霧の庭 - n -
「いやあ、あんまり人とずっと一緒にいるのは気が疲れるわねえ」
町の中、外壁沿いのすぐ傍でナナメが呟いた。人通りの多い通りではなく、ナナメの他には誰もいなかった。あるのは、まるで穴が空いたかのような、影にしては妙に暗いナナメの影だけだ。
その影は、独り言のようなナナメの声に反応するように、大きな眼をゆっくりと開いた。
「それなら、捨て置けば良かったじゃないですか」
影の中では白目が爛々と輝き、その中央にべたりと墨汁を垂らしたかのような暗い虹彩が、ぎょろりとナナメを睨む。
「大体、村まで連れて行くと提案している相手がいるのだから、それに任せればよかったんですよ」
「一緒に来たいって言ってるのを断るまでもないでしょう。確かに疲れはするけど、ついでだし、そこまでの労力でもないし」
「それはそれは、お優しいことですねえ」
「精霊さんってば、なあにその言い方。そう言えばずっと出てこなかったし、やっぱり何か気に入らないことでもあったの?」
刺々しい言い方に、ナナメが首をひねる。「言ってくれれば良いのに」と言えば、精霊は影からゆったりと出てきてナナメを睨めつけた。
その色は影から出てきても変わらない。のっぺりとした闇が形をもっただけだった。そのうえ”とりあえず人の形を模してみただけ”のようで、ひょろりと長い手足に細い胴体が伸び、そこに丸い頭部が乗っかっている。
その闇が、目を細めてナナメを眺める。
「折角同郷の方に出会えたのですから、水を差すのも如何なものかと気をくばっただけですよ。少年から何かをもらっていましたよね」
「まあ貰いはしたけど……ここまで連れてきた報酬よ報酬。どうせあの子らにはもう不要でしょうし」
ナナメはポーチから正太のゲーム機を取り出した。故郷の文字が書いてある、故郷のゲームだ。二人が寝入ったあと、ナナメがそれで夜通し遊んでいたのを精霊は見ていた。精霊にとってその字は難解で、何が書いてあるのかはわからなかった。それでも、ナナメが楽しそうにしていたのは違いない。
「ナナメ様も故郷がお懐かしいと」
「まあ、懐かしいと言えば懐かしいのかな。どうなんだろう」
「これから彼らと行動を共にするのですか?」
「暫く集団行動は遠慮しとく」
「けれど、帰りたいと」
そう続けた精霊に、ナナメは一瞬だけ目を見開いて、その後笑った。ナナメが笑えば笑う程、精霊の目は不機嫌に細くなっていく。そして笑いながら、ナナメがぽつりと言った。
「大丈夫、帰れないよ」
その言葉を聞いて、精霊はそれでも不満気にしながら元いた影へ沈んでいく。最後に頭部だけ出しながら、言葉を付け足す。
「野盗の男共に連れられていった残りの彼らも気になるのでは?」
「今日は随分しつこいなあ。何かあるの?」
「町について、無事に売られたようですよ。風の噂ですけど」
言い残して、精霊は影になった。ナナメが石壁に映った自分の影を触る。そこはただの石壁だった。
「……そう」
ナナメはそれだけ言って、何の感慨もなく壁から手を離した。一度だけ来た道を振り返って、すぐに前を向きなおす。それだけだ。