことをしたらじいさんは死んでしまうのではないだろうか。
どうして寝ているじいさんにそんなことをしているのだろうか。
「……じいさん」
呼びかけた声は、出そうと思ったよりも遥かに小さかった。
あれだけ突かれても動かないのだ、今更声を掛けるくらいじゃ起きないかと自分でも変なこと考えてるなあと思った。
ヨウはとじいさんと、そのじいさんを踏みつけて刺し続ける人に近づいていった。
「そういえば昨日も茸もらったっけな、おいしかったよ」
歩み、声はパチパチと燃えた木が爆ぜる音に消された。
「次は自分で探して喰ってみるよ」
歩み、声は雲撫切を抜いた音に消された。
「ばあさんによろしく」
歩み、声は刀が空を切る音に消された。
「じゃあな」
振り返り、声は男が倒れる音に消された。
そしてヨウは山を登った。
よくわからない感情のまま、無表情に、母を探しに祠へ戻るのだった。
―――――
祠に続く崖際を落ちないように駆けていく。
見逃さないように辺りも目をやり、母を探しながら。
あれから祖父は何も言ってこない。
宵闇に燃える森を横目に、火の勢いが少なくなっていることから、祖父がなんとか消火しているのだろうと思うことにした。
やがて遠くに岩肌を背に座り込む影が見えた。
目を凝らして見てもまだ誰なのかはわからなかったが、警戒しながらも急いでそこへ駆けていく。
「かあちゃん、大丈夫か」
近づいて、一族の誰よりも小さい角と、灰色の髪に黒い瞳、そして自分よりも少し赤い鼻頭の母の顔を見ることができてヨウはやっと安心して声を掛けた。
休んでいたのだろうか、正面から見た母の身体に怪我は見当たらなかったことにも安堵できた。
「ああ、葉雨、よかった、怪我はない?」
少し息を切らした母に尋ねられ、問題ないと伝える。
「もうすぐあなたが上がってくるっておじいさんが教えてくれてね、待ってたんだよ」
祖父は母に声を掛けていたのだと知った。
それよりもヨウは気になったことがあった。
「とおちゃんは一緒じゃないのかい」
近くに父の姿は見えなかった。
集落では死体が多すぎて見つけらなかったが、もしかしたら一緒にいるのではと考えていたのだ。
「あの人はおじいさんと一緒に居るはずよ、わたしはあなたを逃がすように言われたの」
逃げるとは、母と一緒にだろうか。
「祠でとおちゃんとじいちゃんを待つのかい」
自然と聞き返してしまった。
それにすこし考えるようにして、母は困った顔で答えた。
「そうね、あそこで朝まで待ちましょうか」
言って立ち上がろうとする母に肩を貸そうとしたとき、崖下から知らない声が聞こえてきた。
「もう逃げましょう、こんな森はやく出てえんです!」
「しつこい! ありゃ鬼だぞ、しかも女の鬼だ。もうほかの奴らも残ってねぇ、奪った荷も一緒くたに燃えちまった。あれをふん縛って売り飛ばしゃあ金にはなる。金になれば飯が食える。あれを逃がしたらどっち道逃げても飢えて死ぬんだ、何度も言わせんなぃ」
「嫌だぁ! こんなところで死にたくない! これでもおれぁ元は武士なんだ、こんな山奥のバケモンがいる森でなんか死ねるかぁ! おれぁ帰る、帰るんだ!」
ヨウには離れていてよくは聞き取れなかったが、しかしあいつらがこっちに向かってきていることはわかった。
「かあちゃん、これ持って先行っててくんな」
そう言って肩にぶら下げていた風呂敷を母の横に置いた。
どうせ止められるだろうと思ったが、駆けだしたままもう一つ声をかける。
「じいちゃんの修行したんだ、それと刀があるからだいじょうぶさ」
母の返事も待たず、崖を滑り降りていく。
すぐだ、すぐあいつらを切って戻るから、先に行っててくれ。心の中で母に話しかけた。
ヨウは急いで男の前に飛び出した。
雲撫切はすでに抜いていた。
音と気配に、男は驚いた目でこちらを見ていた。
何も言うことなんかない。
聞いてもやるつもりもない。
待ってもやらない。
お前たちがしたように、自分もそれを返すのだ。
ヨウは振り上げていた刃を、一気に引き下ろした。
「待っ――」
慌てて何かを言おうとした男の言葉は、頭から半分に撫で切られ空に溶けていった。
続けざまもう一人もすぐに、と思い探したが、すでにどこにも見当たらなかった。
ヨウが着いたときにはもう逃げた後だったのか、耳を澄ませても足音ひとつ聞こえない。
逃げたのならいいかと思い、無理に探すことはしなかった。
どうしても切りたいとは思わなかった。
ただ、こいつは向かってきたのだ。
相手が悪意を向けて来たのだ、自分はただそれを払っただけ。
ヨウにはそれくらいの感覚しかなかった。
刀に付いた血を切った男の着物で拭き、腰に収めた。
そして降りてきた崖を再び登り、あらためて祠に向かった。
―――――
孤独な最後を迎えると知って、親は我が子をどう育てるのだろうか。
希望もなく分かり合えない世の中に、我が子を残していける親はいるのだろうか。
幾度となく悩んでは出せぬ答えに憤り、けれど時は止まらず今日が来た。
親として、母として、伝えてやれたことは少なく、こんな最後になるとも思っていなかった。
できることはもうほとんど残っていない。
手助けできることも、もはやない。
ヨウを想い祈るしかできない自分はなんと情けないのだろうと打ち震えていた。
「どうかあの子にお力を、恐れ敬う祖先様、どうか道をお開きください……」
祠の中、【じょうこひゃっき】の像の前でヨウの母は祈りを捧げていた。
一族の鬼にしては珍しく、好奇心が旺盛でよく笑う子供だった。
意義を失った鬼にしては感情が豊かで、いわゆる異端児ではあったのだろう。
けれど、望んでも生まれることがないと思っていた中で生まれた最後の鬼子。
どれだけ異端でも、変り者だったとしても、一族にとっては愛すべき子だったのだ。
最後になる子など、誰も育て方を知らなかった。
守り方を知らなかった。
ただ危険を遠ざけ、皆好きにさせた。
一族に連ならず、山を守護し、隠居していた祖父以外は。
気づけば毎日と祖父の元に向かう我が子を止めたかった。
だが何一つ教えられない自分がどうやって止めるのだと理由が見つけられなかった。
毎日しごかれ、泣きながら帰ってくる日もあった。
ボロボロになり、傷だらけの我が子を見て何とかしなければと思うことは何度もあった。
けれど決まって、飯時には今日はこんなことをしたと笑って語る息子の様子に、自分たちの不甲斐なさを思い知らされた。
けれど、ヨウの祖父であり、自分の父でもあるのだ。
意見が衝突することは幾度もあった。
だが何一つ勝てなかったのだ。
身の守り方も、知識も、教え方も考え方も、全て孫を生かしていくためのものだとわかっていたから。
認めるしかなかった。
我が子と祖父のやり取りを。
諦めるのではなく認めたのだ。
それは自分だけでなく一族皆も同じ思いだっただろう。
やがて人と交流していることも聞かされた。
内心では全力で止めたかったけれど、どうなろうとも最悪にならなければと好きにさせた。
けれど本人はとても言いにくそうにしたのを見て、自分たちがどれだけこの子を生き難くさせていたのだろうと悲しくなった。
そんな自分たちの思いなど知らず、ヨウはどんどんと人を好きになっていった。
自分たちと同じ鬼でありながら、天敵ともいえる人を友と呼んでいた。
一族がヨウのこれからを想い託した命の鉄を、人に渡したのだとも聞いた。
しかもそれと引き換えに人の作った物と取引したのだとも言った。
言いたいことは山ほどあった。
叱りつけたくもなった。
だが認めたのも自分達だったはずだ。
何もしてやれず、好きにさせたのだからと。
負い目しかなかったのだ。
我が子を愛しているはずなのに、なにも教えてやれない知識のなさに、心の狭さに。
一度は痛い目をみて知ればいいとさえ思ったこともある。
裏切り、騙すのが人だと知っていたからだ。
だがそんなことにはならなかった。
裏切られも騙されもせず、約束は果たされ絆が深まったのを感じた。
なぜ自分達だけでは駄目だったのだろうかと何度も何度も悩んだ。
ここには同じ年ごろの者もおらず、寂びれゆく集落も年寄りばかり。
娯楽もなく話し相手も居ない。
けれど、今でこそよく笑う子だが、それはいつからだったのだろうかとも考えさせられた。
おそらく祖父と行動し始めた頃くらいからだろう。
日の終わりに楽しそうに話すようになったのは。
そして人と話すようになったのも今のヨウを作った一端なのだろうと認めるしかなかった。
息子を知るたび、人の良さを知った。
人の良さを知るたび、自分たちの非を知った。
何も変わらないのかもしれないと思った。
人は弱く、今では鬼も弱い。
人は危険で恐ろしいが、鬼も昔からそう思われていたはずなのだと。
ヨウは自分で繋いだのだろう。
鬼と人との壁を破り、言葉を交わしたのだ。
信頼を得て、関係を築いた。
誇らしそうに、嬉しそう語った息子を、安心して見たときに気づけた。
これで良かったのだろうと。
この先がどうであれ鬼は絶える。
ヨウは一人になり、一族は先に還ってしまう。
けれど自分で居場所を作ろうとしていたのだ。
孤独にならず、希望をもって生きようとしているだと。
守ろうとした、けれど間違っていたのだ。
守れるはずがなかったのだ。
そういうことでは無かったのだ。
あの笑顔を見て気づけなかったのだ。
それを、今日、今になって知った。
祖先の像に祈りながら知った。
刀を手に崖を下って行った息子の顔を見て、わかった。
息子はその時笑っていなかった。
何も浮かべていない表情で、人を切りに向かったのだ。
自分たちは、一族は今日で終わりだ。
数が多く、被害も大きく、もう先はない。
ヨウが歩み寄り、共に生きようとした人。
一族が殺され、腹立たしく思う相手もまた人。
人と接して笑顔が増えた。
人に害され、笑顔が消えた。
そして今、自分はただただ祈っているばかり。
なにも教えてやれていない。
なにもできていない。
――ザリッ
今後ろに来た我が子に、何を言えばいいのかわからない。
「かあ、ちゃん……」
祈る手は、ほどかない。
後ろを振り返ることもしない。
けれど、言葉は尽くそう。
「わたしは人が憎い。集落はもう駄目でしょう。あれは人のせいで、私たちが鬼だからよ。でもね葉雨、あなたは人を嫌いになっては駄目。」
「どうして……」
「あなたはこれからどうするの? 一人で強く生きていくのか、それとも人と共に生きるのか。わたしにはどっちがいいのかなんて教えてあげることはできないの。でも、あたなを見ていて、今気づいたのよ。あなたが人を嫌いになるのはまだ早んじゃないかって。」
祈りは止めないまま話し続ける。
どうしてか、動いてはいけない気がしたから。
「あなたならできるのよ葉雨。思うように、したいように、好きにできるの。だったら勿体ないじゃない。今までいい顔しなかったのに、今更でしょうけど、まだ人を嫌いになってはいけないと思うの。あなたはまだ子供、これから好きなことができるのだから」
ヨウは母の後姿を見ながら、聞きながら考えた。
人を嫌いになるのは早い?
集落が無くなったのに?
人のせいでじいさんばあさんが殺されたのに?
なのに母はこれから共に生きるかもしれないって思っているの?
「人と仲良くなったのでしょう? 友ができたんでしょう? 何度もお話しして、楽しかったんでしょう? それは間違いだったの? 偽物だったの? 今日あなたが見て切った人は、その人たちなの?」
母の言葉に、麓村の皆の顔が頭に浮かんだ。
旦那ははじめから優しくしてくれた。
何度も通って、何度も話をしてくれた。
鬼だと伝える前から、鬼だと知った後も変わらずに接してくれた。
雪の日に自分が助けた人たちも、ちゃんと姿を見せない自分を慕って話しかけてくれた。
好きだった。
憎くなかった。
友だと思いたかった。
「けど……」
けど、ヨウにはわからなかった。
今日起きたことはもしかしたら自分のせいだったのではないかと思った。
目にした人は見覚えのない者たちだった。
だがしかし、と思わずにはいられなかった。
祖父に言われた言葉を思い出していた。
〝やって良いこと、悪いことがわからなくてもどちらかを選ばなければならないときは来るだろう。そのときにやらなければ良かったと思うことはするな。やっていれば良かったのほうがまだマシだ〟
選びもしなかった、こんなことになるなんて思いもしなかった。
でも今日あったことが全部自分のせいで、麓村に行ってしまったことが原因だったのなら――。
そう考えると、やらなければよかったと、行かなければよかったと思ってしまう。
自分のせいだ。
「……わしのせいや、人に近づいたりしたから」
狭い祠に響いた自分の声が、責めるように返ってきた。
「わたしにはわからない。あなたがそう言うならそうなのかもしれない。けど今日のことが葉雨のせいでも、わたしは責めない。ただ覚えておいて。これから先、また人と言葉を交わすことがあるかもしれない。けどその時に憎しみしか持っていなかったら、あなたは一つしか選ぶことができなくなるの。それをわたしは勿体ないと思ってしまうのよ。もしかしたら、あなたは人と仲良く生きていけるかもしれないんだから」
「仲良くなんかっ――!」
振り返らず、祈りをやめないまま話す母の背に、怒鳴りそうになってしまった。
背を切られ血を流す母の背を見て、それをしただろう人を考えて、怒りが胸に込みあがる。
「遥か昔、わたしたち鬼も、人を殺して食べていたそうよ」
少し笑うように、母が言う。
「この【じょうこひゃっき】様も、同族を何人も切り殺したと聞いたわ。今だったら、わかるわ。人は残酷だけど、鬼も同じなんじゃないかって。ねぇ葉雨、あなたは賢い子だと思うわ。それも一族の誰よりも。でもまだ私の子供で、外を知らないのは一緒でしょう。最後くらい母らしく言わせてほしいわ」
最後くらい、と言われた。
聞きたいと思った。
でもできそうになかった。
今日起こった出来事の発端が何かを知らず、自分のせいなのではないかと自分を恨み、この所業の元凶である人を、どう許すというのか。
これからどう分かり合うというのか。
感情が、思考が、すべてが追い付いてこなかった。
母の背に流れる血は、今もゆっくりと染みを広げている。
返す言葉が出てこなかった。
「お願い致します、この子に、道をお与えください……。力弱く、鬼に連なる血も薄い、なれどわたしもあなた様と同じ鬼。どうか、どうか、我が子をお導きください……。この命が鉄になる前に、あなた様に全てを捧げます……」
請い、願い、物言わぬ像に語り掛ける母の背中に、ヨウは立ち尽くしていた。
今にも膝から崩れ落ちそうなほどに、身体に力が入らない。
遠く遠くの誰かを見ているのような、まるで自分のことでは無いような錯覚に陥っていた。
誰も来ない。
このままでは母は死ぬ。
認めたくない。
そんな母を見て居たくなくて、知らずヨウは祠を出てしまっていた。
崖下に見える森の炎は、もう消えていた。
煙の臭いと夜の闇があるだけだった。
『—、———』
祖父の声が聞こえた気がした。
「じい、ちゃん……?」
母を助けてほしかった。
『—、——き』
何かを言っているけど、よく聞こえなかった。
火はもう消えていた。
自分と母に会うために向かってきているのかもしれないと期待した。
『—、—きき』
違う。
「じいちゃんじゃ……ない」
声が違う、雰囲気が違う、聞こえるが聞こえない。
どこだ、どこからだ。
『扉、開きき』
後ろからしっかりと、聞こえた。
祠の奥から。
「——かあちゃん!」
振り返った先は眩く輝いていた。
その光を浴び、ヨウは姿を消した。
夜空に数百の流星が輝いていた時だった。
―――――
かつて妖はこの日ノ本国の陰と闇に暮らしていた。
人は理から生まれ出で、妖は思念から湧き出てきた。
世に理解できない事象や存在はかつて沢山あったのだ。
呪いしかり、妖も、気や霊も。
そこに在るものと、無いようで、けれど存在するもの。
生と邪、在るものと無いもの。そういうもの合わせて混沌。そのはずだった。
始まりがそうであるはずの世の中の、そうだったはずの一切合切のすべてを、存在を定めた。
人が世を支配したのだ。
文化を生み、在り方を理で定義し、見える物に名前を付け、存在を定着させた。
それまで理解できなかあったものでさえ、人は理解しようとした。
呪いと病は似て非なるものだったが、人は病の根源を知ったことで、呪いなど無いのだと声高に言った。
読み解けるものはあってよいもの、けれど無いはずのものは存在していてはいけないはずだと。
正義を語り、悪意を滲ませ、愛を求める裏で嫉妬し、分かり合おうと嘘をつき、信じる者は己だけと言い、神や仏に縋りつく、何よりも矛盾し混沌とした心を持った、そんな人が定めた理が、世を変えてしまった。
そうして時が流れると共に、負の、影の、無いはずのものは薄れていった。
今ではもう、人が畏れる心を持つ分にしか存在することができなくなった思念から生まれたもの。
暗い夜の廃屋に、居ないはずの存在を畏怖するような分だけ、妖が存在できた。
けれどそれも、もう終わる。
妖は自身を定義できなくなった。
日ノ本国でかつて畏怖され、信仰された強大な力を持った古の鬼たち。
その系譜に連なる最後の鬼として、葉雨を最後に絶える運命であった。
星と定められたこの地で、孤独に終わるはずだった。
けれど終わることは無かったのだ。
何かが、誰かが、意志が、いや、本当はただの偶然かもしれない事象かもしれない。
だがヨウは姿を消した。
姿を消し、移動したのだ。
異なる世界、異なる地へ。
ヨウも知らぬ、ヨウを知るものがいない場所へと運んだのだ。
魔物、魔人、亜人そして人が暮らす世界へ。
魔法、神秘、祝福が存在する地へと。
ヨウは何を想いどう生きるのか。
それを今から語っていきたいと思う。
これにて序章は終わりです。
プロローグが長くて申し訳ない。
これからの物語に、主人公の今後の選択にかかわってくるため重めに仕上がってしまいました。
次話から異世界突入なのでお許しください。
ああ、文才が欲しい。