001 AMラジオのアンテナの先端部分のゴムキャップを製造販売する零細企業の事務職
夜の九時が過ぎ、この日の残業が、ようやく終わった。
雪美は、肩に羽織っていた制服を脱ぎ捨てると、さっさとオフィスを離脱しようと、エレベーターに乗り込んだ。
◇
──玄界灘雪美は、イライラしていた。
彼氏いない歴イコール年齢の二十七歳。
趣味は、ひとりで酒を呑むこと。
職業は、AMラジオのアンテナの、先端部分の黒いゴムキャップを製造販売する零細企業の事務職だ。
給料は年々下がり、この業界の先行きが暗いことは、誰の目にも明らかだった。
かつての友人たちは、次々と結婚してゆき、専業主婦になった者も少なくない。
「はぁっ…………!」
エレベーターの中で、思わず、大きな溜め息が漏れた。
「センパイ? 溜め息から、生ゴミみたいな臭いがしますよ?」
そう言って屈託なく笑い掛けてきたのは、先にエレベーターに乗っていた新入社員の伊藤妙だ。
「大きなお世話だよ」
「お酒の飲みすぎと、煙草の吸い過ぎには、気をつけてくださいね」
そんな言葉を口にして、妙が花のようにふわりと微笑む。
程なくしてエレベーターは、一階に到着し、大袈裟な音を立てながら、扉が開いた。
「センパイ、お疲れさまでしたー! お先で~す!」
彼女はそんな挨拶を雪美に残し、軽やかにエレベータから外へと駆け出す。
妙の溌剌とした声と、輝くような笑顔が、雪美の鼓膜と網膜に、しばらくの間、貼り付いていた。
✣
帰宅すると、雪美は迷うことなく、黒霧島をロックで飲み干した。
その黒霧島は、雪美の部屋の真ん中に置かれた、ちゃぶ台の中央にいつも鎮座していた。
……まるで雪美が暮らすワンルームマンションの守り神のように。
酒の肴はいつものように、値引きされたスーパーの惣菜だ。
酒がすすむと、今日のエレベーターでの妙の言葉が、自然と頭の中で思い起こされ、思わず一人で笑ってしまった。
ハハ、息が生ゴミのようだと?
雪美は、セブンスターに火をつけた。
──伊藤妙は商業高校を卒業し、今年入社したばかりの十八歳の女の子。
小柄で愛くるしい雰囲気のカワイイ女子で、その容貌はリスのような小動物を連想させた。
そんな彼女は気配りも出来、仕事にも一生懸命取り組む、明るく元気な頑張り屋さんだ。
当然の如く、社内のオッサンたちは、彼女の虜になっていたし、若い男性社員の間でも、彼女を狙っている輩は多い。
言ってみれば職場のアイドル(十八歳)である。
そんな彼女は、何故か最近、何かにつけて雪美にしつこく絡んでくる。今日のエレベーターでの一幕も、そうした流れの延長だ。
妙は、どんな失礼な発言をしても、笑って赦せてしまうような、不思議な魅力の持ち主だった。
得な女だ。
妙を見る度、雪美はそう思った。
◇ ◇ ◇
翌朝、いつもどおりに出社すると、いつもどおりの職場がそこにはあった。
妙は出勤してくる社員たちに、「おはようございまーす!」と、いつもと変わらぬ元気さで挨拶をしていた。
そんな妙を見て、雪美の方から先に声を掛ける。
「おはよう、伊藤さん」
その雪美の言葉に、妙はいつものように、「おはようございまーす!」と元気に挨拶を返す。
だが、この時、何故だろう。雪美は妙の声の抑揚に、いつもと異なる微かな違和感を感じた。
だけど、そんな些細な違和感は、始業とともに始まる日々の雑事に掻き消され、すぐに意識の外へと放逐される。
斜陽産業のトップランナーのような、こんな零細企業でも、それなりにやることはあった。
そして、玄界灘雪美は、他の社員より明らかに多忙であった。
その原因は……とある女の所為である。