霧の庭 - 1 -
死が包み込んでゆく。
さらさらと、体の周りを見えない綿が包み込むように音が聞こえる。激しくもなく急かすこともない音は、それでも確実に近づいてきている。その音が耳鳴りなのか、風の音なのか、はたまた幻聴なのかわからない程に近づいてきていた。
山北正太は目が覚めて、ぼんやりしたまま周囲を見渡した。教室には正太を含めて六名がいるけれど、朝と言って元気に起き出して来る人は誰もいなかった。自分を含めて全員が、硬い床に今ある限りの布を敷いて横たわっている。
まだ生きているだろうか、死んだりしていないだろうか。不安になって少し近付いて、体が小さく上下しているのを見てほっと胸を撫で下ろす。
それでも拭えない不安を紛らわそうと、正太は自分の手を開いたり握ったりしてみた。大丈夫、まだ力ははいる。頭が痛くてぼんやりするけれど、ずっと水以外を口にしていない割には体の調子も良い。ゲームばかりで体力のない自分がそうなのだから、きっとみんなも大丈夫だろう──と自分を納得させて、もう一度目を閉じる。
「今日はゲームしないんだ?」
囁くような、少し気だるげな志保の声だった。見ると、さっきまで死体のように閉じられていた目が開いている。
「なんだ、起きてたのかよ。もうゲームはクリアしたからやることないんだ」
「そうなの。クリアからが本番だって言ってなかった?」
「クリアして、アイテムもコンプして、クエストも全部こなしたからもうやることない。二週目はなんかやる気にならなくて」
そう言ってゆっくり体を起こす。硬い床のせいで体が痛い。頭もぼうっとしてはっきりしない。ゲームばかりやっているからだなんて志保は言うけれど、志保だって時々頭を抱えているのを知っている。
志保ものろのろと起き出して、カーテンを摘んで窓の外を見た。
カーテンの後ろにいつものように町が一望できる時がくると思って、起きるたびに正太もそうやって窓の外を眺めていた。だが、今はもう外を眺めることもしなくなってしまった。──どうせ、外には何もないのだ。
「あのね、相談なんだけど」
窓の外を見るのをやめて、志保が心許なげに呟いた。
「なんだよ」
「今からでも、皆みたいに外に何かがないか探しに行かない? いつか霧も晴れると思ったけどいつまで経っても変わらないし、このまま待っても……」
「無理だ」
「無理なのはわかってるけど、このまま水だけで生きるのだってもう無理だよ。まだ体力が残ってるうちに行動しないと」
「出るなら初日に出るべきだった。体力が残っているうちなんて言うけど、もうとっくに、霧の中をウロウロする体力なんてないだろ。それに……みんなだってどこかに着けた保証なんてないし」
正太が言い訳するように口を尖らす。
それに答えたのは志保ではなく、健一だった。
「そうだ、ここにいた方が良い。助けを待った方が良い」
二人の声に目が覚めた健一が、横になったまま正太の言葉に続けて言った。健一は教室に残った六人の中では唯一の運動部で、いまいる中では一番体力だって残っている。そんな人物に否定されれば、志保の意見は穴の空いた風船のように少しずつ萎んでいった。そもそもが、実行できるかもあやしい不安定な意見なのだ。
けれどそれ以上にはっきりわかっていることがあるのだと、志保は俯く。
「──助けなんてこないよ」
「それでもあんなとこうろつくよりマシだ。俺はもう外になんて……水を汲みにだって本当は行きたくない」
「どうしてそこまではっきり言えるの? だって、霧があるだけじゃない。確かに迷っちゃうかもしれないけど、今だって既に迷ってるみたいなものなんだし。──もしかして外に何かいたの?」
それ以上健一は答えなかった。背を向けて横になったまま、縮こまってしまった。
仕方ないな。と、ペットボトルにいれた水で口を湿らせてから正太はぽつりぽつりと話しはじめた。
「志穂は……というか、今いるうちじゃ俺と健一以外は見てないか。最初、鈴木先生が出て行った後に、みんなで探しに行っただろ」
秋休み前のあの日は朝から町全体が靄掛かっていて、授業が始まる頃には窓の外から校庭も見えない程の霧になっていた。この地域にしては珍しい霧だと、窓から何も見えない小さな不思議にみんなはしゃいでいて、先生たちも「こんなに濃い霧は始めてだ」と、授業が始まるたびに言われた日だった。
三時間目、数学の授業の後に、担当の鈴木先生が教室を出ようと廊下への扉を開けた時、この教室が元の世界から切り離されたことにようやく気付いたのだ。
扉を開けると廊下はなく、霧と土ばかりが広がっていた。教室の周りをぐるりと一周すると、廊下側の掲示板や隣のクラスの黒板が張り付いていて、屋根には上の階の椅子と机が取り残されたかのように残っていた。
授業が始まる時に、上の階で椅子の引きずる音がしたから間違いなく上には人がいたはずだ。それなのに、廃校舎に残されたかのように、綺麗に並んだまま残っていた。
鈴木先生は、扉を開けると時が止まったかのように暫く呆然と立ち尽くしていた。それでも好奇心の強い生徒たちが外に飛び出して行くと、我に返って叫んだ。
「待ちなさい、外にでないように! 何があるのかわからないから!」
その時の鈴木先生は、とにかく生徒たちを教室に押し込めることこそが唯一の安全だと思っていた様子だった。最善かどうかはさておき、間違ってはいなかっただろう。
押し込んだ後でも鈴木先生は頭を抱えながら外を見た。「何があったの?」「どうなったの?」「ここどこ?」と、自由気ままに質問してくる生徒たちをなんとかなだめながら、どうにか現状を把握できないか、それともこれは夢なのか、打開策をつかもうと外を見ていた。そして意を決したように、教員用の巨大な定規を抱えた。
「外の様子を見に行ってくるので、先生が返ってくるまでは皆はここからでないように!」
「先生、トイレ行きたいです」
「男子は外でしてこい。女子はええと……すまんが何か考えてくれ。ただし、皆一人では出歩かないように! 特に見通しの悪いところに行くときは場所がわからなくならないようにするんだぞ」
そう言いながら、迷わないように地面に線を引きながら霧の中に消えていった。
それが鈴木先生を見た最後の姿だった。
いくら待っても返ってこない鈴木先生に焦れた数人が集まって、地面に続く線を辿って追いかけた。正太も健一も、彼らに続いて線を辿って霧の中に入った。霧は濃く、右も左も同じような景色のせいで線がなければすぐに方向を見失いそうだったが、幸いにも数メートル先の仲間の姿を見失うほどではなかった。
そうしてどれ程歩いただろうか。地面に続く線は突如途切れた。線が消えたというよりも、線があった地面ごと抉られていた。鈴木先生はそこにはもういなくて、えぐられた地面に沿うようにぺったりと、赤い何かが塗りたくられていた。そしてそれと一緒に、鈴木先生の服と思われる布の切れ端もこびりついていた。
それからは少し慌ただしかった。生徒の一人が驚いて叫んで走り去って、それを追いかけてもう一人が霧に消えていく。健一も走り出そうとしたので、正太はその手を引いた。
「そっちは道しるべがないし、離れるのは危ないよ」
「……は? じゃあ、あいつらはどうするんだよ」
「自分の足跡でも辿って戻ってくるんじゃね」
「そうかな……じゃあこれからどうする? 鈴木のやつ結局いなかったけど二人が帰って来るの待つ?」
「俺は帰る。あの二人がいつ戻ってくるのかもわからないし、地面を削るような何だかよくわからないやつがいるってわかったし、早く帰りたい。待ってたいやつは待っとけばいいんじゃない」
お前薄情だな。と誰かが言おうとして、誰もがその言葉を飲み込んだ。薄情だと言ってしまえば、このまま帰ることはできなくなってしまう。
誰かが「帰ろうか」と言い出して、誰の指示でもなくぞろぞろと線を辿って教室に戻った。あの場所で待ったのか、途中ではぐれたのかはわからないが、帰ってきた時には更に三人が減っていた。そして、合計五人はもう帰ってこなかった。
あとは単純な話だ。教室には何も物資がない。各々持ってきていた弁当を食べ終えて、それぞれのペットボトルの中身も無くなって、空腹の中で一晩を過ごした後に『助けを待つ派』と『助けを探しに行く派』に別れた。
そして、この短い時間の中で、二つの派閥が分かり合える時はこなかった。
「それじゃあ、俺達は行くけど、本当にここに残るんだな?」
持ち物と言えるものは殆どなかった。文房具と自分の鞄と運動着、それからペットボトルに詰めた飲めるかもわからない水たまりの水くらいだが、それでも持てるだけの持ち物をかき集めて、彼らはそう言った。
「そっちこそ、本当に行くのか? 何があるのかわからないし、それにお前だって見ただろ、鈴木の……」
「そうだとしても、残ってたって仕方ないじゃないか。食べ物も飲み物もない。明かりはなんでか付いてるけど、それだけなんだから。一か八かでも……せめて視界が通る場所には行きたい。もし助けが呼べそうだったらまた来るから」
「こっちも、もし助けが来たら探しに行くよ」
お互い頷きあった。駄目かもしれないけど、と呟く彼らの顔は明るかった。ちょっとした冒険気分らしい。気持ちはわかる。その時はまだ夢の中にいるような、現実的でない、ふわふわとした気持ちだった。
そして、彼らの姿を見送った後にクラスメイトの一人が呟いた。
「馬鹿な奴ら。ここは異世界で、物語みたいに誰かに召喚されてここにきたとかかもしれない。それだったら、下手に動くと見つけてもらえなくなっちゃうかもしれないのに。外に行ったら、モンスターだっているかもしれないのに」
誰もその言葉には反応はしなかった。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。判断できる材料はひとつとしてない。過去かもしれないし、人類が滅びた後の未来かもしれない。そして彼の言うとおり異世界かもしれない。
だけど、もし誰かに召喚されたという夢物語が事実だとして、では召喚した人物は一体どこにいるのだろうか。結局のところ助けがこないうちには、何も判断できないのに。
──ヒーローになれる世界があるのだったら、最後の一人になるまで殺しあわないといけない世界だってあるかもしれないのに。
ただ、日が経つにつれ、モンスターがいるかもしれないという仮説は信憑性を増してきた。
昼には、何かぺたぺたと蠢く音が聞こえる。夜は、静まり返っているはずなのに何かの気配を感じる。足音はない、獣ではない、風の音とも違う。近付いてくることはないけれど、こちらを伺っている気がする。
そこまで話して、正太は一息ついた。
「最初は、ストレスからくる幻聴か何かだと思ってたんだけど」
「だけど?」
「夜にどうしてもトイレに行きたくなって外に出たんだ。流石に一人じゃ怖くて健一についてきてもらってさ。そしたら……霧の向こうからじっとこっちを見てる影があったんだ。ひとつやふたつじゃなくて、教室を囲うように一面に影があった。教室の近付いてくる様子はなかったから、多分光が苦手なんじゃないかな」
正太の言葉に、知らんふりを続けていた健一が、思わず文句をつけた。
「お前についてったせいで俺は外が怖くて仕方ないよ」
「ごめんって。だけど何かがいるって先にわかってよかっただろ」
「それはそうだけど──」
健一は一度言い淀んで、やっぱり違うかなと肩を落とす。つい一週間前までの体躯の良い健一の背中が、今は洗いすぎたシャツよりも萎んで見えた。
「何もわからないまま死ぬのと、怯えながら餓死するのとどっちが良いかの違いしかない。俺は、結局ここから出れなくなっただけだ。もうどこにもいけないし助けはこない。というか、同じものを見た癖によく平気だよな、お前」
「やばそうなのがいるってはわかったけど、霧の向こうであんまりよく見えなかったし、正直そこまで」
「正太は目が悪いうえに鳥目なんだもん。ゲームのやりすぎなんだよ、そろそろ画面の向こうの世界じゃなくて、自分の目で現実を見ようよ」
「なんだよ、志保だってさ、やらなかったらなかったで、ゲームしないのって言ってきたじゃん」
「お前らは、こんな時でも元気だよな」
健一は目に力を宿すことなく静かに笑った。そしていつものように体を丸くして横になった。もうこれ以上話をするつもりはないらしい。ここに残ったクラスメイト達はみんなこんな様子で、健一はまだマシな方だ。大体は顔を上げることすらしてくれない。
そんな様子を見るたびに、正太はしょぼくれた気持ちになった。結局のところ、未知の世界に足を踏み入れる度胸のない人だけが教室に残った。そんな度胸のない人だけが残ったので、お互い争いもなく、何をするでもなく、泣き言を言いながらただただ大人しく助けを待ち望むしかなかった。
勿論、残る選択が間違っているとは今でも思っていない。それでも気落ちはする。
「水を汲んでこようかな」
誰に聞かれることなく正太は呟いた。ペットボトルの水は無くなっているし、辺りが暗くなる前に補充はしておきたい。志保だけが「私も行こうかな」と言って、教室を出る正太の背中を追う。
教室を出てしばらく歩いたところに水場はある。水たまりはあちこちにあるけれど、その中から最もましだと思うところを選んで水汲み場にしていた。濾過をするにもまともな材料もないので掬ったままそのまま飲む。なんとも汚い気がしたし、腹を壊すのではないかとはじめは怯えながら口にしていたけれど、一週間飲み続けても体調に変化はないので問題はないらしい。
志保は一緒についてはきたが、特段話がしたいわけでもないようだった。会話をするわけでもなく、正太と同じように水を汲む。言いたいことはもう十分言ったのだろう。死を待つだけのここを離れてどこかに行きたかった。けれど勝算も計画もないから強く言う程のことでもない。
正太とて気持ちはわかる。そして今いるクラスメイト達も、行動に移せないもののきっと同じ気持ちだ。
──教室に戻りたくないな、と正太は思った。考えが現実になったかのように志保が小さく叫ぶ。
「ねえねえ、あそこ、人影見えない?」
「どこ? 見えない」
「目悪いなあ。あそこの大きな木のあたり。もしかしてレスキューかな、警察かな、自衛隊かな?」
志保が正太のずっと後ろを指さした。
霧のせいではっきりは見えないけれど、確かに人くらいの大きさの人影が動いている。
この霧の中で「何かが動く」のを見るのははじめてではない。ないが、それはどれも巨大な虫のような、甲殻類のような、魚のような影をしていた。今回見えたのはもっと小さくて縦に細長い影だった。それが二つ、ゆらゆらと近づいてきている。
「そんなまさか……。だけどほんとだ、人が……」
いる、と言いかけて、正太は慌てて手で自分の口を塞いだ。
山賊のようだったのだ。正太は勿論盗賊も山賊も見たことなどないが、少なくとも彼らがまっとうな道を歩んでいる人間には見えなかった。
ぼろぼろの服に革の鎧を身につけて、腰からは抜き身の剣がぶら下がっている。表情まではわからないが、体躯からは二人ともやせ細っていることはわかった。まるで飢えた獣のようで、辺りを警戒しつつ歩いており、見つかればすぐさまその腰の剣で切りつけられそうだった。
彼らは吸い寄せられるように教室に近づいていった。そして、静かに教室の周りを一周ぐるりと回ってから、そっと扉に手をかけて勢いよく中に入っていく。
──二人が様子を伺えたのはそこまでだ。
扉がすぐに閉じられてしまったせいで、それ以上のことはわからなかった。だから精一杯耳を澄ましてみたけれど、教室の中からは何も──少なくとも悲鳴は聞こえなかった。何かを話しているかどうかまでは、遠さのせいでわからない。そして、近付く程の度胸はない。
志保が正太のシャツを掴んだ。
「こ、声とか掛けそびれちゃったけど、あの人たち、警察じゃないよね?」
「バカ、どこをどうみたら警察に見えるんだよ。だけど、少なくとも人が絶滅した世界じゃないってことだけはわかったな。あとはあの人たちが、やばい人かどうかってところだけど」
「どうする? 私たちも行ってみる?」
「悪い人たちじゃなくても、見た感じ食料を分けてもらえそうにはないし。やばい人たちだったら、僕らが行ってもなんの役にも立たないし、とりあえず様子見じゃないか? もし優しそうな人だったら、健一あたりなら呼びにきてくれるかもしれないし」
志保は少し考えた後に、そうだね、と相槌を打った。
そして教室の外には誰も出てこなかった。何かあったのだろうか、それとも何もないのだろうか。
助けに行くことも逃げることもできぬまま日は落ちた。