霧の庭 - 3 -
鍋の中身は大したものではない、とナナメは言っていた。この湿地帯にはないが、そのあたりの森で摘めるような草や実などを干し肉と一緒に全部細切れにして煮込んだだけで、味付けすら自分でつけろと塩と砂糖の小瓶を渡されたほどだ。
それでも一杯のスープを口にする度、暖かさが胃から全身に染み渡る。自然と「おいしい」と口から零れた。
そのおかげかその夜は久方ぶりに安心して眠ることができた。床が硬いのは相変わらずだが、久しぶりに胃を食べ物で満たして眠る夜は暖かかった。
ぐっすり眠り込んで、朝日が再び箱の中を照らし始めた頃、扉が控えめにからりと開く。
「おはよ」
既に身支度を終えたナナメが入ってくる。
起きて部屋の隅で少ない荷物をまとめていた男たちは音に反応してナナメに視線をやり、イモムシのように転がっている子供たちは目をこすりながらあくびをした。
おはようございます、と頭を下げる男に、ナナメは袋を投げる。軽々と投げられた割に重量のある音がした。
何かと男が中を覗いて「肉だ」と小さく叫ぶ。
「いいんですか」
「味付けがちょっとね……。捨てるのももったいないからあげる。全員で食べても町につくまでの分はあるでしょう」
「味ですか? 普通に美味いですよ、むしろ携行食としては十分すぎる味だ」
石切村の男がおそるおそる乾燥肉を齧ってそう呟いた。それに続いて同じく男が食べてやはり美味いと良い、健一がそれに手を伸ばして、今度は「うっ」と呻く。
「甘……」
ひと噛みしたその肉を正太に渡す。そして正太も同じように噛みちぎって、やはり「甘い」と口を抑えた。隆なんかは「吐きそう」とか言う始末だ。その様子に、石切村の男は不思議そうに首をかしげる。そういえば、この男たちは昨夜のスープにも砂糖を入れていた。
皆の姿をみて、ナナメが愉快そうに笑った。もう一回り小さい袋を健一に投げる。今度の乾燥肉はほんのりと塩味のする食べやすい味だった。問題なく食べている姿を見守ってから、ナナメはひらひらを手を振った。
「それじゃ私はもう行くから。二度と会うことはないでしょうが、達者でね」
そのまま出て行くナナメの背中に、正太は慌てて叫んだ。
「まってください! 僕も一緒に連れて行ってください!」
「え? まあ着いてくる分には構わないけど、私の行き先は君らと反対方向だし、かなり歩くことになるのよ。それに連れて行くのは次の町までだから、最終的には別れる」
「それでも良いです、おねがいします」
頭を下げる正太に、ナナメはついてこいと言いたげに、頭をくいと動かして外へ出て行った。正太は少ない荷物だけが入った鞄を引っつかんで、教室の中に頭を下げる。
「寝てる間に考えたんだけど、やっぱり僕はナナメさんと行くから。急なことで悪いけど、それじゃ皆元気でな」
全員の顔を眺めてから、最後に志保の顔を見た。ぽかんとした顔でこちらを見ている。──昨晩話し合った時では石切村の二人についていくことになっていたが、志保はどちらかと言えばナナメについて行きたがっていたはずだ。
呆けたままの志保に「行かないのか」と声をかける。志保は一瞬驚いて、それから正太と同じように慌てて鞄を掴んだ。クラスメイトと石切村の人たちには会釈をして「またどこかで」と小さく声をかける。
そうして教室から飛び出して、ナナメの背中を追いかけた。暫くの間は無言でただただ歩いていたが、霧の向こうへと教室が見えなくなったあたりでナナメが声をかけてきた。
「今生の別れかも知れないのにあっさりしてるわねえ」
「志保以外は出会ってまだ数ヶ月ですから。薄情でしょうか」
「キミが気にならないなら良いんじゃないかしら。どうせ仲良く町に行ったところでずっと一緒にはいれないんだから、別れが数日早まっただけよ」
「そうなんですか?」
「多分ね」
断言した割にぼかした言い方で返されて、正太は、おや、と首を傾げた。
だがそれを追求するより前に、ナナメにもらった乾燥肉をちまちま食べながら志保が声をかけてくる。
「それよりも、どうして正太はナナメさんに着いて行くって急に言い出したの? 昨日の時点ではみんなと同じ意見だったじゃん。私は男の人よりナナメさんの方が良かったから良いんだけどさ」
「皆はあの人たちのことを信頼しているみたいだったから言えなかったけど、僕はあの人たちと一緒に過ごす気にはなれなくて……。あとナナメさんと一緒の方が寝食に困らなそうだし。更にたどり着くのに時間がかかるってことは、それだけ長く頼れるってことだからな」
「お、キミ、本人を目の前にしてそういう打算的なこと言うかあ、なかなかやるね」
はっとして、今のは失言だったかな、とちらりと横を見上げる。だがナナメは気にしていないらしく、むしろ楽しそうに目を細めて笑っていた。ホッと胸をなでおろす。その代わり、志保に横腹をつつかれてしまった。
その他にも聞きたいことはたくさんあった。けれど、一週間以上もの間食事なしで動かずに生きていた体にとって、ただ歩くだけでも非常に辛いものだった。すぐに息も絶え絶えになってしまって、会話なんかをする余裕がなくなってしまう。
ぜいはあと息を切らして歩いている二人に歩調を合わせながら、ナナメはだらだらと二人の前を歩く。そんなやる気のない歩き方なのに、必死に歩いても一向に追いつけない。
「今日はこのあたりで休もうか」
丸一日歩くことに費やして、まだ日があるうちに荷物を広げながらナナメが言った。二人はようやく休めると地面に崩れ落ちる。
慣れた様子で手早くバッグから装飾の施された板を取り出す。板には取っ手がついていて、それを引っ張るとまるで引き出しを引くように板が伸びていく。三回繰り返すと、スーツケース程の大きさになった。
興味深げにナナメが荷物を広げる様子を眺めていると、ナナメが二人をちらりと見る。
「これは圧縮ケースでね、まあ名前の通り中身を圧縮する道具。道具屋で普通に売ってるから珍しくもないからね。昨日使った時も、あの人たちだって何も言ってなかったでしょう」
「高級品だから、怒られるから触るなよって散々注意されました」
「あいつらめ、余計なこと吹き込むんだから。……ほら、シャワーセット。ご飯の前に体洗ってきなさい、臭うわよ」
そう言って籠を渡される。中には見たことがありそうで、知らない形状の物体が並んでいた。それをナナメは一つ一つ「これがシャワーでここで調整」「これは石鹸、全部分解されるからそのまま流して良いから」「着替えは私ので悪いけどあげるから着ときなさい」「今着てるのは洗うからそのへん置いといて」と指差す。
説明しているのにもかかわらず、二人がぽかんと惚けていたせいで、ナナメは困ったように眉をしかめた。最後にと、ふかふかのタオルを取り出していた時だ。
「まさかキミら……シャワーをご存じでない」
「い、いえ、知ってます。こんなところでシャワーを浴びれるとは思わなくてびっくりして……。これ、ホースついてないんですけどどう使えば良いんですか?」
「このまま使える。なんて言えばいいかな。魔法っていうか、魔道具って言ったらわかる? 中に魔法みたいなのが入ってるんだけど」
「魔法みたいなのってなんですか。魔法じゃないんですか?」
「じゃあ魔法ってことでいいや。お湯出る魔法が入っててボタン一つで稼働するから早く行ってらっしゃい」
「魔法ってことでって……」
魔法はあるのだろうか。きっとあるんだろう。少しわくわくする気持ちを押しとどめながら、あっち行ってと言われた方に歩く。
霧の中に背の高い木があって、シャワーヘッドと籠ををかけるフックがあり、足を置く簀子のようなものがあって、更には細かく編みこまれた板でふたり分のスペースが区切られていた。──全部の道具が真っ黒ではあったが、明らかにナナメの用意したものだろう。
志保は「見ないでね」と言いながらも喜んでその片方に入っていく。
「いつの間にこんなの作ったんだろう。ずっと一緒にいたよな?」
「魔法でしょ? いいなあ、私も魔法使いたい。私たちも魔法使えるかな。ねえ、あとで教えてもらおうよ」
「そうだなあ」
ほかほかになって戻った頃には、もしかして自分たちは家族でキャンプにでも来てただろうかと勘違いするような食べ物が置いてあった。
テーブルと椅子がしっかり容易されていて、ポトフに、狐色に香ばしく焼かれたパン、それからなんだかよくわからない物体のソテーが並んでいる。全てが真っ黒な中で、食器だけは木製だった。
「わあ、これ本当に食べてもいいんですか? 私もうおなかぺこぺこで」
「もちろん。でも、まだ胃が万全じゃないだろうし、食べられない分は余していいからね。それと、食べたあと気持ち悪くなったりしたら必ず教えるように」
「はあい、やった。ナナメさんについてきてよかったね」
「ありがとうございます、いただきます」
礼を言った正太を見て、先に手を伸ばしかけていた志保が遅れてナナメにお辞儀をした。どうぞと言われて食事に手をかける。
「キミらは礼儀正しいわねえ。騙されないようにだけ気をつければ、町の中ならやってけるわよ。まだ若いし」
「それならいいんですけど。でも魔法ってあるんですよね。魔法社会とかじゃないんですか? 僕らは魔法がない世界から来たので、魔法が何なのかわからないんです。そんな子供でも生きていけるでしょうか」
「魔法はあるけど、魔法の素質で人生が決まったりしないから大丈夫。そもそも誰でも使えるからね」
「誰でも?」
「そう、特別感がなくて逆に残念だったかしら? 魔法屋さんで使いたい魔法を買うだけ。あとはマナって呼ばれる生体エネルギーで発動させる。あー……マナは地域によって呼び方違うから、そのあたりは適当にしておいて」
ナナメがナイフで何かのソテーを切り出した。一枚一枚が分厚いステーキのような大きさだが、何かと聞けば「その辺の小エビ」と答えが返ってきた。バターでカリカリに焼かれたそれは、噛めばとろける身が口の中に広がる。確かにエビと言われればそうかもしれない。けれど今まで食べたエビよりもとても甘かった。
おいしいですと感想を述べると、なぜか困ったような顔をされた。
「マナがない人はいないんですか?」
「いない。生きてる存在なら大なり小なり皆あるのよ、頭のてっぺんからつま先の爪まで、動物にも魔物にも植物にもね。でも使いすぎたり体調が悪い時に使うと貧血になる。だから魔法に興味を持つのはもう少し体力が戻ってからね」
ナナメがそう言って、志保を見て頬を緩ませた。何かと思って正太も横を見ると、殆ど食べ終えた志保が船を漕いでいる。
「おい、起きろよ。子供じゃないんだから食べながら寝るな」
「今日は沢山歩いたんだから仕方ないわね、寝かせてあげましょう。あっちにハンモックかけてあるから、キミも食べたら寝ると良いわ、明日も一日歩くから」
軽々と志保を抱き上げて立ち去ったナナメは、志保を抱き上げた格好のまますぐに戻ってきた。
「離してくれなくて」
「恥ずかしいやつ。志保が本当にすみません」
「キミが謝ることなんてないのに。もしかして兄弟?」
「違うけど似たようなもんです。家が近所で、同い年だったからか知りませんが、志保の親がいつもうちに志保を預けてたんです。だから小さい頃からずっと一緒に育ってきて、妹みたいなもんですね」
「それは……二人共今まで苦労してきたのね。ま、これからも別の意味で苦労することになるでしょうけど」
「そうですね。あの……異人は沢山いると聞きましたが、行き来はあるんですか? 結構簡単に帰れたり……」
「帰ったって人は聞いたことがない。悪いわね」
「そうですか……。いえ、いいんです。正直なところ、もう、諦めてはいたので。それに……帰らない方が、良いのかもしれない」
俯く正太を見ながら、ナナメは志保にかからないように気をつけながら食べかけのポトフを口に運ぶ。
「異人自体は結構沢山いるのよ。同じ国の人だって見つかるかもしれない」
「そうでしょうか」
「多分ね」
ナナメの言い方に正太はひっかかりを覚えた。だが、自分がどこにひっかかっているのかはわからない。だが、この人は何かを知ってるんじゃないか、どうしてもそう思えた。
けれどもナナメはそれ以上はいう気はないらしく、食べ終わったら早く寝なさいね、とだけ言った。
──正太の代わりに、志保が「おかあさん」と言ってナナメの服を引っ張った。