霧の庭 - 2 -
霧と闇の中に一つの光がゆらゆらと揺らめいていた。金具で固定されたガラスの筒と、その中の光る石が、煌々と輝いて周囲の闇を晴らしながら歩んでいる。ガラスの筒を手に下げた人物は、枝や倒木や何かの骨の残骸の上を歩いていく。
──あれはなんだろうか。人だろうか。それとも化物だろうか。
静かに近寄ってくる光を、正太は眠い目を凝らして睨んでいた。遠い上に暗いのでよく見えない。ただ、しんと静まり返った夜に、声だけはよく通っていた。
「思ったより遠くて暗くなったね。誰かが住んでるちゃんとした小屋だと良いんだけど」
落ち着いていて、声だけでは男か女か判別し難い声だった。
誰かに話かけるような声色に、他に誰がいるのかと耳を澄ます。足音は1人分しかないが、声に反応して後ろで闇が揺らめいた。大きな一つ目がぎょろりと闇夜に光っている。
一つ目の影が、カンテラの光を嫌うように、影に隠れながら不満げに息を吐いた。
「こんなところに民家なんてあるわけないと言ったじゃないですか」
「それでも、誰かが住んでなければ明かりなんて灯らないでしょう。人工的な明かりだって結論付けたじゃない。つまり誰かはきっといるってこと」
「どうですかねえ」
ゆらゆらとした光はそこで止まった。光る筒──カンテラを持った人物は、その明かりを腰にかけて、当然のように背中から長い棒を取り出した。棒はゆっくり空から振り下ろされて、正太の目の前で止まる。その先端が光を浴びてぎらぎらと輝いた。プラスチックや木では有り得ない重厚感と光沢が、本物の槍だと直感させる。──そこでようやく、見つかったのだと理解した。
正太は横で寝こけている志保を揺さぶりながら、慌てて声を出す。
「あ、あの、僕ら、あやしいものじゃないです!」
「はあ──なんだ、子供か」
二人の姿を上から下まで眺めた後に、その人物はさっさと槍を背中に戻した。それに正太はほっと息をつく。原住民のような男共を見た時には、言葉も何も通じないことも懸念していたが、少なくとも話は通じるらしい。──流暢な日本語なのだし、まだここは日本なのだろうか。
「子供がこんなところで何をしているの。明かりもなしに出歩いてたら危ないわよ」
「僕らも帰りたいんですけど、戻るに戻れなくて」
そう話したところ、その人は正太と志保を交互に見て、首を傾げた。
「駆け落ち? こんなところで?」
「ち、違います。志保、いつまで寝てるんだよ、起きろって」
正太は志保を乱暴に揺らしてなんとか起こす。それでもまだ寝ぼけ眼の志保が、手で目を覆って「まぶしい」と呟いた。しばらく起きないかもしれない。
正太はがっくりして志保を起こすのを諦める。
「僕は正太って言います。こっちは志保。あそこで寝泊りしていたんですが、外に出ている時に急に知らない人がきて、戻るに戻れずここにいたんです。……そうだ、お名前伺っても良いですか」
「丁寧にどうも。私はナナメ。キミらはここに住んでるの?」
「いえ、住んでいるというか……住まざるを得ないというか」
まだぼんやりしている志保をよそ目に、正太はナナメに自己紹介をした。とはいえ、何から説明すればよいのかもわからず、学校にいたのに気がついたらここにいたということや、自分たちの拠点に山賊のような人が来て、恐ろしくて帰れないことを言葉に詰まりながら説明する。
ナナメは理解しているのかいないのか、時々「へえ」と気のない相槌を打ちながら聞いていた。
最後に一息ついて、正太は本題に入る。
「ここはどこですか。日本ですか?」
「ここは日本じゃないし、このあたりに日本なんて場所はないね」
あっさりとした答えが返ってきた。だがそれはおかしな話だ。
「でも、ナナメさんは日本語を喋っていますよね」
例え未来の日本であったら、ここは日本であると返ってくるはず。もし日本が存在する前の過去であれば、こんな現代語ではないはず。異世界だとして、まったく同じ言葉で喋るだろうか。自分たちは、まるで物語のように、魔法だなんだで言葉がわかる”翻訳”機能なんて、誰にも貰っていない。
食い下がる正太に、ナナメは困った様子を隠す気もなく眉を下げた。
「キミの故郷がどこかは置いておくけど、ここでは自分が何を話しているのか深く考えないほうがいいわよ。じゃないと言葉が通じなくなるかもしれないから」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だからこれ以上その話はしない。……それよりも、野盗が出たならさっさと逃げたほうがいいんじゃない。難ならキミら二人くらいなら町まで送っていってあげてもいいわよ。結構歩くことになるけど」
「それは有り難いんですけど……でも、わからないんです。怖そうな人たちだなって思っただけで、僕たちは山賊だとか盗賊だとか、本物なんて見たこともないので判断がつかないんです」
「なら余計にわからないわね。山賊も盗賊も、私と格好はそう変わらないから」
ナナメは羽織っていたマントの前面を開いて見せる。全身の装備が革で出来ていた。帽子は勿論、服にブーツにグローブ、それから革のベルトには革で出来たポーチがいくつもぶら下がっていて、更には背中に大きなダッフルバッグと、武器だと思われる棒状の何かを背負っていた。
あまりの量の荷物に正太が目を丸くする。
「この辺じゃこれが普通なんですか? さっきの人たちは、何か武器っぽいものは持ってたかもしれないけど、殆ど手ぶらだった気がします」
「普通と言えば普通。……武器だけで手ぶらとなると、単に荷物がないだけの可能性が高い。どこかから逃げてきたのかしら……。ちょっと見てきてあげるから、とりあえずキミらはここで待ってて」
ナナメはカンテラを正太に押し付けると、そのまま教室へと歩いて行った。ナナメは一度教室の外壁にかかっている”掲示板”を興味深げに眺めてから、教室の扉を開く。
「言葉は通じたみたいだけど、あの人は日本語も読めるのかな」
ずっと目を瞬いていた志保がまだ眩しそうにしながら言った。
「さあね。言葉が通じるなら文字も読めるんじゃないか。あとで聞いてみよう。悪い人じゃなさそうだったし」
「そうだね……。うん。そうだね」
遠くでナナメが扉をノックした。「こんばんはあ」といった間延びした声が響く。それに対して返答はなかったらしく、ナナメは仕方なしに自分で扉を開ける。
ナナメはそのまま中に入ってしまったので、それ以降は何が起きたかはわからなかった。ただ、男の怒声と悲鳴、それから何かが投げ飛ばされたかのような大きな音が響いたので、正太と志保は慌てて教室に駆け寄る。
まず目に入ったのは、教室の隅で身を寄せ合っている四人のクラスメイトだった。全員無事なようで、二人はほっと胸を撫で下ろす。それから机と椅子に埋もれるように、あの時見た二人の男が転がっていた。この一瞬でどうやったのか、黒いロープでぐるぐる巻きにされている。
「襲われたから倒しちゃった」
駆け寄ってきた二人に気付いて、ナナメは頬に手を添えながら声をかけてきた。襲われたことには何の驚きもない様子で、どちらかと言えば彼らをどう処分しようかと悩んでいる風にも見えた。
この世界ではこの暴力的な光景が当たり前なのだろうか、と正太は思う。
「みんな大丈夫?」
志保が四人に駆け寄ってそう言った。彼らは相変わらずぐったりした様子でこちらを見ているだけで、健一だけがこちらの呼びかけに反応する。健一は志保と正太を見て表情を緩めて、その後にナナメを怯えた様子で見上げた。
「俺たちは大丈夫だけど、お前ら二人はどこに行ってたんだよ? ていうかそいつ誰? 何? ヤバイ人じゃないの?」
「私もよくわからないけど、悪い人じゃないよ、多分。外で困ってた私たちの代わりに様子を見に来てくれただけなの。それよりも、その人たちこそ一体何者なの? 何かされなかった?」
「何もされなかったよ、それにこっちだって悪い人じゃないんだ。だから縄を解いてあげてほしいんだけど……」
「でも、襲いかかってきたんだよね?」
志保はちらりとナナメを見た。ナナメは転がされている二人をぼんやり眺めていたが、志保の視線に気付いて手をひらひらと振った。それだけで二人を縛っていた黒い縄が溶けるように消えていく。
正太と志保の二人はその光景に驚いたが、健一はおぞましい何かをみたかのように、それきり怯えてしまった。
「良いわよ。見た感じ職業野盗というより村人崩れでしょう。時間も時間だし警戒はやむを得ないと思っておくわ」
──二度目はないけどね、と釘を刺すと、二人の男共は首を何度も縦に振った。そうして自分たちはあやしいものではないと、許しを請うように話し出す。
男共は二人とも同じ村出身だと言った。石切村という、その名の通り石を切り出し近場の町に建材として売りに出していた村だったそうだ。その村が魔物の群れにより壊滅したという。村人は散り散りになりながらも近場の他の町へと逃げ込んだ。
しかしながら、体一つで逃げ込んだ上に、小さい町には、既に相当数の避難民が押し寄せていた。石切村以外にも、同じように近場の村が壊滅していたらしい。それ以上受け入れてもらえなかったそうだ。
そうして次の町へ向かう間に、ナナメと同じように民家の明かりを見てここにたどり着いたのだという。
「じゃあ、ここが何もなかったから何もしなかっただけであって、もし普通の家だったら、金目のものや食料を奪う予定だったかもしれないんですか?」
正太がそう質問すると、二人はおどおどと口ごもりながら否定する。嘘は得意ではないらしく、それが真実なのだろう。
だが、追求する前にクラスメイトの一人、今まで黙りこくっていた新沼隆が少し興奮したように声をだした。
「そんなことより、今、魔物って言ったよね? この世界、魔物いるの?」
「そりゃあ魔物は居るだろう。いない土地なんてよっぽど……ああ、あんたらは異人だったな」
「異人?」
「多くはないが珍しい話じゃない。どこから来たのかさっぱりわからん、俺らの国と考え方や持っている知識がまったく違うやつらがいるんだ。まるで湧いたように急に現れる。元いた場所もてんでばらばらだから、俺らはひっくるめて”異人”と言っている」
異人という言葉に、正太はナナメにもした質問を彼らにもした。
「あの、僕らは日本に住んでて、気付いたらここにいたんです。お二人は日本っていう国は知りませんか?」
「悪いが知らんな。やっぱりあんたらは異人だろうなあ、どうやってこっちに来たかは知らんが、気の毒に」
──気の毒に、と言われて、漠然とした不安が形になってしまった。やっぱり、自分たちは気の毒だと思われるような目にあっているのだ、と。
正太と志保が肩を落とすと、励ますようにもう一人の男が続けた。
「この子らにも話はしていたんだが、俺らは避難民の受け入れをしている大きめの町に移動する途中だったんだ。ついでだし一緒にくるか? 俺らも何も持っていないから道案内くらいしかできないが、あんたらもここにいるよりはマシだろう」
「えっと、それは確かにありがたいですけど……皆はもう決めたのか?」
四人に目配せをすると、それぞれ静かに頷いた。むしろ、ついていく以外の選択肢があるのか、といった風だった。それはそうだろうとも思う。正太とて、先にナナメに会っていなければ、彼ら二人が全てだっただろうことは想像に難くない。そもそも、彼らを山賊だと思ったのはただの先入観だ。遠くから見た姿でなんとなくそう決めつけた。
だがどうだろうか、自分達が襲う価値もなかっただけで、その価値さえあればいつでも彼らは村人から野盗になるのではないか。そんな人を信用してついていっても良いのだろうか、と不安で仕方なかった。しかし、ついて行く以外に選択肢がないのは事実でもある。
一人で悶々と考えていた正太の視界の端に、我関せずと黒板に落書きをはじめたナナメが映った。目玉がひとつだけついている細長い棒人間。そんな奇妙な生命体をひたすらに黙々と増殖させている。
「そういえば、ナナメさんもさっき、町まで送って行ってくれるって言ってましたよね」
「えっ、よく覚えてたわね……。でも”二人くらいなら”って言ったでしょう、全員の引率はちょっとねえ。それに道案内してくれる人もいるんだし、そっちに着いて行けばいいんじゃない」
「着いてきてくれないんですか?」
「悪いけど、来た道戻ることになるから遠慮したい」
ナナメはそう言って黒板の空きスペースに雑な地図を描く。山々に囲まれた盆地が現在地で、盆地のすぐそばに石切村の人達が言っていた”大きな町”があるらしい。そしてナナメは、その町から来て、盆地を挟んでずっと向こうにある町へ行くのだと言った。
「こっちの町なら徒歩二日弱、キミらの衰えた足なら倍以上かかるかしら。ま、護衛代を払ってくれるなら着いていってあげてもいいけど、そんなお金もってないでしょう」
「そうですけど」
「この辺りは、倒そうと思えばやっかいだけど、大きな音さえ立てなければ襲ってこないような生き物しか住んでないらしいから、そんなに不安がることはないわよ」
その言葉に健一が震えた。
「もし大きな音を出したらどうなるんですか?」
「普通に襲われて齧られるかもね。だけど、叫びながら走ったり、こっちから襲いかかったりしなければ、襲われたって話は聞かないから、平気なんじゃないかしら。ここに住むやつらにとって生きたヒトは捕食対象じゃないから」
そう言って、いくつもの魚や甲殻類のような生き物を黒板に追加する。その横で男が椅子に座りながら「この人は狩人だからああ簡単に言うけど、襲われたらひとたまりもないから本当に気をつけるんだぞ」と付け加える。
「狩人って?」
急に出てきた新しい言葉を、隆が興味津々に復唱した。
「異人さんは本当に何も知らないんだなあ。狩人は狩人だよ。獣狩ってくる人らだ。ほら、あの人の帽子にバッジがついてるだろ。あれが狩人ギルドのバッジだ」
「ギルドって、あのギルド?」
「”あのギルド”ってどのギルドだよ」
興奮気味に問いかけた隆に、石切村の男が呆れたように返した。その様子を見てナナメがひっそりと笑っている。
「冒険者ギルドとかってあるんですか?」
「冒険者自体はいるにはいるが、ギルドなんてあったっけなあ。多分、専門のギルドがあるわけじゃなくて、いくつかのギルドを掛け持ちしてると思うぞ。あんたらの住むところでは冒険者ギルドはメジャーなギルドなのか?」
「いや、そういうわけでは……、ただその、冒険者っていう職業があるのかなって」
「なんだ、なりたいだけか。どこの世界でも子供ってのは冒険に憧れるもんなんだなあ……あーあ、どこかに財宝でも埋まってないかねえ……」
しんみりとしてしまった男に、それ以上話を聞くことは隆もできなかったようで、口を閉ざしてしまった。元々があまり口数の多い方ではないから、余計に追求しにくいのだろう。
だが、隆の言いたいことは正太にもわかった。魔物はいるくせに、更にはギルドもあるくせに、どうやら冒険者ギルドなんてものはないらしい。
「夕飯にしようか。どうせ誰も何も食べてないでしょう」
途切れた会話を区切るように、バッグから荷物を取り出して、ナナメがパチンと手を叩いた。