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第二部 キリシタン陰陽師

一 キリシタン一行との再会


 フランシスコ・ザビエルの初上洛から八年後の永禄二年(一五五九)和暦十一月、コスメ・デ・トーレス司祭に派遣されたガスパール・ヴィレラ司祭(一五二五~一五七二)率いるキリシタン一行が二度目の上洛を果たした。一行の中には、山口でキリシタンとなった元琵琶法師・ロレンソ了斎もいた。

 無駄な軋轢を生まず日本人に受け入れられやすいよう、ヴィレラ司祭も含めて全員が仏教の僧侶のいでたちをして、四条坊門室町姥柳町(うばやなぎちょう)に二ヵ月ほど滞在し、朝廷と幕府の公認を求めつつ細々と宣教をした。

 これだけ配慮しても当然、この「異国の新宗門」に対して快く思わず、宗論を挑んでくる既存仏教勢力は大勢いた。


 一行が上洛してまもなくのある日、真っ先に宗論を挑んできた血気盛んな法華宗の僧侶、興蔵院という者がいた。

「一人の人間が本初万有の神と一体なる天主であるとは如何なることか、不遜極まりなきこと!」

「釈尊とて、一人の人間として二千年ほど昔に現世に降誕し、八十歳にて涅槃を迎えながら、その本性は『久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦如来』、太初に在り、今在り、世々に限りなく在るなり、と法華の宗門でも教えておられるではござりませぬか。それと一緒にござります」

 ヴィレラの助言を受けつつ、ロレンソ了斎が問答に答える。彼は今や立派な宣教者となっていた。

「ぐぬぬ……ならば、もうひとつ問いたい。地や太陽や月、星などは全て球であると荒唐無稽なことを述べておるようじゃが、これは如何なることか」

「興蔵院様は如何ようにお考えにてござりましょう? 地と月が球でなければ、いかに昼と夜が在り、月の満ち欠けが在ると?」

「地は方にして天は円、昼は日光菩薩、夜は月光(がっこう)菩薩が司る。月の満ち欠けは……ううむ、そうじゃ。月光菩薩の眷属(けんぞく)に白黒十五人の天人がおわして、日ごとに現世と浄土を行き来しておるのじゃ!」

「なんとまあ……それはそなた様の思い付きにござりましょう……日光月光菩薩は太陽と月の恵みのあくまで『象徴』、十五天人云々に至っては、仏典にもそのようなことは記されておらぬと存じますが」

 あまりに稚拙な問答に、了斎がいい加減辟易しつつあったその時。

「あなた様のような高徳の御坊様から、かくのごとき不合理な虚妄をお伺いするとは、まことに遺憾でなりませぬ……子供騙しにすらならぬおとぎ話、稚児からさえも笑いを買うこととなるでしょう」

「な、何をっ……?」

 不意に、狩衣烏帽子(かりぎぬえぼし)に身を整えた一人の青年が、問答に割って入ってきた。

「伴天連様と了斎殿の仰せの通り、地とあらゆる天体は宇宙の虚空に浮かぶ球にござります。地は球にて一日で自転しているが故に太陽の日向と日陰なる昼と夜があり、一年で太陽の回りを黄道に合わせて公転しているが故に太陽との距離差から四季があり。月は太陽の光を浴びて輝くが故に夜のみ輝き、地球の周りを回っているが故に、太陽と地球とのちょうど向かいに月が来た時に新月が起こり、日ごとに地球の影が角度を変えて当たるが故に満ち欠けが出来るのでござります」

「な、何者じゃこの若造は……!」

 法華僧は怯んで、相手の素性を問うた。

正二位行陰陽頭しょうにいぎょうおんみょうのかみ勘解由小路在富(かでのこうじあきとみ)(そく)正六位上行暦博士しょうろくいじょうぎょうこよみはかせ・勘解由小路在昌(あきまさ)にござります」

「な、なんと、陰陽頭の……き、今日はこれにて暇致す……!」

 その名を聞くやいなや、法華僧は血相を変えて退散していった。

「おや、行ってしまわれた……せっかくの御宗論を台無しにしてしまいましたようで、失敬つかまつりました」

 青年は苦笑を浮かべつつ、了斎とヴィレラに会釈した。

「あ、あなた様はもしや……」

 驚き、しかし何か思い当たるように声をかける了斎に、青年は再び会釈しつつ答えた。

「覚えておいでにござりましょうか。山口の大乱の折にトーレス伴天連様のお導きで共に豊後へ逃れました、賀茂宇治丸にござります」

「おお、宇治丸殿……忘れるものですか、なんとお久しゅう! この了斎、豊後の港にて別れ際に申した宿願が叶いて、このたび晴れて上洛いたした次第にござります」

 そう。かの青年こそが、今や勘解由小路在昌二十一歳として立派に成長した、かつての宇治丸少年である。


・本章の記述はほぼルイス・フロイスの記録通り。在昌の官位は架空。


二 多難の嗣子


 在昌と広の間には、結婚翌年の弘治元年(一五五五)十七歳の時に、晴れて長男が生まれた。山口から豊後に無事逃れたことを感謝して、豊後国なる八幡宮の総本宮・宇佐神宮に因み、宇佐丸と名付けられた。

 しかし、在昌は非嫡出子という出自ゆえに、嗣子(跡取り)としての出世には支障があった。朝廷での官位昇進は、父在富と違ってはかばかしくなかった。

 また、在昌は父に付いて学んでいくうちに、従来の陰陽道に対する行き詰まりをひしひしと感じるようになった。

 当時、(みん)国ではアラビア天文学を取り入れた精緻な大統暦が用いられていた。元代に造られた暦法で、三百年間も使い続けられているにもかかわらず、経年による誤差は僅かであった。

 一方日本では、平安初期に導入された宣明暦(せんみょうれき)が八百年近く、相も変わらず使い続けられており、そのままではとても使えた代物ではなくなっていた。賀茂勘解由小路家をはじめ、各地の暦師達は、経験の積み重ねに基づく超絶的な「家伝」によってそれを修正し、なんとか正確な造暦を行っていた。しかし、朝廷陰陽寮の造暦は伊豆三嶋など地方の暦師に対しても引けを取るものとなってしまっていた。陰陽寮の二大柱の一方・天文道の家柄・安倍土御門(つちみかど)家は所領の若狭国名田庄(なたしょう)に引きこもったきりであり、暦道の家柄である賀茂勘解由小路家は本来分担すべき天文道をも兼務せざるをえず、このままでは地方暦に対して朝廷の威信が揺らぐという切迫した状況であった。

 にもかかわらず、在富は家伝を墨守するばかりの極めて保守的な姿勢で、在昌がトーレス司祭から授かってきた西洋天文学の書も一顧だにされなかった。在昌が跡を嗣がなかったら、賀茂家の暦道は断絶していたことだろう。在昌一代は良かろうにせよ、秘伝的・師資相伝的な家学に頼ったやり方では、先が見えている。広に付き添って南蛮寺を訪れるたびごとに、在昌はその危機感と、西洋天文学を学び本朝(わが国)の暦学に取り入れたいという思いを強くしていった。


・宇佐丸という名は架空。名の由来は本文中のいわくの他、生まれ年の干支から。卯年→兎→宇佐丸。


三 マノエル・アキマサ


 了斎とヴィレラの上洛はふた月あまりとわずかの間であったが、その間、在昌と広は足しげく仮南蛮寺に通い、よしみを交わした。

 在昌は、豊後でトーレス司祭から告げられた言葉をしかと思いに刻んでいた。

 ――もしも、いずれの日にか再び天主様のお導きがあったなら、また戸惑うことなくおいでなさい――。

 そして、――『“Emmanuel”――(しゅ)我らと共に(いま)す』。この言葉を、どうか忘れないでくだされ――。

 伴天連に付いて西洋天文学を学びたいという動機ももちろんあったが、それ以上に、在昌はあの時果たせなかった、命を給うた主なる神への献身たる「洗礼」、すなわちキリシタンとなることに、此度こそはという意を次第に強くしていった。

――我よりも父または母を愛する者は、我に相応(ふさわ)しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず――

 福音経(ふくいんけい)のこの言葉も、在昌の胸に深く刺さった。

 釈尊も、一遍上人も、家を捨て、己を捨てて、真理の道へと進み給うた。我はいかに――

 永禄二年(一五五九)、ユリウス暦十二月二十四日、降誕祭前晩のミサに、広と在昌は赴いた。

「――Veni, Veni, Emmanuel――来ませや来ませ、エマヌエルよ」

 救世主の降誕を待望する聖歌が歌われる中、ミサに先立つ前晩祷と洗礼式が厳かに行われた。

 陰陽師の嗣子であるから……という後ろ髪も、在昌はもはや断ち切っていた。

「この者の名は何と云うか」

 ヴィレラ司祭の問に対して、在昌の「代父」を務める了斎は力強く答えた。

「マノエル・アキマサ」

「マノエル・アキマサよ。父と、子と、聖霊の御名(みな)によりて……」

 マノエル、すなわちEmmanuelのポルトガル語、「主我らと共に坐す」。

 こうして在昌は洗礼を受け、晴れて夫婦共々キリシタンとなった。

「――Gaude, gaude, Emmanuel nascetur pro te, Israël――歓べや歓べ、エマヌエル汝が為に生まれ給う」


・了斎、ヴィレラの京滞在中に、在昌が京で最初のキリシタンとして洗礼を受けたというルイス・フロイスの記録あり。

・「我よりも父または母を…」――マタイによる福音書10章37。

・「Veni, Veni, Emmanuel/Gaude, gaude」――邦訳「久しく待ちにし」として知られるラテン聖歌。


四 京都出奔


 妻・広との仲は至って睦まじく、永禄元年(一五五八)二十歳の時に長女すえ(陶子(すえこ))、永禄四年(一五六一)二十三歳の時には次女かな(可奈子)が生まれ、永禄七年(一五六四)二十六歳の時に、広は第四子を身籠もった。

 在昌も広も、当然ながらキリシタンであることを隠していた。「異宗門」に対する風当たりは強く、都の南蛮寺はわずかふた月あまりで撤収となってしまった。が、堺に常設の南蛮寺が建てられたとあっては、毎年復活祭や降誕祭などの折にはミサに通うようになり、実はキリシタンであるという噂が次第に広まってしまった。

 これを最も面白く思わなかったのは、在富の妻・木根子である。儒学家・神道家の家柄に生まれた保守的な気質は、いかんともしがたい。その苦言毒舌の矛先は、しばしば在昌へと向けられた。

 父・在富は板挟みになり苦悶しつつも、在昌の才知を買って陰陽師としての指南を付けた。しかし学べば学ぶほど、家伝に頼った陰陽道の先行きへの不安と、西洋天文学への憧れが深まるばかりであった。


 永禄七年(一五六四)在昌二十六歳の年の冬。ロレンソ了斎一行が堺を離れ、豊後に向け出発するという知らせが入った。伴天連に付いて本格的に西洋天文学を学ぶならば、この機を逃したらまたとない、千載一遇の好機である。

 在昌は意を決した。

「在昌殿、名残惜しゅうござりますが……必ずや布教の勅許を得るべく、了斎は戻ってまいりますぞ」

 別れを告げる了斎に対して、

「お別れには及びませぬ、了斎殿。私も共にまいりましょう」

「なんと……!?」

「――我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず――ですよ、了斎殿」

 堅い決意を告げる在昌。

「但し、此度は広も一緒です」

「ええ。間の悪いことにちょうど身重の時ゆえ、ご迷惑をおかけするやも知れませぬが、どうか何卒ご一緒させてくださりまし」

 広も堅い決心を告げた。子を孕んだ身ながら豊後への長旅、並々ならぬ決意ではない。当時としては、命を賭した旅と云っても過言ではない。

 トーレス司祭との再会も、何としてでも果たしたかった。

「……承知いたしました。この了斎、身を賭してでもお二人のお供をつかまつる次第にござりますぞ!」

 二人の熱意に動かされて、了斎も力強く同行を承諾した。


 冬至の近づく、底冷えする夜更けのことであった。

「可奈、良い子にするのだぞ」

 まだ数え四歳の次女かな(可奈子)は、五十八歳になる山科言継(ときつぐ)邸に預けることとした。

「お任せなされよ! 在昌殿のお子とあらば、我が孫も同然。しかとお守り進ぜようぞ」

 勿論、父・在富には無断であった。親の死に目に会えぬであろうことも覚悟の上である。

「在富殿には折を見て、わしから良いように申し伝えておくで、在昌殿は己の信ずるところにのみ忠実にあれば良いのじゃぞ」

「山科殿……度々、本当に有難く存じまする」

「在昌殿、おぬしは本朝の陰陽道の未来を背負っておられる方じゃ。しかと良きものを学びて、立派に華を咲かせるのじゃぞ」

「はい。不肖在昌、しかと心得まして候!」

 こうして在昌と広は、数え十歳の長男宇佐丸と七歳の長女すえ(陶子)を連れ、了斎に付いて夜密かに都を発ち、堺から船で豊後目指して旅立った。


「殿、大変ですぞ! 在昌殿が、在昌殿が……!」

 明くる朝、在昌夫婦の出奔が知れるや、在富の家人は血相を変えて駆け込んできた。

 それに対して、在富は意外にも冷静な様子であった。

「うむ、そうか。いずれこの如き日が来ようとは思っておったわ。あれは籠の中に甘んじる鶯ではない。隼の如き小僧じゃ」

 そして、もはや今生の別れとなろうことを察してか、遠い目を庭の外へ遣った。

「在昌よ……どうか達者で、そして立派な陰陽師になりて戻るのじゃぞ」


・すえ(陶子)、かな(可奈子)という人物は架空。名の由来は生まれ年の干支の陰陽五行から。戊午(つちのえうま)は陽の土と陽の火→土と火から生まれる陶器→すえ(陶子)。辛酉(かのととり)はどちらも陰の金→「かな」。

・かなを山科言継に預けたという点も、当然架空。

・ロレンソ了斎が豊後に下ったのは、実際は永禄八年(一五六五)和暦四月のことである。


五 道中出産


 堺の港を船出してしばらく、一行が伊予堀江(現・愛媛県松山市北部)に立ち寄ったとき、第四子を身籠もっていた広はにわかに産気づいた。時あたかも、かの有名なルイス・フロイス(一五三二~一五九七)が入れ違いに豊後から堺に向かう道中であった。

 永禄七年十二月一日・西暦一五六五年一月三日、広は次男となる男児を出産した。

 ところが広は、長旅の疲れもあって産後の容態が悪くなり、床に伏せってしまった。次男出産の喜びも束の間、在昌は狼狽に明け暮れた。

「了斎殿、どうか広を……」

「大丈夫ですぞ、イルマン・アルメイダ様に薬の手配をお頼み申しましたで」

 まもなく、松山におりルイス・フロイスに同行している修道士ルイス・デ・アルメイダ(一五二五~一五八三)の元から、日本人の青年が駆けつけてきた。

「久方ぶりだな、宇治丸、広!」

「え、もしやそなたは……!」

「ふふん、見違えたか?」

 そう。それは在昌(宇治丸)と広が少年のみぎり、山口大乱から共に逃れた友、ジョアンその人であった。

「なんと久しゅう……私は元服して在昌と名乗り、広と夫婦(めおと)となり、ヴィレラ伴天連様の上洛の折にキリシタンとなってだな……」

「そうか、それは良かった! ともあれ、話はあとだ、広の具合を診てみよう」

 しばし感慨に浸ったのち、ジョアンは広の看病に尽くした。

 ジョアンの看病の甲斐あって、広は一命を取り留め、ほどなくして快復した。


 在昌はジョアンの見送りがてら、長男宇佐丸を連れて、アルメイダのもとへ礼を伝えに馳せ参じた。

「アルメイダ様、此度はまことにありがたき次第にござります……!」

 深々と礼をする在昌を起こして、アルメイダは慈しみ深い眼差しで告げた。

「いいえ、在昌殿。それがしは何もしておりませぬ。ジョアンの尽力と――貴方々の信仰が貴方々を救ったのでござります」

「『汝の信仰が汝を救いたり』――なるほど、左様にござりますな。デオ・グラチヤス、主に感謝し奉る!」

 アルメイダは元貿易商人の出身とあって、航海のための天文学に通じていた。在昌はアルメイダとすっかり意気投合し、天文学談義に花を咲かせた。


 生まれた男児は、西の異国人の助けで生まれたことと、伊予堀江の鎮守・夷子(えびす)三柱社に因み、和名「戎丸(えびすまる)」、洗礼名「フィデル」(「信仰深き者」の意)と名付けられた。のちの嗣子・在信(あきのぶ)である。

 そして年が明けた永禄八年(一五六五)正月、長男宇佐丸は数え十一歳にして修道誓願を果たし、メルショルと名付けられた。イエス・キリスト降誕の折に、東方より宝物を携えて祝福に訪れた占星術の三博士の一人・メルキオールに因んだ名だ。

 妻の命を救われたことの感謝として、自らの初子を神の奉仕に献げたのである。

「宇佐丸、今後は耶蘇様に倣い、天主様を父と心得、身を尽くして仕え奉るのだぞ」

「はい。この身の尽きるまで、しかと仕え奉ります」


 こうして一行は、無事豊後府内の港へ着いた。豊後府内は当時日本におけるキリスト教の中心地であり、大きな南蛮船が来航し、天主堂の他、イエズス会の運営する病院、コレジオ(神学校)、書庫など様々な施設が建ち並ぶキリシタンの都であった。

 国際都市としてすっかり発展した府内の街を見渡して、一行は目を輝かせた。

「父上。日本にありながらまるで異国のような街でござりますね!」

「私も久方ぶりに訪れたが、これほど栄えておるとはたまげたことだ」

 メルショル宇佐丸も興味津々である。


 府内の天主堂で、在昌と広は念願のトーレス司祭との再会を果たした。

「お久しゅうござります、トーレス伴天連様!」

「おお、宇治丸殿に広殿。すっかり立派になられて……!」

 久方ぶりの再会を心から喜ぶトーレスと、二人は熱く抱擁を交わした。

「ヴィレラ伴天連様が京におわしました折に、私めもついに洗礼を受け、名はマノエル・アキマサとなり申してござります」

「マノエル……良き名にござりますな。Emmanuel――主、我らと共に坐す」

「また、汝の霊と共に坐す」

「此度こそ、存分にこの地で修学なさりませ。バルタザールという天文学者を講師に付けますゆえ」


 在昌はこの府内の街で、天文学ほか西洋諸学の修学を着々と行い、知識と経験を豊かに蓄えていった。また、修道誓願を立てたメルショルは修道院に入り、その他の家族も毎週ミサに与り、充実したキリシタン生活を過ごしていった。


・在昌の妻が伊予で出産し、産後キリシタンの介抱を受けた、また長男メルショルを修道士として献げた、というルイス・フロイスの記録あり。

・「汝の信仰が汝を救いたり」――福音書に頻出、イエスが癒やしの奇跡を行った後に掛ける言葉。

・戎丸という名、またフィデルという洗礼名は架空。伊予堀江の夷子三柱社(現・三穂神社)と、在「信」の字からヒントを得て考案。また「戎」は西方の異民族の意。


六 父・在富の死と嗣子問題


 在昌らが豊後府内に到着して半年ほどの後、父在富は腫瘍(しゅよう)を患い、八月に入ると急激に悪化。永禄八年(一五六五)八月十日、七十六歳にて薨去(こうきょ)(死亡)した。

 在富の子・在昌は豊後におり不在ということで、嗣子(跡取り息子)問題が生じた。山科言継(ときつぐ)は帝から直々に、勘解由小路家の跡嗣ぎを沙汰するように命ぜられ、奔走した。最悪、以前に在富妻木根子の時にもせがまれた、自分の三男で数え十九歳になる鶴松丸改め以継(もちつぐ)(一五四七~一五八五)に勘解由小路家を継がせるよう命ぜられていたのである。生母は在富の末娘・阿多子であり、在富にとって外孫に当たる。

 結局、時の安倍氏土御門家当主・土御門有春(一五〇一~一五六九)の四男・福寿丸十三歳(一五五三~一五七五)が土御門家所領の若狭名田庄から帰洛し、在高(あきたか)と改名して勘解由小路家を相続することとなった。生母は、天文十一年(一五四二)に十九歳にて有春の継室となった、勘解由小路在富の娘・日枝子(一五二四~)であり、こちらも在富にとって外孫に当たる。


 かくして、賀茂勘解由小路家が暦道のみならず天文道をも兼ねざるを得なかった時代から、安倍土御門家が天文道のみならず暦道をも兼ねざるを得ない時代となった。在富が遺した家伝の蔵書はあれど、師子相伝なくしては秘伝の暦道極意を体得することはできない。

 十三歳の在高には当然荷が重すぎるため、実際は父・有春と兄・有脩(ありなが)が蔭に日向に面倒を見た。しかし、それでも状況ははかばかしくなかった。具体的には、在高の代になってほどなく、日蝕と月蝕の予測を外すという大失態を犯してしまった。

 永禄十一年(一五六八)に三度目の日蝕予測を外した後、このままではお家の恥さらしと思い詰めた父・有春は、心労のあまりに病を得て、翌永禄十二年(一五六九)六月に六十九歳にて没してしまった。かくて、在高の兄・土御門有脩(一五二七~一五七七)が土御門家を嗣いだが、状況は好転しなかった。

 病みがちな土御門有脩に代わり、元亀四年(一五七三)、わずか十四歳である息子の久脩(ひさなが)(一五六〇~一六二五)が従五位下(じゅごいげ)陰陽頭(おんみょうのかみ)に叙任された。「押しつけられた」と云ってもいい。


 さらに、在高が勘解由小路家を嗣いで十年後の天正三年(一五七五)、在高は二十三歳にしてにわかに病没してしまい、再び賀茂勘解由小路家は断絶の危機を迎えた。

 ここに至ってはもはや、土御門家の嗣子であるはずの久脩が、賀茂勘解由小路家を相続するしかない――のちには土御門家を嗣いでもらわなければならない独り子であるから、豊後の在昌が帰洛するまでの間の中継ぎといえども――という、土御門家としては苦渋極まりない決断を迫られた。

 かくして天正三年(一五七五)、十六歳の土御門久脩は勘解由小路在綱(あきつな)として賀茂勘解由小路家を嗣ぐこととなった。正室には、在昌が京を去るとき山科言継のもとへ託し、今や十五歳となった次女かな(可奈子・一五六一~)が迎えられた。これで久脩改め在綱は、在昌の娘婿ということになり、賀茂勘解由小路家の婿養子としての正統性を確保した。


 しかしそれも束の間、天正五年(一五七七)一月には、やはり心労が祟ったのか、土御門有脩が五十一歳の若さで病没してしまった。唯一の嗣子である久脩改め在綱は、土御門家を嗣がなければならない立場である。かくして十二年のうちに、みたび賀茂勘解由小路家は断絶の危機を迎えた。

 残る切り札はただ一つ。キリシタンとなり、伴天連とともに京を出奔し、豊後府内にて西洋天文学を学んでいるというフーテン陰陽師・在昌を、背に腹は代えられずに連れ戻すしかない。

 すぐに豊後の在昌のもとに、帰洛要請の手紙が送られた。

「ついにこの時が来たか……今こそ、父上と多くの恩師の御期待に添わねばなるまい」

 在昌は手紙を握りしめて、意を堅くした。

 「勘解由小路家相続の件承知候、残務が済み次第帰洛する」との返信を承け、十八歳となった勘解由小路在綱は三月、土御門久脩として復姓復名、安倍土御門家の跡を嗣いだ。


「メルショル、(すえ)(まり)、達者でな。鞠、兄上・姉上の云うことをよく聞くのだぞ」

 修道士となった長男メルショル瑞星(ずいせい)二十三歳と、現地の日本人キリシタン信徒と結婚した長女すえ(陶子)二十歳、豊後府内で生まれた三女まり(鞠子)十歳は残ることとなり、在昌と広は十三歳になった次男戎丸を連れて堺への船に乗り込んだ。


 天正五年(一五七七)七月、三十八歳になった在昌はいよいよ十二年ぶりに京の都へ帰還し、賀茂勘解由小路家を相続、従五位下陰陽頭に叙任された。時あたかも織田信長が天下人の礎を着々と築きあげていった天正年間安土時代。西洋天文学と和暦学を熟知統合した、キリシタン陰陽師の誕生である。


・山科言継の子・以継の生母が在富の娘という点は架空。

・勘解由小路在高の生母が在富の娘という点も架空。

・日蝕・月蝕の予測は、実に奈良・平安時代以来、陰陽師の必須課題であった。この一点を見ても、古来の東洋天文学のレベルの高さは驚嘆に値する。

・土御門久脩改め勘解由小路在綱の妻が在昌の娘という点も架空。

・メルショルの和名「瑞星」は架空。東方の三賢者(「メルショル」の由来であるメルキオルはその一人)が、()しきたえなる星の導きによってイエスの降誕を知りベツレヘムを訪れたという伝説(マタイによる福音書2章2~11)にあやかった名。

・陶(架空)が豊後のキリシタンと結婚したという点は当然架空。

・まり(鞠)は架空人物。聖母マリアに因んだ名。

・在昌の官職は架空。但し、天正八年(一五八〇)「おんようのかみあきまさ」という史書の記述あり。位階は史実。


七 信長との出会い


 在昌の帰洛の一年前、天正四年(一五七六)に、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノ司祭(一五三三~一六〇九)率いるキリシタン一行が再び上洛し、以前ヴィレラ司祭らが仮南蛮寺として逗留した四条坊門室町姥柳町(うばやなぎちょう)の地に、今度は常設の南蛮寺を再建した。かつて在昌が洗礼を受けたその場所である。

 帰洛した在昌一家は、この南蛮寺に程近い所に新邸宅を構え、足繁く南蛮寺に通った。オルガンティーノ司祭は日本文化に理解があり、日本人を尊重したため、「宇留岸(うるがん)伴天連」と呼ばれて広く慕われた。在昌一家とも気が合い、深い親交を結んだ。

 上洛からほどなく、次男戎丸は元服して、在信(あきのぶ)と名乗った。

 在昌は父・在富から伝授された家学の賀茂暦道と、豊後府内で身に付けた西洋天文学を活かして、その手腕を遺憾なく発揮し、一躍朝廷で名を轟かせた。

 その噂はじきに、天下人・織田信長にも伝わった。在昌の手腕を聞き、その数奇な来歴を知って、信長は大いに関心を覚えた。ちょうど在昌が京に戻った天正五年(一五七七)の十一月、信長は従二位右大臣に叙任され、最盛期を迎えたところであった。

 在昌の上洛に先立つ天正四年(一五七六)に着工した信長の居城・安土城は、天正七年(一五七九)に竣工した。在昌は落慶式の祓役として安土城に召され、息子在信を連れて赴いた。

「わぁ……見事でござりますね、父上!」

「ああ。実に壮観だなあ」

 琵琶湖を見渡す丘の上に築かれた安土城には、いわゆる天守閣の先駆けである「天主」と名付けられた摩天楼がそびえ立ち、天下人にふさわしい威容を誇っていた。三層の大屋根の上に、六角の仏堂風の櫓、そして最上階には金に輝く望楼。前代未聞の大高層建築であった。

 落慶式ののち、在昌は信長に近しく謁見した。

「陰陽頭・勘解由小路在昌にござります」

「大儀じゃ。そちの噂はかねがね聞いておる」

「恐縮にござります」

 信長の私室は豪奢に彩られ、南蛮寺のように舶来の珍品が並んでいた。彼の異国趣味が伺われる。

「豊後でのキリシタン暮らしについて聞かせてくれ」

 在昌の見聞録を、信長は実に興味深そうに聞き入った。

「なるほど。南蛮学を取り入れつつも(みん)国とは異なる、本朝ならではの大和暦(やまとごよみ)に改暦がそちの目論見か。実に愉快じゃ」

 在昌の宿願である新たな暦法の構想にも、信長は賛意を示した。

「地も日も月・星も、みな虚空に浮かぶ(たま)である、とフロイスも申しておったのう」

 舶来の地球儀を回しつつ、信長は呟いた。

「これはそちが持ち帰った方が役に立つであろう」

「はっ。まことにありがたき所存にござります」

「また上洛の折には、ゆるりと話を聞かせてくれ。改暦の試みも楽しみにしておるぞ」

 地球儀と、時計や方位磁針などいくつかの舶来の品々をその場で包ませつつ、信長は満足げに笑って、在昌を見送った。

「家宝にござりますね、父上!」

「ああ、またとない家宝だ!」

 在信も、興味津々で賜り物を手に取りつつ、京へと戻っていった。


・在信という名は史書に記録あり。元服の時期は不詳。

・在昌と在信が安土城に招かれたという点は架空。


八 本能寺の変と奈良下向


 豪放磊落な天下人、織田信長。しかし、盛者必衰、その天下は唐突に終わりを迎えた。あえて多言は無用、世に名高き本能寺の変。安土城に招かれてからわずか三年後、天正十年(一五八二)六月のことである。京の街は、にわかに殺気立った空気に包まれた。

「なんということか……信長殿、かつての御恩は生涯忘れませぬ……」

 知らせを聞いて、在昌は愕然としつつ、賜り物の地球儀をくゆらせた。

「広、在信、すぐに旅支度だ」

「殿、どちらへ参りますの?」

「南都だ。万一のことがあってはならぬゆえ」

 累が及ぶことを警戒した在昌は、大事を取って、賀茂氏の傍流にあたる奈良の幸徳井家のもとへ家族を連れて下向した。時の当主、幸徳井友忠(一五四一~一六〇一)五十二歳は、一行を手厚くもてなした。


 折しもその時、十八歳になった在信と同い年の乙女が、奈良町の幸徳井邸を訪れていた。奈良の東、柳生の里に住む剣豪・柳生石舟斎宗厳やぎゅうせきしゅうさいむねよし(一五二七~一六〇六)の娘、勝子である。その母は幸徳井家の先代当主・友栄(ともなが)(一四八七~一五五八)の娘であり、勝子は幸徳井友忠にとって妹(めい)に当たる。

 剣豪の娘らしく、凛として芯の通った大和撫子であった。

 奈良滞在の間に、在信はこの娘と秘めやかな恋仲になり、子を宿してしまった。

 在信は勝子との結婚を切望したが、勝子は柳生の家臣・安井永順(ながよし)という者と婚約をしており、二人の仲は束の間の悲恋、若気の至りに終わってしまった。

「分かりませぬ。なぜに愛し合う者が別れなければならないのでござりましょうか、父上……!」

「お前の心持ちは分かる。罪を犯したことはお前自らが重々承知であろうから、あえてことさらに咎めはせぬ。しかし、分かっておろうな……致し方あるまい」

「くっ……面目のうござります……」

 在信は、打ち震えて口を噛みしめつつ、涙を呑んだ。

 崩れかけた築地塀(ついじべい)に蝉時雨が響く、暑い夏の日のことであった。


 在昌一家が京に戻ってのち、勝子は男児を産んだ。吉備丸(きびまる)と名付けられたその子は、幸徳井友忠が引き取って育てられることとなった。この男児こそが、のちに勘解由小路家が絶家した跡を受けて陰陽頭となった、幸徳井友景(一五八三~一六四五)である。


・在昌一家が奈良へ逃れた点は架空。

・幸徳井友景が在信の子という点も架空。友景の生没年は、『幸徳井世系考訂本』に依った。

・勝子が幸徳井の血を汲むという点も架空。幸徳井友景の母が勝子という名は、『幸徳井世系考訂本』に依った。

・幸徳井友景が柳生の血を汲むという点は伝承にあり。

・吉備丸という名は架空。名の由来は生まれ年の干支から。癸未(きび)→吉備。


九 メルショルの死


 本能寺の変から少し遡る天正八年(一五八〇)。二十六歳になったメルショル瑞星は、豊後府内でイルマン(修道助祭)に叙階された。ひたむきに勉学と修道に励み、南蛮人にも日本人にも聞こえがよい、立派な好青年に成長していた。

 しかし、当時のキリシタン情勢は決して平穏ではなかった。

 十年前の元亀元年(一五七〇)六月、コスメ・デ・トーレス司祭の後任の日本宣教長として、フランシスコ・カブラル司祭(一五二九~一六〇九)が天草へ到来した。入れ替わるようにその年の九月、トーレスは六十歳で帰天(逝去)した。

 日本人に受け入れられやすいように最大限の現地適応主義を採ったトーレスとは打って変わって、カブラルは、日本文化に理解を示さず原理原則主義を貫き、また日本人を未開な野蛮人と見なして軽蔑した。宣教地では領主の一存による強制改宗が行われ、神社仏閣が破壊され、伝統的習俗は否定され、日本人が司祭になることも認められなくなった。

 そんな中で若くしてイルマンに叙階されたメルショル、その逆境を超える秀逸な実力が伺われる。

 だからこそ、トーレスの薫陶を受けたメルショルは、日に日に強まる新宣教長ガブラルの施策には大いに疑問を持った。

「このままでは日本のキリシタンの先がない。いつか必ずや大いなる迫害を受けるであろう……たとえ今の施策で信徒が増えても、これでは果たして『主の御心』に適うだろうか……」

 メルショルは意を決して、ガブラルに直談判しようと天草志岐へと赴いた。

「メルショル瑞星と申す者にござります。この度は御謁見の場を賜りありがたく存じます」

「日本人の若造がイルマンか……豊後府内の群れは生ぬるいものだな」

 ガブラルは退屈そうな表情をはばかることなくあらわにして、メルショルの陳情の数々を聞き流した。

「もうよい。そなた、何か勘違いしておるのではないかね? とどのつまり、そなたは日本人なのだ」

 こうぶっきらぼうに言い放つのが、ガブラルの口癖であった。

 悔しさに唇を噛みつつ、メルショルは豊後府内へ戻った。

 メルショルは陳情書をしたため、前年の天正七年(一五七九)に来日して全国を巡っていた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭(一五三九~一六〇六)に送った。ヴァリニャーノは先代宣教長トーレスの適応主義を高く評価しており、真逆を行くガブラルのやり方を徹底的に批判した。

 メルショルの陳情も一役甲斐があってか、翌天正九年(一五八一)、ガブラルは日本宣教長を解任された。しかし、後任には日本人に人気のあったニェッキ・ソルディ・オルガンティーノ司祭(一五三三~一六〇九)ではなく、ガブラルの忠実な部下であったガスパール・コエリョ司祭(一五三〇~一五九〇)が就任した。


 そして、やがてさらに大きな問題が浮上してきた。日本人を海外移住にかこつけて奴隷として拉致しているという疑惑である。

 天正十三年(一五八五)、三十一歳になったメルショルは、女子修道院の奉仕をしていた十七歳の妹・鞠を連れて、再び天草志岐へ赴いた。薩摩の島津勢によって豊後が攻められるのではという危惧が強まってきたためでもあった。

「そのような噂はキリシタンに敵する者の讒言(ざんげん)だ。相手にしてはなりませぬ」

 ガブラルが日本を去ってのちも、その教育を受けた修道士が天草には多く残っており、メルショルの陳情は再び一蹴された。すでに危険分子と見なされていてか、今回はコエリョ宣教長に直接対面すら許されなかった。ヴァリニャーノ巡察使が去ってのち、天草のキリシタン上層部は再び乱れつつあった。


(奴隷貿易の真否だけは、しかと調べねば……真ならば、キリシタンのみならず日本国を揺るがす一大事だ……)

 そう考えつつ夕暮れの港を歩いていた時――メルショルは不意に肩を強く摑まれた。

「おっと、イルマン殿。この先はなりませぬぞ」

 柄の悪い男達がメルショルの前に立ちはだかった。

「何者だ! 何かやましいことがあるのか!」

「イルマン殿こそ。こんな港の隅で何をしておいでで?」

「いよいよ疑わしい。通したまえ!」

「お引き取りくださらねば……分かりますな?」

 男は不敵な笑みを浮かべて、拳を握った。


「兄上! どうなされたの!?」

「ああ、遅くなってすまぬな鞠」

「それよりも、お怪我……!」

 晩に教会の宿坊へ帰ってきたメルショルは、顔や腕に傷を負って、ひどく疲弊した表情をしていた。

「教会は腐り始めている。コエリョ様は宛にならぬ。なんとかせねば……」

 傷を手当てされながら、メルショルは呟いた。


 その数日後。港での乱闘沙汰の際に、メルショルが修道士でありながら人を殴ったことについての咎めがなされた。懺悔せねばイルマンの地位を剥奪するとの厳しいものであった。

「くそっ、私は被害者だ! 百歩譲っても喧嘩両成敗ではないのか……」

 メルショルは憤りに震えた。

 結局、期日までに懺悔も返答もしなかったメルショルは、イルマンを剥奪された。立つ瀬のなくなったメルショルは、イエズス会士自体を自ら退会した。


(噂の真なるは間違いない。あとは動かぬ証拠と告発の手段だが……)

 ある日、木刀を携えて深夜の港を探索していたその時。

 不意に闇から刃が閃き、血しぶきが舞った。

「ふっ、ここまでか……主よ、御国に来給う時には、我を思い出し給え……」

 天正十三年(一五八五)。メルショル瑞星、三十一歳・修道二十年の生涯は、かくして人知れず幕を下ろされた。


・メルショルがイルマンに叙階されたこと、そしてイエズス会を退会してのち、天草で夜陰悲惨にも殺されたという記録がキリシタン文献にあり。それ以外は架空。

・「主よ、御国に来給う時…」――ルカによる福音書23章42。


十 新たな天下人


 天正十三年(一五八五)といえば、日本史上銘記すべき年である。この年、織田信長に代わって天下人となった羽柴秀吉(翌年九月、豊臣姓を賜る)が、武家では前代未聞の関白に任ぜられたのだ。

 翌天正十四年(一五八六)七月より、秀吉は九州大遠征を開始。メルショルの先見の明どおり、秀吉に対抗して挙兵した薩摩島津勢により、十二月には豊後大友勢が攻め落とされ、一大キリシタン都市として栄えた府内の街は、激しい戦火のうちに灰塵と帰した。

 天正十五年(一五八七)四月、秀吉は九ヵ月におよぶ九州遠征を終え、筑前箱崎(現・福岡市)に入った。

 九州でキリシタンの実態を目にした秀吉は、その勢力が想像以上に大きいことに危機感を抱いた。スペイン・ポルトガル勢力が日本侵略を狙っており、キリシタン布教はその足掛かりなのではないか――という疑いである。また、奴隷貿易の噂も危機感をさらに強めた。

 同年六月、初めての大規模なキリシタン迫害である伴天連追放令が発せられ、京都の南蛮寺や長崎の公館は打ち壊された。しかしこれはあくまで肥大化した勢力を抑制することが目的であり、外国人聖職者やキリシタン大名は制約を受けたものの、日本人平民の信徒を中心とする各々の信仰は容認された。


 さて、そのような情勢のもと、京で細々とキリシタン信仰を続けていた在昌一家だが、この追放令で京南蛮寺がなくなって、また以前のように年に数回、復活祭や降誕祭などの折に、堺の南蛮寺に通うばかりとなった。個人の信仰は容認とはいえ、やはりキリシタンに対して国家的規制令が発せられたことは、世間的体面を悪くして、上・中流階級のキリシタンはいっそう肩身の狭い境遇となった。

 この堺の街で、在昌一家と特に懇意になった人物がいた。因幡国八上(やがみ)郡(現・鳥取県東部)の出身で、在家修験行者(しゅげんぎょうじゃ)小倉浄因季雅おぐらじょういんすえまさと、その姉・杉。秀吉の因幡征伐の戦火を逃れて堺へ上ってきた人物である。またもう一人、大和国山辺郡(現・奈良県天理市)に鎮座する大和(おおやまと)神社の社家の出で、いわば民間陰陽師にあたる声聞師(しょうもじ)である(やまと)高彦という人物。一時因幡に滞在していた折に小倉姉弟と出会い、小倉杉の夫となった姻戚である。小倉・和の両家は堺の街の中央に鎮座する「大寺(おおでら)」こと密乗山念仏寺の住坊で一家族のように親しく暮らしており、在昌一家と出会ってからは、堺を訪れるたびに宿を提供し、家族ぐるみで親しく交際するようになった。

 天正十六年(一五八八)、二十四歳になった在信は、和高彦と小倉杉の娘で、十八歳になる檜乃(ひの)と結婚した。柳生勝子との悲恋ののち塞ぎ込んでいた在信だが、これでようやく元気を取り戻した。


 天正十八年(一五九〇)四月、豊臣秀吉は京に奈良東大寺をも凌駕する大仏と大伽藍を建立する計画を立てた。「京大仏」方広寺である。

 この大仏殿建立に先立つ地鎮祭に際して、在昌五十二歳と在信二十六歳の父子は陰陽師として祭礼出仕した。在昌父子の生涯にとって一世一代の晴舞台であった。これによって在昌父子は豊臣秀吉の知遇を獲得し、在昌は従四位上、在信は従五位下に叙された。


・堺の民の記述は架空。

・大寺念仏寺は、堺市堺区開口(あぐち)神社の別当寺(現存せず)。

・大仏殿の地鎮祭に在信も出仕したことは架空。父子の位階授与も架空。


十一 鞠と在信とゴメス伴天連


 瀬戸内海をゆくガレオン船の甲板で、リュート、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、タンバリンなど洋楽器の調べと、楽しげな歌声のハーモニーが鳴り響いた。


 Tant que vivray en âge florissant,

 Je serviray Amour le Dieu puissant,

 En faict, et dictz, en chansons, et accords.

 ――花咲く日々に生きる限り

  私は愛という神に仕える

  行いで、言葉で、歌と和音で――


 彼らこそ、かの天正遣欧使節団の青年達の一行。天正十年(一五八二)より八年間にわたって、はるばる欧州各国を巡る長旅の末、方広寺大仏殿の地鎮祭が行われたその年・天正十八年(一五九〇)の七月に長崎へ帰国し、その秋、京へ上るべく堺へ向かう航路のことであった。

 そしてその中に、美しいソプラノで加わる娘がいた。二十三歳になった在昌の三女・鞠。その年に日本宣教長となったペドロ・ゴメス司祭(一五三五~一六〇〇)の計らいによって、使節団の船に便乗して、父・在昌のいる京へと向かっていた。

 年頃も近い使節団の青年達と、鞠はすぐに打ち解け、しばしの愉快な船旅を満喫した。


 宣教師にして優れた天文学者でもあるゴメス司祭は、天正十一年(一五八三)に来日し、豊後府内のコレジオにて講義を始めた。メルショル二十九歳と鞠十五歳も師事して、大いに世話になった。そして例の島津軍による府内陥落のため、天正十五年(一五八七)には豊後より天草に逃れ、十九歳になった鞠と再会することとなった。またこれに伴って、豊後のキリシタンと結婚していた在昌の長女・(すえ)も天草に逃れてきた。

 兄メルショルを亡くして、その魂を弔うべく修道女となり、失意と悲しみに暮れていた鞠にとって、ゴメス司祭、また姉・陶との再会は大きな救いであった。ひたすら神学と修道に打ち込んだ兄メルショルと異なり、鞠は父・在昌譲りで天文学に興味を示し、みるみるうちに師ゴメスも驚くばかりの天文女子に育っていった。


「お父上、お母上、兄上!」

「おお、鞠よ! すっかり大きくなって……よくぞ無事に戻ってきた!」

 堺に出迎えに来た在昌親子と再会した鞠は、三人と熱く抱擁を交わした。

「メルショルお兄様は……」

「聞いておる。さぞや辛かったな……」

 鞠の目に、涸れていた涙がほとばしった。

 ゴメス司祭に天文学の教示を受けたことを話し、贈られた貴重な天文書の数々を渡すと、在昌は大いに喜んだ。そして、在信も強く憧れを抱いた。

「父上、私も天草に留学してみとうござります。父上の分までしかと学んで来とうござります!」

「そうか、それも良かろう。若いうちにしかできぬことだ」

 父・在昌の賛同もあって、在信は決心を堅くした。


 翌年の天正十九年(一五九一)閏一月、天正遣欧使節団は、京の豊臣秀吉の居館・聚楽第(じゅらくだい)にて秀吉に接見し、旅の報告と持ち帰った宝物の数々の献上を行った。学んできた西洋音楽の演奏も行われ、秀吉は満足げに聴き入った。

 そしてその後、二十七歳になった在信は、フロイス、ヴァリニャーノ、伊東マンショらと共に天草への船旅に就いた。妻・檜乃は第一子を身籠もっていたため、泣く泣く京へ残して単身で旅立った。

 妻・檜乃は、翌天正二十年(一五九二)、のちに嗣子となる男児・貴船丸を無事出産した。

 在信はゴメス司祭に師事し、着々と学識を身に付けていった。文禄二年(一五九三)、ゴメスは西洋天文学の書である『天球論』を著した。

 同年、三十歳になった在信は、多くの学識と貴重な書籍を得て京へ戻ってきた。この功績が認められ、正五位下の位階と、大蔵大輔(おおくらたゆう)および暦博士(こよみはかせ)の官職を授けられた。


・「Tant que vivray」――クローダン・ド・セルミジ(一四九〇頃~一五六二)作曲。

・鞠の言行は架空。

・天正遣欧使節団が秀吉の前で西洋音楽を演奏したことは記録にあり。

・在信の天草留学は架空。

・在信の妻・檜乃と子・貴船丸は架空。貴船丸の名は、生まれ年の干支から。壬辰(みずのえたつ)、壬は陰陽五行では水の陽、辰は龍。水龍の神である貴船神社に因んだ考案。

・在信の官位授与は架空だが、文禄五年(一五九六)、「正五位下行大蔵大輔博士賀茂朝臣在昌」という署名による文書が残る。本作においては、在昌ではなく実際は在信が書いたものと設定した。世間に名が通っていない嗣子が、「某の息子」というニュアンスで父の名を借りて名乗ることは、この時代よくあった。


十二 常に共に在り


 こうして豊臣秀吉の知遇を得、京の公家界でも重用されて幸福を楽しんだ勘解由小路家であったが、その日々は長く続かなかった。晩年の秀吉は独裁体制を強め、老害を振りまいていった。

 文禄四年(一五九五)七月、秀吉の養子であり関白の地位を嗣いだ豊臣秀次は、突如嫌疑を掛けられて廃嫡された上、切腹を強いられた。それに連座して、武家・公家共に多くの者が粛正あるいは流罪となった。さらに秀吉は、秀次の痕跡までことごとく消し去ろうとするかのように、聚楽第を跡形残らず破壊し尽くした。なんとも狂気じみた沙汰である。

 この時、実際には何も関係なかった天文博士土御門久脩(つちみかどひさなが)までもがとばっちりを受け、秀吉の詰問を受けた。在昌は、娘婿である久脩の弁護に意を尽くし、助命はされたが、結局無罪放免とはならず、尾張に流刑にされてしまった。

 慶長元年(一五九六)十二月、秀吉の命によって最初の国家的なキリシタン虐殺が起こった。フランシスコ会士とその指導下の信徒を中心とした、京のキリシタン二十六名が、耳たぶを削がれて京中引き回しの上、長崎で見せしめのように処刑された。刑死も追放も免れた京の有力階層のキリシタンは、ユスト高山右近(うこん)と在昌一家くらいであった。以来在昌一家は、表向きには信仰を捨てたふりを通すことを強いられた。

 慶長三年(一五九八)九月、秀吉は伏見城で没した。しかし、キリシタン迫害は時代の趨勢となっており、在昌一家の肩身狭い境遇は変わらなかった。


 慶長四年(一五九九)八月、在昌は病を患って危篤に陥った。幼き日より折々世話になったひょうきん公家・山科言継(ときつぐ)の跡を嗣いだ山科言経(ときつね)(一五四三~一六一一)の上奏により、病床の在昌は最後の名誉として従三位(じゅさんみ)に叙せられた。

「いよよ時が満ちた……主よ、汝今こそ、このしもべを安けく去らせ給う」

祖父上(おじうえ)さま、どこへ行ってしまわれるの……?」

 心配そうに付き添う八歳の孫・貴船丸に、在昌は静かに答えた。

「よい子だ、心騒がすでないぞ。天主様は常に我らと共に在り、天主様の御許(みもと)へ赴く私も、大いなる一つの命の内に抱かれて、今も何時も世々に、常に共に在るのだ」

 かくして在昌は、六十一歳の波乱に満ちた生涯に、静かに幕を下ろした。


 在昌の遺骸は、京都東山の真言宗六波羅蜜寺にて荼毘に付され、堺の同門・大寺(おおでら)念仏寺に葬られた。自ら希望して付けられた戒名は、常在院萬円天昌居士。「主は常に共に在り」と、「マノエル→萬円」という密かな含意を込めた名である。

 妻・広は、在昌の墓前に付き添い弔いに勤めるべく、堺へ移住した。一時期ほどの勢力は削がれたものの、堺はいまだ自治都市をなしており、ここにおいては細々ながらキリシタン信仰に戻ることができた。


・土御門久脩が流刑にされたことは史実。それに際して在昌が弁護を尽くしたという点は架空。

・在昌一家が慶長元年のキリシタン迫害の際にどうしていたのかは記録なし。

・在昌が従三位に叙されたという点は架空。

・「主よ、汝今こそ、このしもべを…」――ルカによる福音書2章29。

・在昌の荼毘、墓所、戒名なども架空。


十三 とこしえに主の家に


 翌慶長五年(一六〇〇)九月、天下分け目の関ヶ原の合戦が起き、徳川家康率いる東軍が勝利した。天下は豊臣家から徳川家に移ろいでいった。

 それとともに、同年十一月には土御門久脩(ひさなが)が流刑を解かれて京に一時呼び戻され、翌年には代々の所領である若狭名田庄を引き揚げて京へ帰還した。土御門家の名誉回復とは裏腹に、豊臣寄りと見なされていた勘解由小路家は徳川家康の覚えが悪く、朝廷での立場も失っていった。

 慶長九年(一六〇四)、広は病を患い、六十六歳で堺にて没した。母の看病と看取りに堺へ下ったことを機に、四十歳になった在信は京を引き払って堺に移り住み、かねがね懇意にしていた姻戚である小倉浄因季雅と和高彦の家の隣、大寺念仏寺の質素な住坊に居を構え、念仏寺の境内に建つ開口三村(あぐちみつむら)大明神(現・開口神社)の神主を務めつつ、細々ながら南蛮寺にも出入りした。

 まだ三歳である娘・梅子は、在昌が幼き日より世話になったひょうきん公家・山科言継(ときつぐ)の孫にあたる山科言緒(ときお)(一五七七~一六二〇)の養子とされた。この子はのちに、中流公卿烏丸光広(一五七九~一六三八)の側室となった。そして生まれた男児は、賀茂氏勘解由小路家が絶家したのち、長じて正保元年(一六四四)に分家し、勘解由小路(かでのこうじ)資忠(すけただ)(一六三二~一六七九)と名乗った。暦道賀茂氏とは全く無関係の藤原氏日野流ではあるが、勘解由小路家の姓が再誕することとなった。


 慶長十五年(一六一〇)、失火で全焼した方広寺大仏殿の再建のため地鎮祭が行われた。これにあたり在信は、十九歳に成長した息子・貴船丸改め在季(あきすえ)とともに、堺から一時上洛して斎行を務めた。これが歴史に残る最後の舞台となった。

 しかし、此度の斎主は土御門久脩。在信と在季は、位階に見合わぬ末席に置かれた。この時、土御門久脩は正五位下、在信は従四位下であり、本来在信のほうが格上であった。

 土御門の家臣達は在信達にあからさまな侮蔑の眼差しを向け、聞こえよがしに陰口を叩いた。

「見よ。我ら陰陽師の席に、何とまあ邪宗門の徒が混じっておるぞ」

「げに。穢らわしいことじゃ」

 在季が睨み返すと、土御門の家臣達は糞虫を見たような悪態で目を逸らした。

「これ、雑言は慎みたまえ」

「はっ、失敬いたしました……」

 久脩は小声で家臣を咎めると、面目なさそうな面持ちで一礼を投げた。


「ああ、畜生! 父上。久脩様はともかく、土御門の郎党共は最近いささか増長しておるのでは……どうもいけ好きませぬ」

「まあそう憤るな、在季。久脩殿は義理の甥、我が勘解由小路家にとって姻戚にあたる。縁者の出世は慶び申し上げるべきであろう」

 キリシタンに対する迫害はますます強くなり、在信一家は京の公家界から忘れ去られていった。朝廷の陰陽道の支配権は、久脩を当主とする土御門家に移っていった。


 慶長十八年(一六一三)、英国商船クローブ号が平戸に来航し、ジョン・セーリス提督が八月に堺を訪れた。国際情勢は移ろい、すでにスペイン・ポルトガルはアジアの制海権を失って、英国とオランダが大海洋帝国を築き上げていた。

 豊後府内と天草での勉学の賜物で、ラテン語・ポルトガル語のみならず若干の英語をも解する鞠。堺で在信一家と接見したセーリス提督は、彼女の博覧強記ぶりに驚嘆した。リュートを奏でつつ英語の歌も歌って聴かせ、絶賛された。

 四十三歳になった鞠は、このクローブ号に同乗して英国へ旅立つこととなった。もちろん、帰らずの船出である。

 在信は、手土産として東洋星座の絵図や渾天儀などを携えさせて鞠を送り出した。

「旅路に幸いあらんことを――命の限り、恵みと慈しみがいつも汝と共に在らんことを」

「はい、兄上。何卒ご達者で――兄上の分まで、私はとこしえに主の家に仕えますゆえ」

 鞠はロンドンを経由してアイルランドへ行き、その片田舎の修道院で静かに生涯を全うした。


・慶長九年に勘解由小路在信が堺に住んでいるという史書記録があり。

・在信の娘・梅子とその来歴、勘解由小路資忠を生んだという点は架空。

・方広寺大仏殿再建地鎮祭の斎行者としては、賀茂在昌という名で記録が残っている。

・慶長十年、「勘解由小路修理大夫在信」という記録がある。修理大夫は従四位下相当の官職であり、これが真実ならば、方広寺地鎮祭の行われた慶長十五年の時点では、正五位下であった土御門久脩より在信のほうが格上ということになる。

・在信の子在季は架空。母方の伯父にあたる小倉浄因季雅(架空)から一字を取った名。

・セーリス提督との接見、鞠のアイルランド移住も架空。

・「命の限り…/とこしえに主の家に…」――詩編23編6。


十四 千々の星々


 慶長十八年(一六一三)十二月、ついに全国的な根絶やしのキリシタン禁止令が発せられた。翌慶長十九年(一六一四)九月、勘解由小路在信五十歳の時、ユスト高山右近をはじめとするキリシタン信徒および聖職者の大規模な国外追放が行われた。

 またこの年の七月には、徳川幕府勢の豊臣秀頼勢に対する一度目の遠征、いわゆる大坂冬の陣の発端となった、方広寺鐘銘事件が起き、徳川勢と豊臣勢の対立が表面化した。秀吉が建て秀頼が再建した「京大仏」方広寺の梵鐘に刻まれた銘文のうち、「国家安康・君臣豊楽」という句が、徳川家康の家と康を分断した上、豊臣を君主とし、家康を冒瀆・呪詛するものと見なされたという、いわば言いがかりに近い事件である。

 いよいよ差し迫る危機を覚えた在信は、妻・檜乃の叔父である小倉浄因季雅五十九歳を頼って、妻子を引き連れて因幡八東郡の若桜(わかさ)宿(現・鳥取県八頭郡若桜町)に落ちのびた。

 十歳になる三男石丸は、外祖父にあたる(やまと)高彦が引き取り、高彦の生地である大和国朝和の大和(おおやまと)神社(現・奈良県天理市)にて育てられたのち、長じて高鴨和信(たかがもかずのぶ)と名乗り、大和葛城に鎮座する賀茂朝臣(かものあそん)氏の氏神・高鴨神社(現・奈良県御所(ごせ)市)の神主となった。

 在信の勘は当たって、翌慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされ、かつては「東洋のヴェネツィア」と呼ばれて繁栄を極めた堺の街も、戦火で全焼した。

 かくして、賀茂勘解由小路家は歴史の舞台から消えた。勘解由小路家は絶家したものと見なされ、賀茂氏傍流の幸徳井家が賀茂暦道を継承し、元和四年(一六一八)には幸徳井友景三十五歳が陰陽頭に任ぜられた。在信と柳生勝子の間に生まれた、かの悲恋の落とし子である。


 因幡若桜宿は四方を霧の降り立つ山に囲まれた山深き街道筋の宿場町で、材木屋の杉皮の煙がたなびくばかりの静かな里。周辺には平家の落人の伝承が残る集落もあり、また後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る折に立ち寄ったという伝承も残る地。隠れ里としてはうってつけの場所である。

 この隠れ里に身を潜めた在信は、「賀茂在信」の名をひねって、また妻・檜乃の父である(やまと)高彦の姓から一字を取って、和賀佐茂信(わかさしげのぶ)と名乗り、町の鎮守社・松神大明神(現・若桜神社)の神主となった。そして人知れず山合の星を眺めつつ、西洋天文学を取り入れた新たな日本独自の暦法を研究執筆して、静かな余生を送った。

「在季、見てみよ。今宵の星は素晴らしいぞ」

「まことに、星の綺麗な夜にござりますね、父上」

「月も、千々の星々も、天主様が指の業で据え給うたもの――その主が御心に留め給うとは、人の子とは何者なのであろう……主が顧み給うとは」


 寛永十五年(一六三八)、島原の乱が終結した年。勘解由小路在信改め和賀佐茂信は、因幡若桜宿で人知れず、七十五歳の生涯を終えた。

 いつの日か、誰かが、大和暦を完成させることを望んで――

 そして、主の御国が再びこの日本の地に訪れることを待ち望んで。


 結


・因幡に逃れ、改名し、暦法を執筆という点は架空。

・在信の息子・石丸と和高彦は架空。

・幸徳井友景→「八 本能寺の変と奈良下向」参照。

・「月も、千々の星々も…」――詩編8編4~5。

・在信の没年は架空。

第二部 解説コラム


 第二部前半は、ルイス・フロイスらキリシタン文献の記述によるところが大きい。何ともドラマティックな「史実」がふんだんなのである。

 伴天連が初めて京を訪れ、仏僧に議論を挑まれていた時、颯爽と現れた在昌が論破するというくだり――身籠もった妻と豊後に渡航する道中、妻が出産して容態を悪くし、キリシタン医師の介抱によって快復した感謝として長男を修道誓願させるというくだり――その長男メルショルが、若くしてイルマンとなり、しかしイエズス会を退会させられたのち、何者かによって殺害されたというくだり――まさに、真実は小説より奇なり、である。


 さて。メルショルは、何故イルマンの地位にありながらイエズス会を退会させられ、そののち殺害されたのだろう。作者は、辻褄が合い、かつ最もドラマティックな展開を求めて、推理と空想を馳せた結果、それは彼が信仰を捨ててしまったからではなく、ひたむきな信仰ゆえにこそ――と仮定した。キリシタンの「暗部」に触れてしまい、それでも信念を貫き通した結果、そのような結末になってしまったのだ、と。


 そして、陰陽師ファンならご存知かも知れない、幸徳井友景。柳生の血を引く剣術陰陽師――という空想が働く。これでまた一本の小説になりそうだ。(荒山徹『柳生陰陽剣』新潮社、2008年)

 友景は本能寺の変の翌年生まれであり、柳生の血筋でありながらなぜか賀茂氏幸徳井家を嗣いだ、というところから想像して、在昌の息子・在信の落とし子であるというシナリオを考えた。


 また重要な一点。在昌が京へ戻って陰陽師を嗣いだのは、すなわちキリシタンの信仰を捨ててである、という見方が従来されてきた。しかし作者は、むしろ生涯にわたって、また家族共々にキリシタン信仰を持ち続け、それがためにキリシタン弾圧とともに歴史から消えていったのではないか、と考えた。

 キリシタンと陰陽師は両立しないという思い込みは、陰陽道が「宗教」であるという認識が前提にあるのであろう。また、キリスト教が「厳格で排他的な宗教」であるという思い込みもあるのであろう。

 しかし、少なくともまだこの時代の朝廷陰陽道は、宗教ではなくあくまで朝廷の職務である。のちの江戸時代、土御門家が陰陽道と神道を融合させて「土御門神道」を興したのちも、土御門家はなお仏寺の檀家であり続けた。

 よって作者は、祭礼宗教として深く俗世間生活に関わる仏教よりもむしろより内面的信仰であるキリシタンと、造暦を中心とした淡々たる朝廷の職務である陰陽道の両立は不可能ではないと考えた。在昌の師が最大限の現地適応主義を採ったトーレス司祭であったとすれば、なおのことである。

 在昌は生涯にわたり、堂々とキリシタン信仰を続けた、まさに「キリシタン陰陽師」であった――本作は史学論文ではなくあくまで歴史創作小説ではあるが、そのように高らかに謳い上げたい。


 2017年6月9日 起筆

 2018年4月23日 擱筆

  鳥位名 久礼


【参考文献】

・但馬荒人“戦国時代の陰陽師:賀茂在昌”

https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%c0%ef%b9%f1%bb%fe%c2%e5%a4%ce%b1%a2%cd%db%bb%d5%a1%a7%b2%ec%cc%d0%ba%df%be%bb

・Wikipedia-賀茂在昌

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%9C%A8%E6%98%8C

・海老沢有道「マノエル・アキマサと賀茂在昌」、『史苑』第25巻3号、立教大学、1965年(海老沢有道『増訂 切支丹史の研究』、新人物往来社〈日本宗教史名著叢書〉、1971年収載)

https://ci.nii.ac.jp/naid/110009393982

・木場明志「暦道賀茂家断絶の事」、北西弘先生還暦記念会編『中世社会と一向一揆』、吉川弘文館、1985年(村山修一他編『陰陽道叢書』第2巻《中世》、名著出版、1993年収載)

・福尾猛市郎『大内義隆』、吉川弘文館、1959年

・ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』第3巻《五畿内篇》、中央公論社、1978年

・ガスパル・ヴィレラ著、村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』上巻、雄松堂書店、1966年

・山科言継・山科言経著、湯川敏治編『歴名土代』、続群書類従完成会、1996年

・『幸徳井世系考訂本』(明治期、筆記史料)

https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/839

・“Reichsarchiv ~世界帝王事典~”

https://reichsarchiv.jp

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