第0試合のデビュー戦
試合会場のスタッフと思われるイヤホンを付けた男の人達や、これから試合に臨むであろう雰囲気の女の人達との間を抜けて、縁君が金属製の黒いドアの前に立つ。
会場に繋がるゲートは奥から観客の歓声が響いていて、選手の登場を今か今かと待っているが外からでもはっきりと伝わってきた。そんなゲートを前に、縁君が「ふー……」と大きく息を吐いた。
『緊張してる?』
「まあな……」
視線が伺えない顔をしていても、こくりと頷いた縁君が言ったそれが何となくそれが本心であることが伝わってきた。
「実を言うと、俺がこんな事態になったのは本当に偶然だったんだ……というかそもそも考えていなかった」
『それは、さっきの?』
先の男の子の事を思い出して確かめると、縁君は「まあな」と頷いた。
「本来この場所に居るべきだった奴の事含めて……試合後には話させてもらうさ」
『そ』
ならまあ、良いか。
「……悪かったな。それとサンキュー」
ゲートが開く直前、縁君がぽつりと呟いた。
『?』
「俺の無茶ぶりに付き合ってくれたこと。正直、感謝してる」
『ああ』
それね。
『まあ、流れって事で』
僕自身流されやすい性質だし、そういう人間を引き当てたのは不幸中の幸いと言えるかもしれないよね。
「やっぱり、お前、変わった奴だよ」
そう言って、縁君は少しだけ楽しそうに笑った。直後、ゲートが開き、会場のスポットライトが薄い隙間から強く差し込んできたのだった。
◆
『さあ、始まりましたIR特区トーナメント2022シーズン10! 今宵もいくつもの新星達がリングを舞い踊る事でしょう!! 今日は特に新人選手が多く、なななんと! 第0試合を三試合の拡大版でお送りさせていただきます!!! まずは赤コーナーより合鏡縁選手の入場です!!!』
リングアナウンサーの声が響く中、既製品と思われる軽快な音楽が響き、暗いホール内に紫を基調としたライトが散乱する。
「……」
その中を、観客を煽るでもなく淡々とリングに向かう縁君は表面上はリラックスした様子で花道の先を見詰めていた。
『……』
もっとも、実際の内心はそこそこ緊張しているみたいだったけど。
『縁君、縁君』
「ん?」
花道を歩く縁君に頭の中で話し掛けると、周りに気付かれない様に、僅かにだけど首をかしげた。……さて。
「どうした、スー?」
『……』
「スー?」
うん。
『縁君の緊張を解そうとしたんだけど、そもそも僕にそんなスキルがないことに今気付いた』
「おい」
カクンとずっこけそうになった縁君にパンッとショートスパッツをはたかれた……痛い?
『あれ? リングコスチュームって、痛覚も残ってるの?』
「……マジか?」
伝わってきた痛みが意味するところに、驚いていると、縁君も予想外だったのか、目を丸くしていた。花道を歩きながら、そんな会話をしていても、縁君の挙動不審がばれない事に、僕はその長い前髪に感謝した。
『失敗したな……知ってたら、了承しなかったんだけど』
「……すまん、スー」
『あー、良いよ気にしなくて』
観客に聞こえないように圧し殺した声で僅かに俯く縁君だったけど、謝罪は本心だったし、このことは知らなかったみたいだし、仮に知ってたら話すつもりですらあるみたいだし……なら、まあそこまで目くじら立てることでもないと思う。
「……良いのか?」
『謝罪が本心じゃなかったら、騒ぎ立ててたかも知れないけどね』
縁君は少なくとも、僕に対して嘘は吐かなかった。便利なリングコスチュームのおかげで、手に取るようにそれは理解できた。ならまあ、知らないことの一つ二つでどうこう言う気にはならない。
「そうか、サンキューな」
『はいはい』
さ、それよりも、試合だ。
幸か不幸か、バカなやり取りのおかげで、リラックス出来た様子の縁君が、他の若手レスラーが開いたロープの間から小柄な体をリングに滑り込ませ……ようとして、引っ掛かったおっぱいに顔をしかめると、それを抑えて、今度こそリングインする。コールされた赤コーナー側に立つと、そこにスタンバイしていたセコンドの人達が「リラックスして。試合を楽しみなさい」と縁君に微笑んだ。
『続いて、青コーナーより、狂犬、ハウンドドッグ柴田選手の入場です!!』
縁君が赤コーナーに身を預けるのと同時に、先の縁君の入場曲よりも荒々しく、そして、何となく情熱的にも聞こえる音楽が響き、次いで血色のライトが会場を飛び回った。
「うぉおおおおおおおおおん!!」
直後、開け放たれた金属製のドアの奥から出てきた一人のレスラーが、リングネームの通りの雄叫びを上げた。
乱雑に切られた短髪
猟犬を模した鋭い印象のリングコスチューム
荒々しい所作
野性味を帯びたそれを振り撒きながら、リングに上がった彼女は、タンッ!と軽やかに跳び跳ねると、トップロープを鮮やかに飛び越えリングインを果たした。
「おおおおおおおおおおおおおおおおん!!!!」
リングの中心で前傾姿勢になり、再び遠吠えをする姿は荒々しくも気高い、文字通りのハウンドドッグだった。
『派でなパフォーマンスだね』
「だな」
黙々とリングに上がった縁君とは実に対照的な所作。自分がスターダムにのしあがると信じて疑わない、そんな希望に満ちた爛々とした目で相手レスラーは前髪に隠れた縁君の目をひたと睨み付けてきた。
「ぐるるるるる!」
「……」
喉を鳴らし、本物の犬のように威嚇してくるレスラーを前に、縁君は無言で気力を全身に漲らせて、相手の威圧感を跳ね返す。動と静、分かりやすく対照的な二人のレスラーの対峙に、観客も乗せられて次第に歓声が大きくなる。ことエンターテイメントに関して言えば、分かりやすさというのは一つの武器になる。
『大丈夫かい、縁君?』
「ああ。問題ない。スー」
念のため確かめるも、縁君の回答は簡潔で、気負いの無いものだった。
『赤コーナー、合鏡、えぇぇぇぇぇぇぇにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃしぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!』
「「「「「おおおおおおおおお!!!!!!!」」」」」
「……」
リングアナウンサーのコールに、観客の歓声のボルテージも上がる中、縁君が着ていたTシャツを脱ぎ捨て、グッと長い右腕を高々と突き上げて、観客へと無言のアピールを向ける。が、
「「「「「……………」」」」」
何故か、縁君がTシャツを脱いだ瞬間、それまで鼓膜が破れそうな程に鳴り響いていた観客の声がピタリと止んだ。
「ん?」
何かあったのか? 不思議そうに首をかしげる縁君のパンツの中で、僕も同じく首をかしげた。見ると、正面に相対するハウンドドッグさんもポカンとしていた。ううん?
「貴女!!」
二人揃って首をかしげる僕と縁君の前に、レフェリーのお姉さんが悲鳴半分に飛び出してきた。
「な、何をやってるんですか!! そ、そんな格好で!!」
そんな格好?
レフェリーの言葉に、視線を自分に向けた縁君。そして、縁君が視線を下ろすと何故か縁君にしか見えないはずの光景が僕の頭の中に流れ込んでくる。
「『……あ』」
そして、僕と縁君は同時に声を漏らした。
レガースは良い。別に多くのレスラーが身に付けている
ショートパンツも問題ない。これもよくあるものだ
グローブ、エルボーパッド。欠片も疑念を挟む余地はない
だが、
「ぶ、ブラジャーはどうしたんですか!!!」
そう、僕と縁君が見下ろした先、そこにはTシャツを大きく押し上げていた縁君の胸、端的に言うとおっぱいがたゆーんとブラジャーすら着けることなく、衆目に晒されていたのだった。
「「「「「「「「「「う、うぉおおおおおおおおおん!!!!!!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」
明らかに、先のコールよりも大きな男性ファンの歓声に、此れまでも十分に高かったはずのボルテージが本当にホールを破裂させてしまいそうなほどに昂った。
「完全に忘れてたな」
その光景に、どうしたものかと頭を掻く縁君。実際、僕も全く同じ感想だ。
今でこそテレビで見ることはまず無いが、男子プロレスラーといえば、普通は上半身裸。縁君も当然その感覚なのか、僕を着るにあたっても、ブラジャーが無いことに欠片も違和感を持っていなかった。当然、その淀み無い手付きに僕も気付くことは無かったわけで。
「「「「「「「「「「え! に! し! え! に! し!」」」」」」」」」」
会場は最早縁君のファン一色になっていたのだった。
『取り敢えず、レフェリーさんに事情を説明しないと』
「そうだな」
頷いた縁君が「実は」とレフェリーのお姉さんに切り出す。
「リングコスチュームを召喚してコスチュームになってもらったら、ブラジャーが無かったんだ」
「はぁっ!?」
縁君の回答が予想外だったのか、レフェリーさんは唖然とした様子で目を剥いた。まあ、そうなるよね。予想外の答え、そして、予想外の事態に明らかにレフェリーさんは混乱していた。
プロレスラーは、その規定上、自身のリングコスチューム以外のものを試合中に着るのは禁止されているのだ。当然、縁君はその規約を遵守している立場になるわけで。
レスラーが態々自分の不利になることを口にする理由もない。つまり、こんな格好をした縁君が態々嘘を言うわけがない。
「す、少し待っていてください!」
事実を理解したレフェリーが慌ててリングの外に出て、大会の管理者と競技に入る。
「別に俺は気にしないんだけどな」
『流石にそういう訳にはいかないと思うよ』
実質、猥褻物陳列罪だし。縁君の体は端的に言って綺麗と言えば綺麗ではあるんだけどさ。
「『……』」
じっと経過を待つ間も観客の歓声が止まない。男性客からの歓声と、女性ファンからの怒号に晒されてい待つことしばし、焦燥した様子のレフェリーが再びリングへと戻ってきた。その手にはマイクと、そして、小さなメモが握られていた。リングの中央に進み出たレフェリーさんはマイクのスイッチを入れると、こほんと一つ咳払いをした。
『えー、只今の試合、合鏡選手は大会規定通り自身の召喚したリングコスチュームのみでリングへと上がっております! そして、当大会実行委員会は『大会規定を遵守してリングに上がったレスラーに、門戸を閉ざす理由はない』と判断! よって、合鏡選手が現在のコスチュームでの対戦を希望する場合、このまま試合を続行するものと致します!!」
「「「「「「「「「「おおおおおおおおお!!!!!!!」」」」」」」」」」
当然のごとく号音の鳴る会場。その中心で、レフェリーが「どうしますか?」と縁君にマイクを向けた。
『此処で、尻尾巻くならそもそもリングに上がってないぜ。それよりも、そっちのワンコはどうする?』
挑発する様に反対側に居たハウンドドッグ選手にマイクを投げると、パシッとそれをキャッチした相手は、
「上等だこらあああああああああああああ!!!!!!!!」
と青筋を浮かべながら叫んだ。
『随分、直接的に挑発したね?』
「まあ、観客へのサービスは必要だからな」
『さもありなん』
トップレスの時点で、相当サービスしてる気もするけどね。
そうこうしているうちに、全ての準備が完了。予定より遅れること10分、
「ファイッ!!」
試合開始のゴングが鳴らされたのだった。
リング中央に出た縁君と|対戦相手《ハウンドドッグ柴田選手》の構えは対照的だった。
方やむちりとしながらもすっと通った体躯から直立した姿勢で両腕を持ち上げ、側頭部をガードしながら相手を見下ろす縁君
方や、縁君よりも小柄な身体を目一杯前傾姿勢にして、地を這うようにしながら「ぐるるるるる!」と睨み上げるハウンドドッグ選手
睨みあった両者がじりっじりっと間合いを詰め、そして、
「「!!」」
無言の気合いと共に、ガシッ!とリングの中央でがっちりと両手で噛み合った。ぎりぎりと震える両腕は二人の込めた力を反映するかのように膨張し、浮かんだ血管がびくびくと震えている。
「くぅっ!」
先手を取ったのは縁君の方だった。体格差に任せて相手を上から押し潰すと、そのまま一気にロープまで持っていく。
「んむぅ……」
二人分の体重に、ぎしっと音を立てて大きくロープがしなる。縁君が大柄で、対戦相手が小柄なこともあってか、縁君の大きなおっぱいに埋もれたハウンドドッグ選手が苦しそうに呻き声を上げた。
「ブレイクッ!」
体重を乗せて、ミシッミシッと縁君が相手のスタミナを奪いにかかると、すかさずレフェリーが間に割って入ってくる。
「……」
じりっと距離を開けた縁君を相手はぎりっと不快げに睨み付けてくる。ふむ……。
『縁君』
「おう」
ふと思い付き、声を掛けると、察してくれた縁君は小さく頷き、離れ様にスナップの利いた逆水平チョップを相手の胸元に放った。
スパアンッ!! と鮮やかな音が響き「ぎゃんっ!?」とハウンドドッグ選手が悲鳴を上げる。この日初めての反則行為に、観客の熱気が更に大きくなる。
『ああっと、合鏡選手の強烈な逆水平!』
「ブレイクッ!!」
「……」
レフェリーが何かを叫んでるが、縁君は努めて平静に、そしてふてぶてしく距離を取る。
「っ!!」
前髪の奥からひたと相手を見据えると、ハウンドドッグ選手はきっ!と怒りに燃えた視線で睨み返してきた。……ううん?
『ねえ、縁君』
「ん? どーした、スー?」
『何か、想定外に怒らせてない?』
「ん……」
「ぐるるるるる!」とギミックに忠実に唸り声を上げるのはさっきと変わらないけれど、その視線が明らかに怒りを帯びていた。確かに、縁君は一発反則を見舞ったけど、プロレスでは日常的なそれに態々そこまで反応するかな?
「確かに、そーだな」
縁君も同意見だったのか、再びグローブを構えながら、小さくこくりと頷いた。んん?
『ねえ、縁君』
『今度はどうした?」
『あっちの目、縁君の胸に行ってない?』
「ん……?」
縁君が相手の目を追うのに合わせて僕の視界もそれを追う。その視線の動きを確かめると……
「確かに、そーだな」
地を這う様な体勢で響いてくる、激怒を乗せたそれは確かに縁君のおっぱいに向かっていて……
「『あ……』」
そして、僕が気付くのと同時に縁君も気付いて、縁君が気付くのと同時に僕も気付いた。えーつまり、相手選手の胸は、
「小さいもんな」
思わず縁君が呟いたように、確かにこう、機能的でスポーティーなサイズなのだった。
「ころおおおおおおおおおおおおおおおおおおおす!!!!!!!!!!!!!」
「あ、やば」
『縁君……』
そして、思わず漏れてしまった縁君の一言は、耳敏くもハウンドドッグさんに察知されてしまった。
『おおっと!? ロープブレイク直後、柴田が跳んだああああああああ!!!!!!!』
リングアナウンサーの絶叫通り、バンッ!とマットを飛び上がったハウンドドッグさんが×の字に交差させた両手がガツンと縁君に直撃する。
『「がっ!?」』
直後、顎に激痛が走る。拳大の石か何かを顎に思いっきり叩き付けたかのような、そんな衝撃だった。え? まさか……。
「……」
僕の思考が伝わった縁君も、何があったのかを理解したらしく、前髪の中で目を丸くしているのが分かった。そっか、これって……。
『まさか、痛覚なんかを共有しちゃうなんてね……』
視覚がいっしょくたになっているのと、思考が駄々漏れなのとで気付くべきだったのかもしれないけど、そっかー、マジかー。
顎を撃ち抜いた痛みに思わずそこを撫でようとしたけれど、今って手がないんだよね。
「おらぁ!!」
『「がはっ!?」』
一瞬、僕と縁君の二人が怯んだ瞬間、まるで野性動物の嗅覚で勝機を察知したのか、今度は反対側のロープを使って跳ね、縁君の腹に強烈なスピアーを打ち込んできた。まずい、吐きそう……。
『「ぐうううううう!?!?」』
『合鏡悶絶!! ハウンドドッグ柴田の強烈なスピアーを前にのた打ち回るしかありません!!』
「立こらぁ!!」
『「ぐっ!?」』
煽る実況の前で、僕と縁君ににじり寄ってきたハウンドドッグさんが縁君のポニーテールを掴んで引っ張り上げてくる。ていうか、髪は止めて。気持ち的に本当に止めて。男はそういうの敏感なんだから。
「てめ……」
「これが……これが何だってんだよ! ああ!?」
『「ぎいいいいいいいいいい!?!?」』
同意見だったのだろう、縁君が前髪の間から相手選手を睨みつけた瞬間、それ以上の気迫と怒号が響き、同時に胸に激痛が走った。
『ああっと! これはいけない!! ハウンドドッグ選手! 合鏡選手のバストにぎりぎりと爪を突き立てる!! これはさながらバストへのクロー攻撃だぁ!!!!』
一瞬、何が起きたのか分からなかった僕と縁君は実況の言葉に目の前のハウンドドッグ選手が何をしているのかを理解する。見ると、その小さな両手が縁君の大きなおっぱいを力任せに握り潰そうとしていた。ていうか、本当に痛い。
「ぶよっぶよぶよっぶよ! こんな! こんなもん無くたってなあ!! これ見よがしにぶらんぶらんさせやがってよおぉ!!!」
『「いぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ!?!?!?」』
『合鏡のバストに爪を立てたハウンドドッグ!! そのまま豊満なバストを力任せに捻り上げたあああああああ!!』
「別に、なりたくてこうなった訳じゃないぞっ!」
『あ、それ』
息も絶え絶えに、恨めしげに相手を睨みながら呟いた縁君だけど、それ、どう考えても悪手じゃない?
縁君がそう言った瞬間、パッと放される縁君のおっぱい。
「ふ、ふふふ……」
だが、手を離したハウンドドッグ選手は先の激情に駆られた怒気を引っ込め、代わりに凄く穏やかな表情で佇んでいた。
「……なあ、スー」
『何? 縁君』
「俺、もしかして不味いこと言ったか?」
『もしかしなくても、言ったと思うよ』
「そうか……」
僕の返答に前髪の奥で遠くを見る縁君。まあ、気持ち的には僕も同じ状態だった。というか、何で男の身でおっぱいのことで恨まれなくちゃいけないかなあ。
「く、くくく、くくくくくくくくくくくくくくくくくく!!」
迸る殺気
目に浮かんだ憎悪
そして、
『おおっと! ハウンドドッグ柴田! 此処でコスチューム解放だぁ!! 敵の反撃も許さず、一気に勝負を決めにいくつもりかぁ!?』
アナウンサーの絶叫と同時に、相手選手の頭のから垂れ下がった二つの犬の耳。剥き出しの歯が鋭く尖り、文字通り"ハウンドドッグ"の特徴を手に入れた柴田選手が縁君の右手を力任せに掴むと、反対側のコーナーへと思いっきりぶん投げる。
「うおおおおおおおおお!?」
振られるがままに対角線を走った縁君がガツンとコーナーマットに背中を預ける。というか、普通に痛いんだけど……。
だけど、|相手《ハウンドドッグ柴田選手》の攻撃は此で終わりじゃなかった。
『「っ!」』
対角線上で何とか体勢を立て直そうとする縁君を前に、畳み掛けるように前傾姿勢となった相手が一切のブレーキなく真っ向から突っ込んでくる。……まずくない?
「!?」
同時に同じ感想を持ったのか、縁君も咄嗟に身を翻そうとする。だけど、コスチュームを解放した相手選手の猟犬ダイブに人間のまま反応するのは無理がある。
何処か諦観じみた感覚で、跳躍する敵を見ながら、何とかかわそうとする縁君の動きに任せ、
「『ぎいっ!?!?!?!?』」
そして、首筋に走った鋭い激痛に、二人揃って悲鳴を上げた。ていうか、痛い痛い! こう、鈍器で殴られる様な痛みじゃなくて、鋭い切り傷とかそういう感じの!
『ハウンドバイトォ!!! 強烈な噛み付き攻撃が憐れな獲物に止めを刺すうううううううううううう!!!!!!!!!!!」
「くそっ! 離せ!!」
何とか振りほどこうとする縁君だけど、小柄な体でまとわり付かれて、中々引き剥がすことが出来ていない。一方の僕の方はといえば、手も足も出ないどころか、肝心の手足がないせいで、手足を出すことすら出来ずに耐えるしかない。ていうか、痛い。……痛い。
「くううっ!!!」
『縁君?』
呻いた縁君が振りほどけない中で、何とか力任せに相手を持ち上げる。そして、
「っ!!」
「ぎゃんっ!?」
何とか敵をマットに叩き付けた。
ダンッという音が響き、悲鳴と共に顎を離した敵レスラー。だけど、
「……っ」
『縁君?』
そこで力尽きた縁君は、その場でガクッと膝を突くと、そのままドサリと俯せに倒れてしまった。
『縁君!?』
荒く息を吐く縁君は、流石に命がどうこうはないだろうものの、奪われたスタミナのせいでかなり苦しそうだった。……。はっきり言って、戦局は遥かに不利だ。僕に何かしら力があれば全然違うんだろうけど……。
『……!? 縁君!!』
手を出せないと、埒もないことを考えてしまう。ぐったりとリングに崩れ落ちた縁君に着られていた僕は俯せの縁君に近付いてきた人の気配に、咄嗟に声を上げた。けれど、
「うぁ……」
受けたダメージの抜けきらない縁君は苦し気に呻くことしか出来ないでいる。
「ざまぁねぇな!!」
「ぐぅ……」
ポニーテールを引っ張り上げられた縁君がぐったりとしたまま、ロープに両腕を後ろ手に引っ掛けられる。……。
「さーて、俺様を虚仮にした分、きっちり倍返しにしてやるからな!」
そう言って、ポキポキと分かりやすく拳を鳴らして近付いてきた相手はぶんっと振りかぶって、
「『がはっ!?』」
縁君のおっぱいを横合いから力任せにぶん殴ってきた。
「「「「「「「「「「おおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」
バチィンッ!! と会場全体に響きそうな音で鳴った縁君のおっぱいに観客の熱気が天井を突き破りそうになっている。
「『ぐううううう……』」
けれど、此方はそれどころじゃない。さっきの攻撃はまだ現実感のある範囲の痛みだったけど、今食らった一撃は何て言うか、この世のものとは思えない痛みだった。元々、縁君のおっぱいが大きかったせいもあるんだろうけど、その大質量を力一杯吹っ飛ばされて、おっぱいの根元が引きちぎれそうな気がした。……。
「もういっぱあああああああああああああああつ!!」
だけど、当然、その攻撃が止むわけはなくて、横に吹っ飛んだ縁君のおっぱいを、待ってましたとばかりに敵の左手のビンタが反対側へと弾き返す。
「『ぎいいいいいいいいいいいっ!?』」
やばい、泣きそうなほどに痛い……。
「はあっ……はあっ……」
引かない痛みの中で、何とか意識を保っても、縁君の方がもう限界に近いみたいだった。……まずくない? これ。……。
(……ていうか、何でこんな目に会わなきゃいけないのかな、本当に。いやさ、リングコスチュームになるのを認めたのは僕って言うけど、あの状況じゃしょうがないじゃん。縁君だって困ってたし。流されただけって言うけど、別に流されたくて流された訳じゃないのにさあ)
あまりの激痛と状況の埒のあかなさに、思わず愚痴だけが頭に浮かんじゃうんだけど……
「立ておらぁ!」
「『ぐっ!?』」
(ていうか、此方も此方でさあ、おっぱい小さいのなんて、別に僕も縁君も関係ないじゃん。恨むなら自分の生活か遺伝子を恨むべきなのに)
「俺様はな、テメーみてーな、リングに立つ覚悟もねーくせに、色気で釣って人気だけ手に入れようってレスラーがいっちゃん気に食わねーんだ!! まだまだこんなもんじゃ済まさねーぞこらぁ!!」
「……くそっ」
煽る相手レスラーに、縁君は何とかそれだけを呟いた。そして、その縁君の腰元で、
―何か、不愉快だな……―
僕は漠然とだけど、そう思った。
いや、縁君が本気で覚悟を持ってプロレスしてるかって言ったら、違うと思うよ? というか、むしろやむにやまれぬ事情ありって感じだったし。けどさ、義務感とかそういうものが覚悟に負ける理由、ある? そんなの人それぞれじゃん。
ていうか、レスラーとして一途じゃないってことに怒ってる風な口振りだけど、実際は単に縁君のおっぱいに対する嫉妬だよね? なんだかなぁ……。
僕も事情を全部知ってる訳じゃないけど、単なる嫉妬の癖にそこまで言うかなあ。
『おぇっ……』
何か、愚痴ってたら、胸がムカついてきた。……気持ち悪いな……。
「スー? 大丈夫か?」
『ん? ああ、大丈夫だよ』
鬱々としてたら、縁君に気遣われてしまった。正直、愚痴って自家中毒になっただけなのに、申し訳なくなってくる。
「……悪い」
相手レスラーが、止めの一発とばかりに拳を振り上げてロープに走るのを長い前髪の奥から見送りながら、縁君がポツリと呟いた。
『? 何が?』
いや、本当に何が?
唐突かつ訳の分からない縁君の謝罪に、僕は思わず無い筈の首をかしげた。んん?
「こんな事に巻き込んだことだ」
ああ、
『別に気にしなくていいよ……ダメージが共有されるっていうのは予想外だったけど、プロレスである以上諦めはついたし』
「けど、もう少し上手い試合運びしてたら」
ダダダダッ!と迫り来る相手レスラーを前に、縁君が苦し気に呟いた。……うーん、
『まさか、おっぱいが引き金になるとは思わなかったよね』
何処か呑気に、ある意味諦めの境地で僕はぼんやりと呟いた。
何か、胸のムカつきが更に強くなった気がした。
『うっ……!?』
胸の奥で競り上がった不快感に、ピークになった吐き気にえづいた。というか、胃も食道も無いはずなのにな。
「スー!?」
僕の異変に気付いた縁君が悲鳴を上げる。
「死ねやあああああああああああああ!!!」
迫り来る相手レスラー、それを前に、とうとう耐えきれずに、
『う、おえええええええええええええええええええ!!!!!!!!!』
腹の底のものを全て吐き出すように、漏らしていた。
「なっ!?」
直後、驚愕する縁君の声。その視線の先では、
『おおっと!?!? どうしたハウンドドッグ柴田ぁ!!! 必殺のハウンドドッグラリアットの直撃が決まったと思った瞬間、リングの中央で突っ伏したぁ!?!?」
リングにぐったりと倒れる相手レスラーが。というか、つんと漂ってくるこの酸っぱい臭いってもしかしなくても……。
「!!」
思わずそんな事を考えた僕の中で、しかし、縁君はチャンスを逃さなかった。
よたよたとではあるが、リング中央で突っ伏す相手に近寄ると、その腰を抱き上げて力任せに小柄な身体を持ち上げた。
『おおっと! この体勢はあああああああああああああ!!!!!!!!!!』
「行く……ぞっ!」
ぐにっと弾んで邪魔をするおっぱいに苦戦しながらも、何とか相手を抱き抱えた縁君は二人分の体重を乗せて、バンッ!と跳躍する。そして、
「しっ!!」
大きく開いた、むちりとしながらも流線型の両足に、敵の頭が最下点となる。
叩き落とされたメテオ。二人分の体重を乗せた人塊は、
『決まったああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!! 合鏡の渾身のパイルドライバァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!』
敵の撒き散らした吐瀉物の上に墜落したのだった。
「はぁ、はぁ……」
物言わぬまま、べしゃりと仰向けに倒れたハウンドドッグ。白目を剥いた敵レスラーを前に、縁君が息も絶え絶えになりながらもにじり寄る。そして、
『カバアアアアアアアアア!!!!!!!!!!』
倒れ込むように、身体で敵レスラーを抑え込む。
「「「「「「「「「「ワンッ!」」」」」」」」」」
大きなおっぱいが相手の顔面を包み込むと、もう逃げられない。
「「「「「「「「「「ツーッ!!」」」」」」」」」」
ビクビクッと両足を震わせた相手の上で、
「「「「「「「「「「スリーッ!!!」」」」」」」」」」
縁君と僕は辛くも勝利を手に入れたのだった。
今回も読んでくださり、どうもありがとうございます。また、お気に入り登録してくださった方、大変励みになります。
次回は二人の反省会になります。また読んでいただけたら幸いです。ではでは!
【里神楽雪】
語り部
なし崩し的に縁のリングコスチュームになる。最も蒸れ蒸れな主人公
【合鏡縁】
いきなりトップレスにさせられたレスラー
まあ、(中身は)男だから別に良いよね!