僕、リングコスチュームになりました
―東京では、雪が降らない―
これは、僕が中学になるまで本気で信じていた俗説だ。実際は俗説どころか、情報量の不足から来る思い込みにすらならない妄想でしかなかったわけだが、
「お……」
上京してきて二年。こう、雪が降るのを見ると、少しだけ、愚かな昔の自分と共に故郷を思い出すようになっていた。
「……!」
ふと、ボロいアパートで響いた巨大な歓声。振り返ると、古い液晶画面の中で、四角いジャングルに立ったガウン姿の女子プロレスラーに向かって、これでもかと降り注がれた紙吹雪が、キラキラと熱い照明の光を反射している。
僕が地吹雪の厚い山形県から上京してきたその年にIR法により、上京先の第二東京は一夜にして巨大な賭博都市へと変貌したという。その日まで、多少歓楽街的な気質はあっても、日本人らしく賭博の類いを大っぴらにすることのなかった第二東京の人々は、その日から目に見えて賭博を大っぴらにするようになったという。パチンコ、競馬、競輪、競艇日本でも比較的メジャーだった賭博に加え、新たに開かれたカジノ等も多くの富を人々から集め、そして吐き出していった。
そんな中で、最も人気を博したのが、この女子プロレスだった。
『おらぁ!』
『おおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
安いテレビのスピーカーからもスパァン!!と鮮やかに響く逆水平チョップの音。その鮮烈な一撃に沸き上がる周囲の観客の歓声。その声は、自分が賭けたであろう黒いエナメル質のリングコスチュームを着たレスラーに活気付いて声援を送る赤コーナー寄りの人々と、倒れた贔屓のレスラーの敗色濃厚な姿に悲鳴を上げる青コーナー寄りの観客で、綺麗に二分されていた。
『さて、強烈な逆水平から、フェアリー金井をダウンさせたコング松本! 無理矢理可憐な後輩レスラーを引き上げると、再び鮮やかな逆水平!!』
『乱れ打ちですね。これでは金井は反撃の隙を掴むことすら難しいでしょう』
テレビ向けに聞こえるアナウンサーの声と、続く間延びした解説者の感想に、一瞬目を止めてしまったが、直ぐにチャンネルを変えることにした。
ー女子プロレスー
一見、マイナーもマイナー。物凄くマイナーな競技が此処までメジャーになったのには二つの訳がある。
一つは興業の成立のさせやすさ。IR法が施行されてから、此まで多くの既存スポーツが賭けの対称になってきた。それこそ、野球とサッカーという本命の競技から相撲といった国技、更にはバドミントンや卓球といったややメジャーからは外れたもの迄だ。
だけど、それらは全部失敗した。
考えてみれば当然で、野球やサッカーに限らず、スポーツというものは観客が真剣勝負だと思うからこそ、興業として成り立つ部分がある。そうなると、自然と勝負は自力の差が出るわけで、チーム数に限りがあることもあってか、賭けが成立しない程にチームに差がある場合が少なくなかった。辛うじてメジャースポーツで成立しそうだったのは相撲くらいだが、此方は此方で八百長や賭博の問題の払拭に取り掛かっていた最中。国技を自認する向きもあり、結果として、賭博は成立しなくなってしまった。
そんな中で台頭してきたのが、意外にも"プロレス"だった。
元々、試合の流れを決める"ブック"の存在が明確化されていた事もあり、他のスポーツではネックだった"全ての試合で賭けが成立しない"という問題の解消に成功。所謂"ガチ"と"ブック"を明確化した上で、それぞれ"実力はどっちが上か"と"シナリオはどう動くか"の二つの視点から賭けを行い、更に"ブック"では小口の、"ガチ"では大口のと、それぞれのニーズに合った興業を一度に行うことに成功もしていた。そしてもう一つ、同じプロレスでも、女子だけが人気を集められた理由、それが、
『おおっと! ここで金井、コスチューム解放!! 背中から生えた純白の両翼は、正にフェアリーそのものぉ!!!』
この、リングコスチュームの存在だ。
リングアナウンサーの言葉通り、此まで一方的にやられていたベビーレスラーの体が発光した瞬間、その背中から紋白蝶に似た大きな翼が花開き、同時にふわりと軽やかに宙を舞い遊ぶ。まるで、本物の蝶になってしまったかの様なその姿は、こと女子プロレスに限っては最早見慣れた光景ですらあった。
科学が発展し、この世のありとあらゆる秘密が明らかになった頃、此まで科学と対局にあったあるものが注目を浴びるようになった。それが、所謂"御守り"の類いだった。にわかには信じがたいそれだが、科学的に証明されるにあたり、大きく社会に受け入れられるようになる。『科学的に説明がつくなら受け入れる』普段から、別に科学的なメカニズムを全て理解した上で家電製品を使っているわけでもない一般人はこのジャンルをあっさりと受け入れた。まあ、僕含め、普通の人からしたら、生活が便利になるなら何でも良い訳で。
そんな、"御守り"をスポーツで真っ先に取り入れたのが、他ならぬプロレスだった。初めは入場時のコスチュームに、次いで"スーパー・リングコスチューム・デスマッチ"限定のリングコスチュームとして、最後には現代のプロレスのように、プロレスのスタンダードなリングコスチュームとして。元々、他のスポーツと違って様々な試合形態を好きに作っていたプロレスは、試合そのもののルール改訂が入らざるを得ない他競技に比べて、受け入れが極めて容易だった。そして、どんな競技よりも早くこの"御守り"の力を取り込んだプロレスは一気にスターダムをのしあがって行ったのだ。ただ一つ、大きな問題を除いて。
その理由こそ、このプロレスと台頭において、他ならぬ"女子"の方がのしあがった理由。そう、
あのリングコスチュームは、女性にしか使えない
のだ。
まあ、考えてみれば当然で、古来から巫女さんなんて言葉は読んで字のごとく、すべからく女性な訳で。派手で見映えのする女子プロレスラーの超人的な興業は、現在の日本では男子プロレスはおろか、その他のプロスポーツすら押し退けて、今や堂々の花形スポーツなのだったとさ。
「っと、こんな時間か……」
普段はあまり、プロレスを見ない僕でも、ついつい魅入っちゃうくらいには見映えのいい試合に、知らず知らずのうちに時間を使っちゃったけど、今日中にやっておきたい課題もある。
テレビの中では、反撃した紋白蝶のレスラーがスリーカウントを取ったところだし、丁度良いかと、スイッチを切ろうとした瞬間、それはまるで見計らったかのように、訪れた。
「え?」
テレビの電源に伸ばした人差し指に、不意に絡み付いた薄紫色の光。まるでねっとりと粘度を持ったスライムみたいなその光は一瞬でプロレスの試合を映していたテレビ全体に広がり、
「うおおおおおおおおおお!?」
そのまま、掃除機か何かで吸い込むかのように、僕の指を、手を、腕を、そして体全体を引きずりにかかる。咄嗟に踏ん張ったものの、既に肩まで呑み込まれた状態ではなく、
「あ……」
気が付いたときには、足がフェルトのカーペットから離れ、僕の視界は先の薄紫に一色に染まったのだった。そして、
「は? 人間……か?」
「……」
何か、いきなり人外扱いされた……。
先の薄紫の光が消えた瞬間、僕の目の前に映ったのは僕の方を身を乗り出して覗き込んでくる、女の子の姿だった。今時珍しい旋毛あたりで括られた長い艶のある黒髪。そして、風貌にを全て隠そうかとばかりに、鼻先近くまで伸びた前髪。特徴的なその顔付きは何処と無く硬質なビスクドールを思わせた。というか、
(おっぱい大きいね)
「何か、変なこと考えてないか?」
「……」
バレた。バレバレだった。どうやら、女性は男性の視線には敏感だというのは俗説ではなく一つの事実だったらしい。ふむ、
「特には」
「そうか」
納得された。というか、聞いたのも何となくだったのかもしれない。僅かに傾げた首の動きに合わせてさらりと揺れた前髪の間から、ちらっとだけ見えた瞳は意外とあどけない物のように思えた。意外繋がりといえば、その声音も何となく意外だった。
問い掛けてきた声は女性にしてはハスキーで、何となくだけど、女の子らしい軽さを感じない声音に思えた。さて、
「部屋でテレビを見ていたら、まるでお伽噺かSF映画みたいに別の場所にワープした訳だけど、これは夢なのかな? それとも現実なのかな? 夢と断言するには視覚も聴覚も実感が籠りすぎているけれど、かと言って現実というにはあまりにも現状は不可思議だ」
「いや、現実だと思うぞ? そーじゃねーと、俺もお前の空想の産物って事になっちまうし」
そう言って、「変な奴」と愉快げに笑う彼女の仕草は何となく少年然としていて、傍目からも肉付きの良い体型に反して、何となくだけど年の割に随分と無邪気な印象だった。
「つるむなら悪くねーけど、こういう父親は俺は嫌だな」
「前言撤回、全然無邪気じゃないね」
けれど、ご名答。少なくとも、僕だったら僕が父親とか御免被るね。
「そこで、納得するのか」
「この世の何かが僕産まれとか、そんな力僕にあるわけないし」
これは本当「やっぱ変な奴」そうかなあ? ……ま、良いか。
「しかし、そうなると、ここはどこで、僕が此処に居るのはどういう訳なんだろうね?」
「あー、そうだな……」
僕がそもそもの質問をすると、少し困ったように思案していた彼女は何か腹を決めた様子で大きく息吐く。やっぱり、その姿には色気が無い。
「なあ」
「うん」
「俺の……リングコスチュームになってくれないか?」
何か、予想だにしないことを言われた気がする。
「うん……うん?」
正直、内心そのままに、そんな言葉を出すしかなかったんだけど。え?
「それ、頼む相手を間違ってないかい?」
主に、種族とか性別とか。
丁度、直前にテレビを見ていたせいか、彼女の言葉の意味と状況が何となく飲み込めた。そして、正直、それが、有り得ないということも。
「リングコスチュームって、あれだよね。テレビで女子プロレスラーが着ている、パートナーの動物が変身してなる、その動物の力を編み込んだとかなんとかの」
熊のリングコスチュームなら熊の力を、蝶のリングコスチュームなら蝶の力を、それぞれ手に入れられるリングコスチュームだけど、リングコスチュームに成るための契約の時に出てくるのは、人間以外の、雌の動物に限られると聞いた記憶がある。
「僕、何処からどう見ても、"人間"の"男"なんだけど」
「いや、間違ってはいないはずだ」
僕が確かめると、彼女はふるふると首を横に振る。黒い漆色のポニーテールがその動きに合わせてゆらゆらと揺れた。
「俺は確かに"リングコスチューム・オーダー"をしたし、そこから出てきたのはお前……そういえば、お前の名前何て言うんだ?」
「人に聞くときは自分から名乗るべきって言うのが通説らしいよ」
「通説なのか?」
「と、言われたことがあるね」
僕が肩を竦めると、彼女は「そうか」と頷いた。
「じゃあ、名乗らせてもらうか。俺は合鏡。合鏡……縁だ」
「合鏡縁ちゃんね。僕は里神楽雪。東京に降らない雪と書いて雪。まあ、好きに呼んでくれていいよ」
「じゃあ、スーで」
「……」
何か、真顔で釣りバカかメアリーしてそうな渾名を付けられた。いや、良いんだけどさ。
「お前も好きに呼んでくれて良いぜ」
「じゃあ、縁ちゃん「但し、ちゃんは止めてくれ」えぇ……」
何か、物凄い真顔(前髪で顔が隠れているから推定だけど)で言われた。うーん?
「じゃあ、縁君?」
「それなら良いぜ」
「良いんだ……」
何故、"ちゃん"が駄目で"君"なら良いのか……。だけど、"君"を付けると、彼女からは満足げな雰囲気が感じられた。
「俺がリングコスチュームのオーダーをしてから出てきたのは、スーだけだったからな。他には何も出て来てないし。そこだけは間違いないと思うぜ」
まじか。
"リングコスチューム・オーダー"
これは、一般に女子プロレスラーが自身のパートナーでもあり、超人的な試合をするための原動力ともなるリングコスチュームを作るための、所謂"儀式"なのだが、何て言うかファンタジーチックな召喚儀式みたいなものらしいのだ。召喚して出てきた動物をリングコスチュームにする。そして、縁君のオーダーからは僕が出てきたと。そうなると、彼としては選択肢が僕しか居ないわけで、当然、先の言葉にも繋がるわけだ。けど、
「仮に僕をリングコスチュームにしたとして、意味があるのかな?」
そう、リングコスチュームはコスチュームにした動物の力を手に入れるための魔法のアイテムだ。逆に言うと、その動物に力がなければ、余り役に立つとは言い難い。いわんや、それが人間である僕ならば尚更だろう。
「正直に言うと、俺にもそこは分からない」
やっぱり、思うところはあるんだろう。少し、渋い顔をした縁君がふるふると首を横に振る。その動きに合わせて、漆色のポニーテールがしなやかに揺れた。
「ただ、もう時間がないんだ」
縁君が呟いた瞬間、何処かから大きな歓声が聞こえてきた。
「これって」
「試合が始まっちまったな」
首肯した縁君。
「やり直しは出来ないの?」
「一人一回しか出来ないみたいなんだ。紳士協定とかそーゆーんじゃなくて、純粋に"リングコスチューム・オーダー"の制限らしくてな」
「ふむ……」
成る程……ね。状況見ると、確かに縁君は八方塞がりだ。
"リングコスチューム・オーダー"は一回切り。しかも、試合はすぐに始まる。確かに、僕に頼むしかないか……。
「分かった。良いよ」
「え?」
何か、呆気にとられたように、ポカンとされた。
「あれ? 喜ばれると思ったんだけど、違った?」
「いや、違わないけどな」
ゆるゆると首を振った縁君が「けど」と続けながら頭を掻いた。その動きに合わせて、Tシャツをパッツンパッツンにしているおっぱいがゆっさと揺れる。うん、眼福眼福。
「正直、断られると思った。スーって割とドライそうだし」
「失礼な。けれど、ご名答」
縁君に他の選択肢があったら、確実に逃げていたしね。
「その認識は合ってるよ。普段ならさっさと逃げてたし」
「じゃあ、どうしたんだ? ありがたいっちゃありがたいけどさ」
「縁君、相当切羽詰まってるでしょ? いくらリンコスとはいえ、こんなのに頼るくらいだし」
僕の確認に、縁君は「まあ……な」と頷いた。
「確かに、"リングコスチューム・オーダー"が一人一回って事情もあったんだろうけど、それでも女子プロレスラーらしい特別な力を望めない僕をリングコスチュームにしてでも試合をしたいってことは、何かしら並々ならない事情があるんだなってのが一つ。加えて、こんな気持ち悪いものを着てまでプロレスをしたいってこともあるしね」
「いや、気持ち悪いってな……」
「あれ? 思わない? 僕だったら、衣類の形をしていたとしても、"男"を"着る"なんて御免被りたいんだけど」
想像しただけで気持ち悪いじゃん。
此れが動物ならまだ分かる。虫とかだと個人的には遠慮したいけど、哺乳類なんかはペットと抱き合っても嫌悪感なんて覚えることはまずないだろうし。
けど、残念ながら、僕は何処からどう見ても、"人間"の"男"な訳で。
「ノーコメントだ」
とはいえ、流石にこれからものを頼もうって相手に直接的に言う気はないか。……僕なんかよりも大分良識派だね、ま、それも置いておいて、
「そんな、悪条件の中でですら、僕に頼み込もうとする辺り、よっぽどなんだなってね。僕は義を見て背を向け逃げ出す臆病者だけど、此処まで覚悟を決めた相手にそんな事したら、それこそ恨まれちゃうからね」
「いや、流石に恨んだりはしないぞ?」
「僕の気持ちの問題さ。縁君がそうでなかったとしてもね」
そう。恨まれるのは遠慮したい。相手が執念深かったりしたら、更に面倒だ。
「そうか。俺が言うのもなんだけど、悪いな」
しかし、僕の感想に良心が咎めたのか、縁君は申し訳なさそうに、そう言ってきた。ほんと、良識派だね、
「別に気にしないくても良いさ。万が一気になるなら、お礼の方弾んでよ。それなら、縁君も気にする必要無くなるでしょ」
拘束されるのは試合中だけだろうし、何なら休日の暇潰しには良いかもしれない。それで、縁君のファイトマネーからバイト代が出るなら、言うことなしだ。女子プロレスラーってことは、ここも第二東京だろうし、落とし所としてはこんなところだろう。
「そうか……」
僕の回答に、しっくり来たのか、こっくりと頷いた縁君がふっと口許を綻ばせた。長い前髪で目元が伺えない筈なのに、何となく、彼女が嬉しそうに笑ったような気がした。
「サンキューな、スー」
「どういたしまして」
僕が肩を竦めると、少しだけ愉快そうに縁君が喉を鳴らした。
「合鏡選手! スタンバイお願いします!」
と、のんびりしていたら、ここのスタッフの男の人と思われる声が白いドアの外から聞こえた。
「っと、すんません!」
声を張って返事を返した縁君が振り返り、俄に真剣な雰囲気を纏う。
「じゃ、始めるぜ」
「ん。どうぞ」
了承の意を込めて首を縦に振ると、縁君が白い手を伸ばして、僕の肩に触れた。小さなその掌は風貌に似合わず意外とゴツゴツした感触だった。
「"ツープラトン"」
「!?」
縁君がそう唇を動かした瞬間、それは訪れた。
腹の底、臍の辺りから急に胎内で弾けた熱
自分の身体が風船か何かになったような錯覚が脳を閉める中、出口の無いその熱源はじわりと染み出すように頭の先から爪先までを駆け巡る
「うわっ!?」
そんな熱さが何とか全身に均等に満ちたと思ったら、今度は全身が麺棒か何かで無理矢理引き伸ばされるような感触が襲ってきた。
初めは頭の先から、そして次第に顔、首、胸、腹と磨り潰しに来たその感覚に飲まれ、思わず声を失う中、気が付けば僕は控え室に備え付けられた、白いLEDの光を見上げていた。
『うわ、すっごく変な感じ……』
何て言うか、全身が動かない。腕も脚も感覚があるのに、欠片も動かせる気がしない。けれど、そのせいで体調がおかしくなる感じもしない。何て言うか、兎に角人じゃなくなった、そんな感じだ。
「大丈夫か? スー」
自分自身の身体に起きた変調に、浮かんだ沢山の違和感を確かめていると、視界の下側からひょっこりと顔を出した。長い前髪が重力に引かれて、露になった目鼻立ちははっきりとしていて、特につり目勝ちの大きな目はあどけなさもあって、余計に縁君の印象を少年ぽいものにしていた。
『体調に変なところは無いけれど……ちゃんとリングコスチュームになれてる?』
僕が首をかしげ……られないから、首をかしげた気分になっていると、目の前の縁君か「ちょっと待ってろ」と言って、一旦視界? から消えた。首もないから身を捩って縁君を追うことも出来ない。
真っ昼間に突然全身に訪れた不便さに思わずため息を漏らすと、下に居た縁君が「待たせたな」と言って、再び顔を見せた。
「ほら、此れが今のスーの見た目だぞ」
『うわぁ……』
そこにあったのは一枚のパンツ。そう、三角形の形をした、よくプロレスラーが身に付けている、紫色のパンツだった。その正面には何故か白いサソリが描かれている。
凡そプロレスラーしか着用しないようなそのパンツに流石に絶句する。なんて言うか分かってはいたけど、こうして実際に見てみると改めて僕がパンツになった実感が湧いてきた。そっかー、パンツかー。……。
『て言うか、今の僕って声帯も何もない筈なのに声出せてるの?』
「いや、声を出してるっつーか、直接頭の中に声が聞こえてくるっつーか」
『テレパシー的な?』
「多分そんな感じだと思うぞ」
頷いた縁君がひょいっと僕を持ち上げた感覚になる。
「スーは体に不調とかは無いか?」
『そっちは大丈夫だと思う。少なくとも、違和感以外は特にないかな』
「そうか……じゃあ、そっちの方は感覚あるのか?」
「? そっち?」
ひらひらと揺られる縁君が指さしたのは、さっき鏡に映ったパンツと同色のブーツにレガース、そしてグローブにエルボーパッドというプロレスラーでは御馴染みの装備数点だった。一応、これらも僕の身体から作られた事には違いなさそうなんだけど……。
ひょいっとそのうちの一つ、ロングブーツを縁君が持ち上げた瞬間、その感触とそこから導き出される事実に『うわ……』と思わず呟いてしまった。
「大丈夫か? スー」
『大丈夫。別に痛くは無いから。ただ、自分の身体から明らかに切り離された場所にある体の感覚だけがあるって、何か凄い変な感じだね……』
事実、縁君が持った紫色のブーツからは確かにさっきの彼女の掌の感触が伝わってきた。しかも、その感触は丁度足に触れられているような感覚で、このブーツが僕の足で出来ている事を暗に示していた。
「取り合えず、着るぞ」
『どうぞ』
縁君に(首がないけれど)気分だけ頷くと、下に穿いていたハーフパンツを脱いで、身長の割にすらりとした印象の白い足を僕の中へと通してくる。
『うおっ』
「? 大丈夫か? スー」
『ん。平気』
ただ、一寸妙な感覚だ。何と言うか、バレーボール大の大きさの何かが圧迫するように体の中に入って来る感覚とでも言うのだろうか。痛くはないけれど、何となく押し込まれる様な……。満腹感とも違うその感覚に、若干戸惑いを覚える。しかし、その感覚も一瞬の事で、視界の位置―多分、縁君の股間―に収まると、特に不快感はなくなったのだった。次いで、拾い上げられる膝丈までの同色のブーツ。多分これも僕の両足で、縁君の両足をするりと入れられると、こっちも筋肉の内側から指圧マッサージをされているような、なんとも妙な感覚になる。
『結構あれ、着られている間は圧迫されてるような感覚になるけど、着終わると違和感もなくなるね』
「そうなのか?」
『うん』
縁君が身に付け終われば、無くなるお陰で、違和感そのものは後には残らないものだった。
編み上げのブーツの紐を結び、レガースを身に付けた縁君が控え室に備え付けられた鏡の前に向かう。エルボーパッドを両腕に通しグローブに手を掛ける姿はバイオレンスな印象のTシャツも相まって、女子プロレスラーというよりは、地方で細々と開かれている男子プロレスラーのような印象だ。ていうか、
『そういえば、何でサソリなんだろうね?』
「? スーが蠍座とかそういうんじゃないのか?」
『いや、僕は天秤座。正直、サソリとは縁がないはず……多分』
シンプルなリングコスチュームの中で唯一アクセントとなっているショートパンツの前面に描かれた白いサソリの意匠は、実質僕の体が構成パーツな訳だけど、僕自身サソリとは縁があった記憶はない。今言ったように蠍座でもなければ、体にサソリのタトゥーがあるわけでもなし。サソリを飼っていたこともなければ、当然噛まれたこともないのだ。
「ふうん……」
『まあ、何か僕が気付いていないサソリ要素があったのか、それとも縁君の方にあったのか、それとも無関係なのか……』
「やっぱり、分からないな」
そう言って、縁君の方も首を傾げた。
「まあ、それは後ででも考えようぜ。それより試合だ……」
呟いた縁君が最後の衣装、左手のグローブを身に着けた。
その瞬間、それが流れ込んできた
それは、縁君の記憶の様な、感情の様な、不可解なものだった。
膨大な量のそれが急激に色のみならず、音と感触、更には匂いや味すら伴って流れ込んできたのだ。だけど、そんなものはどうでも良い。いや、どうでも良くもないれけれど、思い出や記憶なんて大抵の人が程度の差こそあっても持っている。問題は、
『……え? 男?』
この、縁君、今僕を着ている彼女の記憶が、全て男という事だった。というか、普通に男の子として生活をしていて、男の子としての記憶があって……。
「!?」
流石に驚いていた僕が、思わず呟くと、鏡の前で僕を纏う縁君の方が目に見えて狼狽していた。
『……』
「……」
『……』
「……」
鏡越しに(目もないけれど)互いに視線を交わす僕と縁君。というか、君て呼ばせたのってもしかしなくても……。
『ねえ、縁君「合鏡選手! 用意お願いします!!」
思わず疑問を口にしようとした瞬間、見計らったかの様に再度のスタッフの声が響く。
『……』
「後で……全部話す。」
少し躊躇いながらそう言った縁君の内心には嘘は見られない様に思えた。
『……了解』
まあ、それならそれで良いか……。
頷いた縁君が控室を出て電気の少ない薄暗い廊下を歩き出す。それに合わせて変わる視界の中で、一瞬見えた縁君と、そしてもう一人。
(江ちゃんね……)
縁君の記憶の中にあった女の子。それは、何処からどう見ても先の鏡に映った縁君と全く同じ外見をしていた。
好きなものを全部詰め込んでみました。
次回は実際の試合を始めます。